SNSで見かけたタイトルに惹かれて、個人や企業が自由に作成できる雑誌「ZINE(ジン)」を購入した。そのときからずっと、「パートナーシップ」について考え続けている。私が今「レズビアンだ」と名乗ることができているのは、同性のパートナーがいるからだろうか。もしパートナーがいなくても、私は自信をもってレズビアンを名乗ることができるだろうか。
パートナーがいないと、レズビアンとは名乗れない?
10代から20代前半の頃、私は自分のセクシュアリティに迷いを感じていた。
「自分はレズビアンかもしれない」という思いにすら、自信がもてなかった頃
中学生の頃から何度も、同性の先輩や後輩に心惹かれることがあった。
「ただの気の迷いだ」と母親に言われ、そうなのか、と自分を納得させようとしていたけれど、どうしようもなく同性の友人を好きになってしまったことでようやく、「これは恋愛感情だ」と気がついた。
しかしながら、どうしても自信をもって「私はレズビアンだ」と思うことができなかった。
その理由は、「自分がLGBTQ+であることを受け入れられなかったから」ではない。
誰とも恋愛関係になったことがなかったからだ。
「自分はレズビアンかもしれない(というか、おそらくたぶんそう)」という意識は、私を年々焦らせた。
ただ片想いをし続けているだけでは、私が本当にレズビアンかどうかなんて誰にもわからないのでは?
もし仮に男性とお付き合いをしてみたら、「やっぱり違った、私は異性愛者だ」と思う可能性もあるのでは?
そんなはっきりしない情報を、周囲を混乱させてまで伝える(=カミングアウトする)必要があるのか?
「自分はレズビアンかもしれない」と気づいた日から実に8年近く、私は悶々とし続け、焦り続けた。
「女性でも男性でもどちらでもいい、早く誰かとお付き合いをしてみて、自分の気持ちをはっきりさせたい」と思ってしまうほどに。
『独りでも可視化されたいレズビアンの日記』との出会い
先日、『独りでも可視化されたいレズビアンの日記』というタイトルをSNSで見かけた。
著者の瀬川貴音さんが「独り身であるレズビアン」として、日々思うことについてエッセイ形式でまとめたZINEを作ったのだという。
タイトルを見た瞬間はっとして、迷うことなく電子版を購入した。
「レズビアンといえば、どうしても誰かとのパートナーシップが前提にその存在が描かれることが多い。けれど私は、独りでいるレズビアンの物語だって切望していた」という冒頭の文章が、やけに心に刺さった。
私自身、「同性のパートナーがいなければ、自分はレズビアンだとは名乗れない」と思ってしまっていたことに気がついたのだ。
購入した電子版のZINEをゆっくりと読み進めながら、私は「レズビアン」というセクシュアリティと、パートナーシップの有無について考えをめぐらせた。
パートナーと出会ってから変わった、「カミングアウト」の重さ
現在、私は同性のパートナーと一緒に暮らしている。
人生で最もカミングアウトのハードルが低い時期
一緒に住むにあたって県をまたぐ引っ越しをしたので、引っ越して2年経っても未だに「なぜその県に住むことにしたの?」と知人から聞かれることがある。
そして、私はその度に「お付き合いをしているパートナーと一緒に暮らすため」と答える。
関係性の近い人に聞かれた場合は、「彼女と一緒に暮らすため」と、パートナーの性別が伝わりやすい言い方をすることもある。
現在、私がカミングアウトをする場面といえば、ほぼそのパターンだ。
話の流れとして不自然でないカミングアウトだし、相手も「そうなんだ、楽しそうでいいね」と好意的な反応を返しやすい。ありがたいタイミングで自分のセクシュアリティを伝えることができたな、とよく思う。
ただ、同時に、「私に今パートナーがいなかったら、私はこの人にカミングアウトすることはなかっただろうな」とも思うのだ。
「レズビアンだけどパートナーがいない」というコンプレックス
現在のパートナーと出会う前、「カミングアウト」は私にとっても言われる相手にとっても、かなり重い行為だったように思う。
「重い」というのは、私が無意識のうちに求めていた「自分のセクシュアリティを受け止めてほしい」という、相手への欲求の大きさのことだ。
当時、私の周りにはLGBTQ+を公言している知人は少なかった。
あたりまえのように私を異性愛者として扱い、異性との恋愛を前提として話をされることが苦しかった私は、「自分のことをわかってほしい」という思いで知人にカミングアウトしていた。
それ自体はとても意味のある、大事なことだったはず。
しかしながら、カミングアウトした後で私が話すことといえば、
「まだ女性と付き合ったことはなくて」
「だから自分でもよくわかっていないんだけど・・・」
「レズビアンって恋愛するのが難しいよ」
などの愚痴ばかり。
要するに、「自分のことをわかってほしい」という思いと、「パートナーがいない自分の寂しさを受け止めてくれ」という無意識の押しつけがセットになった状態だったのだ。
今思い返してみると、当時カミングアウトした相手には本当に申し訳ないことをした。
それもこれも、私の中に「パートナーがいないのは寂しい」「パートナーがいなければレズビアンとは名乗れない」という思い込みがあったせいなのだろうな、と思う。
恋愛しない友人から教わった、パートナーの有無とは関係のない価値
私の友人に、アロマンティック・アセクシュアル的な性質の人がいる。彼女は、自分でそれらのセクシュアリティを認識しているわけではない。
恋愛関係とパートナーシップに縛られていた、私の価値観
彼女から何度か「誰かと恋愛したいと思わない」「恋愛そのものに興味がない」といった内容の話を聞き、私は「そうなんだね」と答える、という関係が続いている。
彼女と他の友人を交えて話していると、私たちが普段いかに「恋愛至上主義」な社会で生きているかを実感させられる。
彼女に対して「モテるでしょ?」「付き合っている人いないの?」「そんなに可愛いのにパートナーがいないなんて、もったいないよ!」と悪気なく声をかける友人たちを見ていると、私もそんなふうに言ってしまっていたかもしれないな、と想像してしまう。
私が友人に対して「恋愛してみないの?」「いつかきっといいパートナーと出会えるよ」などと言わずに済んでいるのは、ほんの少しだけどアロマンティック・アセクシュアルの人たちの存在について知っているからだ。
もし知らなかったら、そして以前のような寂しさや物足りなさを抱えたままだったら、私も一切の悪意なく、彼女を傷つけていたかもしれない。
「恋愛関係こそが至高」「パートナーがいてこそ人は満たされるものだ」と、私も心の奥では信じ込んでしまっていたから。
そうしたら、レズビアンである私を自然体で受け入れてくれる彼女との、今のような友情は築けていなかっただろうと思う。
パートナーがいなくても、私がレズビアンであることに変わりはない
「誰とも恋愛しなくていい、一人で十分楽しい」と言う友人と一緒に過ごしていると、自分の価値観が偏っていることに気づく。
私が「パートナーが欲しい」「誰かと恋愛関係になりたい」と切望していたのは、「誰にも求められない自分には価値がない」とどこかで思っていたからだ。
特定の相手と恋愛関係を結ばなければ価値がないなんて、今の友人を見ていたら絶対に思わない。彼女は彼女自身でいるだけですでに揺るぎない価値をもっているし、それは私だって、誰だってそうだ。
でも、以前の私にはそのことが信じられなかった。
現在のパートナーと出会ってから、私の性格について「明るくなったね」「前より態度がやわらかくなった」と言ってくれた人が何人かいるけれど、それは私がやっと思い込みから解放されただけのことなのだ。
パートナーがいてもいなくても、私自身の価値は変わらない。
私がレズビアンであるという意識と、パートナーの有無は関係がない。
たったそれだけのことに気がつくまでに、ずいぶん長い時間がかかってしまった。
パートナーの有無と関係なく、レズビアンとして生きること
この文章を書きながら、ZINE『独りでも可視化されたいレズビアンの日記』を読み終えた。
『独りでも可視化されたいレズビアンの日記』を読んで
今の自分とは異なる立場を示すタイトルだからこそ、「読むべきだ」と直感したのだと思っていた。けれど、読み終わってみると、残った気持ちはゆるやかな「共感」だった。
これはただの妄想だけど、私はきっと、今のパートナーと離れるようなことがあっても、もう必死になって付き合う相手を探したり、誰かと恋愛したいと強く願ったりはしないと思う。
私自身が満ち足りるかどうかは、パートナーの有無とは関係ないのかもしれないと気づいたからだ。『独りでも可視化されたいレズビアンの日記』の、著者の方と同じように。
そしてそのときは、私も「独り身だけどレズビアンである自分」として、あらゆる人に向き合っていきたい。
私がレズビアンであるかどうかは、私にパートナーがいるかどうかとは関係がない。
私は、私自身がレズビアンであることをもうすでに知っている。
恋愛やパートナーシップに限らず、自分と相手を尊重できるように
もし数年前の自分に声をかけることができたら、「大切な関係に、本来名前なんていらないんだよ」と伝えたい。
パートナー、恋人、恋愛関係、ふうふ、家族、きょうだい、友人・・・。
「私はこの人とただ一緒にいたい」「なぜかわからないけど、私はこの人を大切に思っている」という関係性に、無理やりそのような既存の名前を当てはめる必要はない。
「この人のことを恋愛として好きなのか? 友人として/家族として好きなのか?」という問いだって、きっと本来意味がない。
恋愛関係でなくても、誰かを大切に思えること、そして自分を自分として尊重できることが何より重要なのだと、当時の私に伝えられたらいいなと思う。
数年後、それを実感できて、生きるのがずっと楽になるから大丈夫だよ、とも。