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Writer/古怒田望人

「トランスすること」について考える―ジェンダー・クィアの観点から―

トランスジェンダーが「トランス」するとはどのような意味をもち、どのような問題をはらむのでしょうか、その点についてジェンダー・クィアとして綴ってみたいと思います。

ジェンダー・クィアとは?

まず、「ジェンダー・クィア」とは何を意味するのでしょうか。そこを議論の始まりとしてみたいと思います。

活動としてのジェンダー・クィア

一部では間違って「Xジェンダー」(男女でもある、あるいはどちらでもない人たち)と同義だとされていますが、欧米で「ジェンダー・クィア」とは「自発的にジェンダー規範を混乱させ、無効にすること」だとされます(cf.E.D.Janssen, Phenomenal Gender-What Transgender Experience Discloses-,Indiana University Press,2017,65)。

つまり、一種の活動を意味するのです。

実際、イギリスのトランスジェンダーでジェンダー・クィアを自認する友人にボクがジェンダー・クィアであることを告げたとき、まず返された言葉は「君は活動家なんだね」という言葉でした。

ジェンダー・クィアとは、ジェンダー規範に抵抗するすべての行為、現象への名前を意味するのです。

ジェンダー規範への抵抗

では、ジェンダー規範とは何を意味するのでしょうか。

それは社会や文化といった環境において要求される「男らしさ」や「女らしさ」を意味します。

例えば、「男は泣いてはいけない」だとか、「女性は化粧をするものだ」といった考え方です。こういった「性についての『あたりまえ』」は、ひとを一定の規範に縛りつけ苦しめることがあります。男性や女性としてあらなければならないと。

こういった「あたりまえ」を「規範」と呼びます。というのも、英語で「ノーマルnormal」という形容詞は「規範norm」から派生したものだからです。この「あたりまえ」という「規範」を見直してゆくのがジェンダー・クィアのありようなのだといえます。

「トランス」の意味を考える

では、こういったジェンダー規範という「押し付け」の観点に立ったとき、トランスジェンダーの「トランス」とは何を意味するのでしょうか。

「トランス」とは?

「トランス」という接頭辞(単語の頭文字)は「超越」という意味を持っています。つまり、ある水準からまったく異なった水準へと「越え出る」ことを意味します。

だからトランスジェンダーは、「男らしさ/女らしさ」というジェンダー規範を「超越」する存在なのだといいえます。

「トランス」の両義性

けれども「トランス」という言葉は日常用語では「移行」という意味もあり、必ずしも「超越」を意味しません。例えば「どこかへ運ぶtransport」といった意味でも「トランス」という接頭辞は使われます。

それゆえ、「トランスジェンダー」という言葉にはジェンダー規範を「超越する」という意味と、男性ないし女性に「移行する」規範にある程度依存した意味の両義的な意味が含まれています。

フェミニズムからの批判と抵抗

「トランス」という言葉が両義的である以上、そこには批判や肯定的な意見が見られます。ここでは、その点を概観したいと思います。

『トランスセクシャル帝国』

かつて「トランス」が意味する「移行」というあり方をめぐってフェミニズムからの過激な批判がありました。

その批判はジャニス・レイモンドというフェミニストが記した『トランスセクシャルの帝国』(1979)という著作が発端となっています。そこでは、トランスジェンダーが男性ないし女性に移行することで、「男性らしさ」あるいは「女性らしさ」というジェンダー規範を強化していることが批判されています。

例えば、「女子的」という言葉をトランスジェンダーが用いれば、そこには「女子とはこうあるべき」という規範が植えつけられることになります。現在も「トランスジェンダーを排除するラディカルなフェミニズムtrans-exclusionary radical feminism」としてこの運動は続いています。

トランスジェンダーを生きる

このようなフェミニズムの批判に対して研究者のサンディ・ストーンは「帝国の逆襲――ポスト・トランスセクシュアル宣言」のなかで「パスをやめ、「読まれる」方を意識的に選ぼう」と訴えています。

つまり、「移行」した男性あるいは女性として「パスすること」ではなく、そのようなジェンダー規範を超越したトランスジェンダーとして「読まれること」をストーンは要請しているのです。ストーンはトランスジェンダーの「トランス」を「移行」ではなく、文字通りの「超越」として生きることを求めています。

女性や男性として生きることではなく、トランスジェンダーという全く異なったカテゴリーとして生きることをストーンは求めているのです。

「つねにすでに」と自覚

では、このような「トランスすること」の両義性、ならびにそれへの批判と肯定に対してどのようなことが語れるでしょうか。まずは、「トランス」という現象がどのように生じるのかという観点から見てみたいと思います。

「事実性」としてのトランス

ところで、ボクはもともと骨格が細くメンズの服が似合いませんでした。だから異性装をする以前からレディースの服を着ることが多くありました。それに加えてメンタルが弱く、よく泣いていたので「男のくせに泣いている」と叱咤されることがたびたびありました。

このようにボクは「つねにすでに」「男らしさ」という規範からおのずとずれていました。

このように「つねにすでに」引き受けてしまっている何かについて、マルティン・ハイデガーというドイツの哲学者は「事実性Faktizität」という言葉を与えました。たとえば宗教といった特定の文化が与える価値観の中で生きることは、その当人が望むか望まないかに関わらず、「つねにすでに」ある「事実」を引き受けてしまっているものなのです。

このような「事実性」の観点からすれば、トランスジェンダーの「移行=トランス」は当人の意思決定とは異なるある種の「条件」であると言う事ができます。この意味でトランスジェンダーは、ジェンダー規範という規範を強化しているのではなく、自らが置かれている環境の条件を「つねにすでに」おのずと引き受けてしまっているあり方を表現しているのだと言う事ができます。

もしもトランスジェンダーに、現行のジェンダー規範を強化するという問題があるとすれば、それはトランスジェンダー当人の問題ではなく、そのトランスジェンダーがおのずから「つねにすでに」引き受けている社会性や文化、もっと言えば当人の身体そのものの問題に結びついているのです。

それゆえ、トランスジェンダー自体を批判するフェミニズムの議論は、問題とする対象を間違えていると反論することができます。

トランスジェンダーは同時にジェンダー・クィアである

けれどもトランスジェンダーに要請されていることがないわけではありません。

当人が「つねにすでに」引き受けてしまっている「事実性」に対して、トランスジェンダーは自覚的である必要があります。女性らしくあることや、男性らしくあることが一種の規範であること。ある人たちにとっては、それが押し付けや生きづらさの原因であることを自覚する必要があります。

生物学的、あるいは形態学的に与えられた性という事実性に違和を感じるトランスジェンダーは、この自覚により適しているとみなすことができます。その意味でトランスジェンダーの「トランス」は「超越」なのだと考えられます。

だからこそ、トランスジェンダーは、自分自身を性的マイノリティとしてカミングアウトするだけではなく、マジョリティも含めて抱えているジェンダー規範に対して抵抗する必要があります。この意味で、トランスジェンダーとは同時に「自発的にジェンダー規範を混乱させ、無効にすること」、ジェンダー・クィアでもあるのです。

むしろトランスジェンダーの場合、その「超越」というパフォーマンスがすでに規範を混乱させたり、無効にすることである以上、活動以前に存在、ありのままの姿においてジェンダー・クィア的とも言いえます。

トランスジェンダーとジェンダー・クィアは対立するありようではなく、共存しあうべきありようなのです。

「欲望」の問題

とはいえ、「きれい」とか「カッコいい」といった規範的なジェンダー表現を欲望することは、そもそもトランスジェンダーに限らず、ひとが求めるものです。

「規範」と「価値観」の切り分けがたさ

確かに、ひとは自らがのっかってしまっている規範に対して自覚的、批判的でなければなりません。けれども、例えば、FTMのトランスジェンダーが「男性らしくカッコよくありたい!」と欲望することは、「女性らしく」という性規範への違和、抵抗であるとも言えます。

だから、当人が「したい!」と思う気持ちを完全に無視することはできません。欲望を否定することは、逆に「そういう姿はダメだ」という規範の押し付けになってしまいます。誰かが「したい!」と思う価値観と「すべきだ!」という規範を切り分けることはなかなか難しいものです。

ジェンダー・クィアとしての葛藤

ボク自身、自分のジェンダー表現に葛藤があります。ファッションやメイクは好きでいろいろ試行錯誤をします。脱毛もしたいです。けれど、それらの行為が、女性が社会から要求されている規範であることも理解できます。ジェンダー規範に抵抗するというジェンダー・クィアのありようと、ボクの欲望が対立しあっています。フェミニストの田中美津のいう「取り乱し」がここで起こっています。

欲望と対人関係

ここで、一歩立ち止まってみましょう。

ジェンダー表現を僕らはいったい誰に対して欲望しているのでしょうか。それは身近な他者ではないでしょうか。僕らは、身近な他者――恋人、家族、友人に、きれいとかカッコいいとか見られたいからこそ、ジェンダー表現をします。(そもそも「表現」というのが誰かに向けられたものです)。

たとえそれがジェンダー規範にのっかるものだったとしても、ボクらは大切に思っている誰かに対してジェンダー表現をします。この意味ではトランスジェンダーは、ジェンダー規範の中で、性を「移行」する存在なのだと言えます。

「トランスすること」は性という現象の暴露である

以上のように「トランスすること」を多角的に見ていった結果、なにが見えてきたでしょうか。

「トランスすること」が示すもの

はじめにみた問題に戻りたいと思います。

それは、「トランス」は「超越」なのか、それとも「移行」なのかという問いです。結論から言えば――あくまで暫定的な結論ですが――トランスジェンダーは「超越」と「移行」の間をさまよっています。言い換えれば「取り乱している」ように感じられます。

トランスジェンダーは、ジェンダー規範を自覚的に引き受ける限りで性を「超越」していますし、ジェンダー規範の中でジェンダー表現をせざるをえない限りで性の「移行」に留まっています。「トランスすること」が示しているのは、クリアーな「超越」でも、世俗的な「移行」でもありません。そうではなく、「トランスすること」が示しているのは、性という現象が文化や社会といった規範やその規範を含んだ対人関係からなる「複雑」な現象だということです。

ジェンダーを「トランスすること」、それは性という現象を越えるのでも移行するのでもなく、性という現象の複雑な構造を「露にすること」なのではないでしょうか。

不毛な対立?

長く、「真のトランスジェンダーとは誰か」という問いが提起されてきました。このような問いは、言い換えるのであれば「トランスジェンダーとは『何か』」という問いです。

けれども、トランスジェンダーが個々人の名のりによって形成されている以上、このような問いは不毛な対立を生むだけです(もちろん、アメリカのトランスジェンダー・スタディーズの旗手であるスーザン・ストライカーが主著である『トランスジェンダーの歴史』[2008]で定義したトランスジェンダーのありようを無視することはできないのでありますが)。

それゆえ、問いがまったく別の観点から取り上げられる必要があります。

問いは、「トランスすること」という現象が、いったい人間存在すべてが不可避的に生きているジェンダー規範、性という現象のなかで「どのような」役割をはたすかということです。この問いは近年アメリカで「トランスジェンダー現象学」という分野として広がっています。

はたしてこの社会的世界のなかで「トランスすること」はどういった意味をもっているのでしょうか。トランスジェンダーは性の何を露にするのでしょうか。本論ではその一端を示すに留まることにします。


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