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Writer/きのコ

「クワロマンティック」とは何か? 恋愛感情と友情を区別しない①

「恋愛感情と友情の違いは?」。いつの時代も人々を悩ませてきた、究極の問いではないだろうか。その違いはたとえば、会いたくなる頻度だろうか? それとも、性的欲求の有無だろうか。あるいは「友人は複数いるけど、恋人は1人しかいないもの」と考える人もいるかもしれない。この記事では「現代思想」2021年9月号「特集=〈恋愛〉の現在――変わりゆく親密さのかたち(http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3597)」に中村香住が寄稿している「クワロマンティック宣言 『恋愛的魅力』は意味をなさない!」を参照しながら、恋愛感情と友情を区別しない「クワロマンティック」について考えていきたい。

クワロマンティックとは何か

自分の友人が他の人と仲良くしているのを見て嫉妬心や独占欲を感じたことで「この気持ち・・・・・・もしかして、恋?」と気付くみたいな展開。映画や小説の主人公ではお約束だし、「男女の間に友情は成立するか」という議論をしたことのある人も多いだろう(もちろん、ヘテロセクシュアルという限定的な文脈におけるテーマではあるが)。このように恋愛感情と友情を区別しようとする議論はさまざまあるが、そもそも人はなぜ、恋愛感情と友情とを区別するのだろうか。

クワロマンティックというアイデンティティ

クワロマンティックは「自分が他者にいだく好意が恋愛感情か友情か判断できない/しない」ことと定義される。相手に好意を感じているけれど、それが恋愛感情なのか友情なのか区別がつかない(区別したくない)、恋人になりたいのか親しい友人になりたいのか分からない(決めたくない)というものだ。

中村によれば、「『クワロマンティック』はもともとの意味としては『友情か恋愛感情かの違いが見分けられない』という意味では必ずしもない。もっとラディカルな態度を含んだアイデンティティである」という。

つまり、クワロマンティックは「恋愛感情と友情が区別できない」という状態のみならず、むしろ「区別したくない」という態度や主義でもあり得るのだ。

クワロマンティック当事者の中には、「恋愛の指向」や「恋愛的魅力」といった概念にフラストレーションを感じ、こうした「恋愛の指向」「恋愛的魅力」モデルに積極的に抵抗する人もいる。

クワロマンティックとしての私

私自身もクワロマンティックであるといえるだろう。

私は恋愛感情と友情の区別がつかない・・・・・・とまではいわないけれど、それらを区別することに何の意味があるのか? と感じている。

さらにいえば、恋愛感情と友情とに優劣をつけて「恋愛感情は友情よりも尊くて大切なもの」とする価値観には強い違和感がある。「恋人ですか?」と訊かれて「ただの友人です」と返す人がいるけれど、「ただの」って何なのだろう。

私だったら、自分の友人が私のことを「ただの友人」と表現したら、関係性を重要ではないものとしてカテゴライズされたようで悲しくなるかもしれない。

感情と人間関係は変化するもの

区別できない恋愛感情と友情

そもそもジェンダークィア(ノンバイナリー)である私は、自分のジェンダーが女性とも男性ともつかない以上、異性愛とか同性愛といった文脈には乗りづらい。自分のジェンダーが不定なのだから、相手と自分とが「異性だから恋愛感情、同性だから友情」という区別が当てはまらないのだ。

さらに、ポリアモリーでもある私には友人も恋人もそれぞれ複数いるので、恋愛感情と友情とを「対象が1人か、複数人か」と区別することもできない。

独占欲はそもそも誰に対しても感じたことがないし、嫉妬心はなくはないけれど、恋人だけでなく友人関係の中にも嫉妬は生まれ得るものだと思っているから、「嫉妬を感じたら恋愛感情」というわけでもない。さらにいえば、嫉妬心というのは人間に対してのみ向けられるものとは限らない。恋人が私よりも仕事や趣味をあまりにも優先しすぎるなら、私は相手の仕事や趣味に嫉妬を感じるだろう。

ちなみに性欲は恋愛感情や友情ともちろん相関もするものの、根本的にはまた別のベクトルをもつ感情だと捉えている。恋愛感情や友情とは関係なく、相手に性欲を感じることだってある。だから、「性欲を感じたら恋愛感情」という区別もできないと思う。

恋愛感情と友情 のグラデーション

恋愛感情と友情との違いが分からないなりにあえて表現するなら、それはグラデーションの濃淡のようなもの、そしてその濃淡は振り子のように揺れ動くもの、といえるかもしれない。

同じ相手に対して、恋愛感情のような気持ちを感じることも友情のような気持ちを感じることもあるし、その感情の比率は人によって違う。たとえば、「あの人には80%の恋愛感情と20%の友情を感じるけれど、この人には40%の恋愛感情と60%の友情を感じる」といった具合だ。

さらに、それらの感情は波や振り子のように揺らいで変化することもある。

「先月はあの人に恋愛感情(というか、激しい好意)を感じていたけれど、最近は友情(穏やかな好意)を感じている」
「去年に比べて、今はよりロマンティックな関係になっている」
「先月はセックスしたい気持ちがあったけれど、今はそうでもない」

などと移り変わることもよくある。

私の場合誰に対しても、相手への感情やそれに伴う人間関係は、ゆっくりとあるいは急激に常に変わってゆくものだ。関係性にいちいち “恋人” とか “友人” とか名前をつけてしまうと、その関係性の内容が変化したときに齟齬が生まれて、場合によってはつらくなってしまうかもしれない。

私はクワロマンティック

好意があればそれでいい。だから私は自分をクワロマンティックだと思っている。

以前は自分をパンロマンティックやパンセクシュアルと名付けていたが、今は「あらゆるジェンダーの人が恋愛対象になる」というより「あらゆるジェンダーの人に対する好意を恋愛感情か友情か区別したくない」という感覚の方がより実感として近い。

私にとっては、好意があればそれでいいし、その好意が恋愛感情か友情かを区別する必要性を感じない。さらに極論すれば、誰か特定の相手に対する感情は常にそれぞれの関係性に固有のものだと思っている。

次回はその感覚について説明していこうと思う。

 

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