トランスジェンダーを説明する際、「心の性と身体の性の不一致」という表現が使われます。ですが、この表現は適切なものでしょうか。いくつかの観点から、この表現の問題点を考えてみたいと思います。
心身二元論の問題
まずは、哲学などの学問で長く議論されてきた、心身二元論という問題を考えてみたいと思います。そこから「心の性と身体の性」と言われる時の、「と」という接続詞の問題を引き出します。
デカルトの「方法的懐疑」
ルネ・デカルトという――皆さんも高校の授業で一度は名前を耳にしたことがあるであろう――フランスの哲学者がいます。デカルトは、「明晰かつ判明な事実」、すなわち疑うことができず、明確に判別された物事を学問における真理とみなし、それを探求しようと試みました。
そのような真理にたどり着くために、デカルトが用いたのが「方法的懐疑」です。平たく言えば、「どんなものでも疑わしいものは疑ってみる」という方法です。この方法を使ってデカルトは、色々なものを疑わしいものとしてことごとく捨象してゆきます。例えば、感覚は暑いと感じたと思ったら冷たく感じたりと変化するために、疑わしいものだとされます。
こうした方法的懐疑を通してデカルトがたどり着いた答えは、こうして疑っているという現象、つまり思考しているということ自体は疑いえないというものでした。ここからデカルトは「私は考える、だから私は存在する」という有名な命題をあらゆる学問の出発点とすることにしました。
心身二元論
ところが、デカルトの結論は大きな問題を生みました。それは心身二元論という問題です。思考することが「明晰かつ判明」なことであるのに対して、感覚が捨象されたように、身体に関わる事柄は疑わしいもの、あるいは思考することとは「違ったこと」となってしまい、心と身体が分離したものとなってしまうのです。これが――心と身体が全く違うものとして分けられてしまうという問題――心身二元論という問題です。
そして、この問題が前提としてある以上、私たちは日々生きている身体というものを、ただの心の入れ物のように考えることしかできなくなってしまいます。
心の性「と」身体の性
この心身二元論という問題をベースに考えてみると「心の性『と』身体の性」という表現における「と」という接続詞は、心と身体が分られるという心身二元論の問題に陥ってしまっていることがわかります。
特に「心の性と身体の性」の「不一致」といった時には、「心の性」というものが何かモノのようにして取り出し可能なように見えてしまいます。性科学という性を扱う学問においても、「心の性は耳と耳の間に、身体の性は足と足の間に」と言われ、「心の性=脳」というまさに「心の性」をモノとして扱う仕方がなされています。
心身の連続性
ここで日常の私たちの体験に立ち返ってみましょう。例えば、悲しい光景をみて「胸が痛む」とか、大変なことを前にして「浮足立つ」といったように、ボクたちはボクたちの経験において心の現れと身体の表現を連続したものとして考えています。
その前提に立つならば、心身二元論という立場そのものが非現実的なものであり――デカルトも身体を捨象したと言いながら、「ペンを持って書く身体」に依存しています――身体を通して、心というものを考えていかなければいけないことがわかります。
身体の多元性
さて、前章の議論を踏まえて、ここでは身体という現象を多角的に見てみたいと思います。
そうすることで、性という現象を「心の性と身体の性」という素朴な心身二元論とは違った観点から捉えたいと思います。
見えない身体
ちょっと身近な例からお話を進めてみましょう。友人で定期的に髪の色を変える方がいます。その方に別の知人が「髪を染め変えるとどう感じますか?」と尋ねたところ、「いや僕には見えないんで」という返答が返ってきました。あまり意識しないことですが―― 他者の身体とは違って――自分の身体をまるごと見ることは――姿見とか大きなガラスとかがない限り――できません。
ボクは、黒や青の口紅とか派手なメイクをすることが多いですが化粧をしている時、あるいは化粧直しをしている時くらいしか、自分自身では自分のメイクを見ることができません。不思議なことに身体の性は、一義的には「見えないもの」なのです。
そうなってくると、ボクらがリアルに生きている身体というのは、お人形遊びのお人形のように、モノとしてまるごと捉えられたものとは違った側面を持っていることがわかります。その様々な側面を以下で幾つか見てゆきましょう。
イメージとしての身体
視覚的には見えていなくても、ボクたちは何らかの形で身体を「イメージ」しています。例えば、出がけに姿見で見た自分の見た目としての身体を思い出しながら町を歩くとか、あるいは――これが後で話す性別違和と関わりますが――生物学的な身体とは異なったイメージされた別の仕方での性ありかたをした身体であるとか。
こんな風に、ボクらは単なる生物学的な身体を超えてイメージされた身体を同時に生きています。そんなはずはない!と言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、身体が単なる生物学的なものではないことは「幻影肢」という事例が教えてくれます。「幻影肢」とは何らかの事件や事故で四肢の一部を失ってもその失った部分の四肢の感覚や傷みが残っているという現象です。この現象から身体がイメージと結びついていることが理解できます。
感じられる身体
もちろん、身体は感覚されるものでもあります。そして、この感覚される身体は世界との接点でもあります。例えば、ヒールを履いて山道を歩けば足に痛みを感じるでしょう、この時、「痛み」という感覚をとおして身体(足)と世界(山道)が相互に結び合います。
特に、トランスジェンダーの場合、FTMが胸を見えなくさせそのふくらみを感じなくさせるためのナベシャツや男装、MTFのウィッグや男性サイズのヒールやブーツはトランスジェンダーが「世界」と接点をもち、「世界」を快適に生きるための感じられる身体です。確かに、これらは「道具」ではないかと言われるかもしれません、ですが身体は拡張するもの、変態するものです。
哲学者のモーリス・メルロ=ポンティは目の不自由な方の杖が世界と関わるための一種の身体へと拡張されていると語ります。こういったように、感じられる身体はナベシャツやヒールにも拡張されてゆきます。
見られる身体
逆に、身体がまるごと常に現れているのは他者の眼差しに対してです。一方で、他者の眼差しは性を引き受けるうえで助けになります。メイクが素敵ですねと言われたり、もっと姿勢を正しなさいと言われたりすると、より落ち着く性に身体が馴染んでゆきます。
けれど、他方で、見られる身体は差別の対象にもなります。トランスフォビアがまず始まるのは――それが現実であれ、SNS上であれ――当事者への眼差しからです。見られる身体は、このような両義的な身体だと言えるでしょう。
文化的な身体
身体は広く文化の網の目の中にもあります。例えば、「女性らしい歩き方」とか「男性らしい態度」という身体の表現はそれぞれの文化、その人がどの国のどこで生きているかで変化します。
例えば、電車の中で座っている多くの男性は、股を開き腕組みをしているのに対して、女性は足を綴じ、腕を内側に折りたたんでいます。ここから、その人々が自らの文化――ここでは日本の車内という文化――のなかで、自然と身についたことが身体に現れているということができるでしょう。身体は個人に限定されるものではなく、学校や地域、社会や国などを通して規定されるものでもあるのです。
身体の多元性がつくる性
このように身体とは多元的なものです。おそらく、上記に列挙した以外の身体の様々なありかたもあるでしょう。こうした見えず、イメージされ、感じられ、見られ、文化を生きるといった身体の多元性から、性は引き受けられたり、現れたりするのではないでしょうか。
単に心の性とか身体の性ということは簡単ですが、こうしたボクらが、性を引き受ける複雑かつ魅力的な身体がつくる性は、見えなくなってしまいます。特に心の性――もしそういうものがあるとしてですが――は、こう言った身体の世界や文化との多元的な関係性の中で編まれてゆくものなのではないでしょうか(ですので「性自認」というだけでは、本当はトランスジェンダーの性を捉えることは難しいと思います)。
「性別違和」が伝えること
おわりに、議論をトランスジェンダーにさらに絞って考えてみたいと思います。ここでテーマとしたいのは、トランスジェンダーが感じる「性別違和」です。これを説明する仕方として「心の性と身体の性の不一致」という言い方がなされてきたわけですが、そうはいかないことがこれまでの議論から分かってきました。では「性別違和」は何を伝えているのでしょうか?
多元的な身体の内部でのズレ
「性別違和」が伝えていること、それはイメージされた身体や感じられている身体との間のズレ、といった身体の多元性の内でのズレだと考えることができます。例えば、FTMの場合、イメージされている身体は男性的なものであっても、第二次性徴によって変化する身体の中で感じられる身体との間に、ズレが起きているケースがあるでしょう。MTFのなかにはそれまで異性装をしてこなかったのに、メイクをして見られる身体として褒められると同時に、差別の眼差しを向けられて見られる身体の両義性のなかで、ズレが起こることもあるでしょう。
世界、社会を生きているということ
こうして身体の多元性から「性別違和」を考えると、トランスジェンダーが抱えている問題や、トランスジェンダーの生き方はそもそも――「心の性と身体の性の不一致」という簡単な定義で収まるものではなく――ある特定の世界、社会を生きているという豊かで複雑な現象と切り離すことができません。
トランスジェンダーという「現象」には、そもそも身体を性的なイメージの世界、物質的世界や社会、文化のなかで生きるという、極めて根本的で重要な問いを明らかにしてくれる側面が含まれているのです。