複数の人と同時にそれぞれが合意の上で性愛関係を築くライフスタイル「ポリアモリー」。近年、ポリアモリーという言葉は、セクシュアルマイノリティ界隈から始まってスピリチュアルやアートの世界に広まり、最近はナンパ師界隈やアダルト業界、起業家界隈などにも知られてきているようだ。今回は、そのなかでも私が気になっている、二次元コンテンツの世界(つまり、マンガやアニメなど)において表現されているポリアモリーについて考えていきたい。
ポリアモリー的な関係が描かれたマンガ・アニメ
最近のポリアモリー作品(作中に「ポリアモリー」という言葉が出てこなくても、 “二股や浮気でなく、全員の合意があるポリアモリー的な関係性” が描かれているもの)を、いくつか取り上げる。
マンガ『あの娘にキスと白百合を』缶乃
中高大一貫の女子校を舞台に繰り広げられる、少女たちの恋とキスの物語。
オムニバス形式で様々な少女たちの恋物語が展開するなか、「あのキス」6巻では、朝倉亜麻祢・夕凪仁菜・比留間諒の3人が互いに想い想われる・・・・・・という恋愛模様が描かれている。
マンガ『合格のための!やさしい三角関係入門』缶乃
大好きな先輩・花巻あきらと同じ高校に合格するため勉強に励む、中学3年生の雪下真幸。そして、あきらの同級生で真幸の家庭教師でもある望月凛。
この3人での恋愛が繊細かつ丁寧なタッチで描かれている作品。
アニメ『君のことが大大大大大好きな100人の彼女』中村力斗
100人もの女性に告白しては振られてきた主人公・愛城恋太郎。
ある日、彼は神社で神様から「お前には “運命の人” が100人いる。しかし、運命の人と付き合って幸せになれなかった場合、その相手は死ぬ」と告げられる。
お告げ通り恋太郎は次々に “運命の人” たちと出会い、誰をも死なせないために、全員と恋人として交際していく・・・・・・!! という壮大(?)なラブコメディ。
アニメ『カノジョも彼女』ヒロユキ
主人公・向井直也は、ずっと好きだった幼なじみの佐木咲とお付き合いを始めたものの、ほどなくして同学年の水瀬渚からも告白される。
そして悩みぬいたあげく、両者合意のもとでの “二股交際” と3人での同居を始めることに。
そんな1人の彼氏と2人の彼女達との交際、さらには直也に片想いする星崎理香と桐生紫乃をも巻き込んだドタバタ劇を描いた作品。
男女で異なるポリアモリーのあり方
4つの作品にふれて、気付いたことがある。ポリアモリー作品のなかにも、そのコンテンツが女性向けか男性向けかによるジェンダー差があるように思われるのだ。
ポリアモリー作品のジェンダーギャップ
女性向けコンテンツの「あのキス」ことマンガ『あの娘にキスと白百合を』と、「やさかん」ことマンガ『合格のための!やさしい三角関係入門』に描かれているポリアモリーは 、”複数人が全員で交際する” 形であるのに対して、男性向けコンテンツの「100カノ」ことアニメ『君のことが大大大大大好きな100人の彼女』と、「カノかの」ことアニメ『カノジョも彼女』ヒロユキに描かれているポリアモリーは “1人の主人公が複数人と交際する” 形をとっている。
(ちなみに、3人でカップルになるポリアモリーにおいて、3人が3人全員と交際する形を「トライアド」、1人が2人と交際する形を「ヴィー」と呼ぶ。)
女性向けコンテンツにおいて、1人の女性が2人の男性によって取り合いになる構図は、最終的に女性がどちらか片方の男性とだけ結ばれる二者択一か、もしくは誰も選ばない結末になりがち。
男性向けコンテンツは「1人の男性と複数の女性」によるハーレム構造が基本形になっていて、恋愛と友情とは明確に分かれていることが多いように思う。
ポリアモリーにおいて、女性が複数か、男性が複数かでカップルの様相が変わるという「ポリアモリーにおけるジェンダーギャップ」。現実のカップルだけでなく、二次元コンテンツであるフィクション作品として描く場合にも、このジェンダーギャップは表れているといえるだろう。
ポリアモリーの百合とBL
また、 “百合” や “BL” ・・・・・・いわゆる同性愛を描いた二次元コンテンツにおいて、ポリアモリー百合はあっても、ポリアモリーBLはあまり描かれていないことも気になっている。
これにはどういった背景があるのだろうか?
まず、女性同士の関係性を描いたコンテンツにおいては、友情と恋愛感情の境目が曖昧なことが多く、表現として友人関係でも恋愛関係でもあるような “百合関係” とポリアモリーとの相性が比較的良いのではないか、と思う。
(「友情と恋愛感情の境目が曖昧」という意味では、女性同士が親密になる作品はクワロマンティック的に解釈できることも多いと感じる。クワロマンティックについては、「『クワロマンティック』とは何か? 恋愛感情と友情を区別しない」も参照されたい)
そして、ポリアモリーBLがあまり描かれない背景には、いわゆるBLにおける “カップリング文化” があるのではないだろうか。
BLによく出てくる “攻め×受け” というカップリングの概念が、非常にモノガミー的(しかも、セックスを中心とした性愛関係における役割が固定されている)なのだ。
ちなみに私自身、高校生の頃はいわゆる “腐女子” としてBLを描いていたが、当時から攻め×受けが固定されたカップリングを息苦しく感じて、リバ《リバーシブル。攻めと受けを固定しないカップリング》ばかり好んで描いていた。
こういった、役割を固定して恋愛関係を描くような文化のなかでは、ポリアモリー的な関係性はなかなか描きづらいのかもしれない。
ポリアモリーとモノガミーの関係性
今回挙げた4つの作品にはどれも、嫉妬や独占欲といった感情が否定されずに描かれている点も印象的だ。どの作品にも3人以上での親密な関係性が出てくるものの、最初から必ずしも登場人物全員がポリアモリー的なわけではない。
向き合うことで変化していくキャラクター達
「やさかん」の花巻あきらや「あのキス」の夕凪仁菜、「カノかの」のヒロイン達は、初めは嫉妬や独占欲を感じていて「本当は1対1で愛し合いたい」と思っている。
しかし、自分の気持ちや好きな人の気持ち、さらには好きな人の好きな人の気持ちに向き合ってコミュニケーションを重ねるなかで、少しずつ全員が歩み寄っていく。
最終的にはポリアモリー的なお付き合いになるとはいえ、「ポリアモリー側がモノガミー側を無理やり言いくるめる」ような展開ではなく、全員が全員のことを思うなかで変わっていくのだ。
この「嫉妬や独占欲の描写」や「変化していくキャラクター達」の存在がとても重要なのだと感じている。たまたまポリアモリーとかモノガミーという名前がつく性質や属性だったとしても、どんなカップルもそれ以前に「私とあなた」なのだ。
「ポリアモリーだから」「モノガミーだから」という属性で括ってしまっているうちは、個人と個人の向き合いにはなりきれないと思っている。それよりも、私がどうしたくてあなたはどうしたいのか、ということをお互い諦めずに話し合うことが大切なのではないだろうか。
ポリアモリーとモノガミーのコミュニケーション
ポリアモリーは世間から「ポリアモリーはポリアモリー同士だけで恋愛しろ」「ポリアモリーはモノガミーに手を出すべきではない」という意見を受け取ることもある。
ポリアモリーは、モノガミーにとっての脅威と見なされることがあるようだ。
しかしポリアモリー当事者たちの現実の交際状況を数多く見ていると、ポリアモリーとモノガミーとで付き合っている人の方がどちらかというと多いという実感がある。
性質や価値観が違っていたとしても、1人の人間同士としてコミュニケーションを重ねているポリ-モノカップルがほとんどだ。
その現実がもっと知られてほしいと思う時、二次元コンテンツにおいてポリアモリーとモノガミーのキャラクター同士が丁寧な話し合いを経てお互い変化していく・・・・・・というリアルな描写に、当事者として励まされている。
フィクションとしてのポリアモリー
私自身ポリアモリー当事者として、本を出したりイベントを企画運営するなど、十数年のあいだ発信を続けてきている。
フィクションとしてのポリアモリー表現の意義
私個人の考え方や経験は当事者である私にしか発信できないけれど、同時に「当事者だから」こそ、自分の発信にある種の限界があるとも感じる。
そもそもポリアモリー当事者としての心のあり方や価値観を、非当事者に共感的に理解してもらうのは難しい(もちろん、必ずしも自分の感覚として ”理解” してもらう必要性はないと思っているけれど)。
そんな時、マンガやアニメなどの二次元コンテンツとして作られたフィクションのポリアモリー作品なら、非当事者にとっても感情移入しやすいものになるのではないだろうか。
そういう意味では、フィクション作品に表現されているポリアモリーは、当事者の発信とはまた別の意義をもっているといえるだろう。
ポリアモリー作品の広がりへの期待
今回は最近のポリアモリー的な二次元コンテンツ作品4つを紹介すると共に、女性向けコンテンツと男性向けコンテンツにおけるポリアモリー的関係の描かれ方の違いを検討した。
また、こういったフィクションの形式をとってポリアモリーが描かれることの意義についても考察した。
昔は、三角関係は必ず誰かにとっての悲恋に終わるような展開がお決まりだったと思う。今は、3人であっても同性同士であっても幸せになれる、という表現が描かれるようになってきている。
時代の変化と共に、ポリアモリー的な関係性が描かれやすくなってきているのではないだろうか。
二次元コンテンツにおけるポリアモリー表現は、まだまだ始まったばかりだ。これからも、もっと新しい展開や広がりが期待できるのではないかと思う。今後もさまざまなポリアモリー作品が生まれてくることが楽しみでならない。