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Writer/酉野たまご

「一人称を選ぶ自由」をLGBTQ+の視点から考える

英語の一人称は「I(アイ)」のみ。それに対して、日本語の一人称はかなりバラエティに富んでいる。この事実に気づいたとき、私は少なからず「日本語の一人称もひとつだったらよかったのに」という思いに駆られた。LGBTQ+当事者として、その思いは年々強くなっている。

一人称の不自由さに気づいた子ども時代

私が保育園に通っていた頃、同い年の子のほとんどが「○○(名前)ちゃん」という一人称を使っていたと母から聞いた。

「わたし」という一人称との因縁

「○○ちゃんは・・・」と、家族から呼ばれている名前を幼い子どもが自称するのは、可愛らしくほほえましい。保護者も保育士の先生も、そう思って見守っていたらしい。

しかし、年長組になってもその一人称が変わらなかったとき、母は心配になったそうだ。

この子は小学生になっても自分のことを「○○ちゃん」と呼ぶのだろうか。
さすがにそれは幼すぎてみっともないから、今のうちにやめさせるべきだろうか。

そんな悩みを抱えていた折、たまたま私と仲良くしてくれていた近所のお姉さんが「わたし」という一人称を使っていたため、私も自然と「わたし」を使うようになり、母は安心したという。

この話を母から聞かされたのは、小学4年生くらいの頃だったと思う。
私はちょうどその頃、「わたし」という一人称に違和感を抱き、恥ずかしいと思うようになっていた。

その違和感は、LGBTQ+であることを自認するときまでずっと変わらず続くことになる。

LGBTQ+を自認する前から、一人称に抱いていた違和感

今振り返ってみると、私は親しい人の言葉遣いに影響を受けやすい子どもだったのかもしれない。

保育園時代は周りの子どもたちに合わせて「○○ちゃん」、年長組になってからは近所のお姉さんに憧れて「わたし」。

そして、小学校3~4年生くらいからは、クラスで一番仲良しだった友達とともに「うち」という一人称を使うようになる。

単純に親しい人のマネをしたかっただけなのかもしれないけれど、「うち」という一人称を選んだのには、私なりの理由があった。

まず、住まいが関西のため、方言としての「うち」という一人称がもともと身近だったこと。「わたし」よりも「うち」のほうがずっとカジュアルで地域色があって、親しみやすい表現に思えた。

そして当時、クラスで「わたし」という一人称を使っていた子には、おっとりとして可愛らしい雰囲気の子が多かったこと。

口数が多く、決しておしとやかとはいえない小学生だった自分には、「わたし」という言葉はだんだんとマッチしないような気がしてきたのだ。まだ自分がLGBTQ+かもしれないという可能性には気がついていなかったけれど、それでも「わたし」という一人称への窮屈さは感じ始めていた。

「わたし」という言葉から、リボンのついた服を着てスカートを履いた、大人が思い描くような「理想の女の子」像を連想してしまったのかもしれない。

さらに、同年代の男の子たちの一人称が「僕」から「俺」へと移行していったのを、少し羨ましく感じていたことも理由のひとつだ。

一人称の変化を通じて、ちょっと強気に振る舞うようになった同年代の男の子たちとも、「うち」と名乗れば対等に渡り合えるように思えた。

自分のことを「うち」と呼ぶとき、私は勝ち気でしたたかで、自分の意見をしっかりと通せる人間になれたような気がしていた。

小学校で突然決められた、一人称に関するルール

私が小学5年生になった年から、突然学校の教育方針が変わった。

児童は性別にかかわらず「わたし」という一人称を使わなければいけない、というルールが学校内で設けられたのだ。

授業中やホームルームの間は、「わたし」と言わなければ先生から注意を受けてしまう。自然と、休み時間の会話にも気を使うことが増え、「うち」という一人称を使う子はいなくなっていった。

私も例にもれず、「うち」という一人称を手放し、再び自分のことを「わたし」と呼ぶようになる。

そして、同時にこう思った。

どうして自分のものであるはずの一人称を、他人から決められたり強制されたりしなければならないのだろう、と。

LGBTQ+と一人称の関係

10代後半あたりから、私は自由に一人称を選択する人に憧れた。自身がLGBTQ+であると確信してからは、その思いはさらに加速していった。

「僕」という一人称を選べなかった理由

「わたし」という一人称を日常的に使う男性クリエイターさんや、「僕」という一人称を使う女優さんなどに出会うたび、心の奥底にふつふつと羨ましさが湧き上がってくる。

誰かに決められた一人称ではなく、自分の意志で選んだ一人称は、性別にとらわれない身軽さと、なによりも「その人らしさ」を表しているように思えた。

小説や漫画を読んでいて、自分のことを「僕」と呼ぶ中性的な女性キャラクターが登場すると、つい心惹かれてしまう時期もあった。そのキャラクターが異性と恋愛をして「わたし」という一人称を使うようになると、悔しくさえあった。

ただ、私は小学5年生以降、ずっと変わらず自分を「わたし」と呼び続けた。
どんなに憧れても、羨ましくても、「僕」という一人称はしっくりこなかったからだ。

LGBTQ+当事者は一人称の選択に迷いやすい?

以前読んだWeb記事に、LGBTQ+当事者の方が「こっち」という一人称を使っている、という内容を見つけた。

「わたし」も「僕」も「俺」もしっくりこなくて、自分のことを「こっち」と呼ぶ人が一定数いるというその文章に、「画期的だ!」と思ったことを今でも覚えている。

性差を感じさせず、かぎりなく英語の「I(アイ)」に近い表現で自分のことを表す言葉だ、と感じたのだ。

また、知人は学生時代ずっと「わし」という一人称を使っていたという。

自分の性別に違和感を覚えつつも、周囲が使っている一人称はどれもしっくりこなくて、男性とも女性ともつかない「わし」が最も使いやすかったそうだ。

LGBTQ+であることと、自分の一人称に迷いを感じることは密接に関係していると思う。

もちろん、一人称に違和感を抱く可能性はあらゆる人に共通だけれど、「わたし」は女性的、「僕」や「俺」は男性的な一人称だという認識は未だ根強く、そのせいで悩むLGBTQ+当事者は多いのではないだろうか。

私自身、10数年の月日の間に「わたし」という一人称に完全に慣れたかというと、決してそうではない。

シンプルな「I(アイ)」という一人称を使える英語圏の人々を羨ましく思うこともあるし、「僕」という一人称に対する憧れの気持ちも、正直少し残っている。

LGBTQ+の自認と、新たな一人称との出会い

実は最近、私は新たな一人称を使うようになった。親しい人と話しているときに限り、ごくたまに自分のことを「俺」と呼ぶ。

新たな一人称の獲得は、LGBTQ+の自分を認めるところから

「僕」という一人称はしっくりこなかったけれど、なぜか「俺」はさほど抵抗なく使うことができた。

平成にインターネット用語が流行した際、男女を問わず「俺」を自称するという文化があったため、サブカルチャーが好きだった私にとっては比較的しっくりきやすい一人称だったのかもしれない。

「俺」という一人称を使っていると、「わたし」を名乗る自分よりも、ちょっと荒々しくて、女性性から自由になった存在になったような気がする。

ただし、10代の頃の私が自分を「俺」と呼ぼうと思っても、なかなかできなかったはずだ。

特に、LGBTQ+としての自分に自信が持てなかった頃は、せめて同性からも異性からも魅力的に思われる人間でいたいという願望から、一人称で冒険する気にはあまりなれなかった。

思春期の葛藤を乗り越え、セクシュアリティに対する迷いも経て、LGBTQ+であることも含めた自分自身の特性を受け入れて初めて、「俺」という一人称に出会い直すことができたように思う。

自由さと身軽さを教えてくれた「俺」という一人称

私が「わたし」と「俺」というふたつの一人称を使い分けているのは、「そのときの自分にしっくりくる表現を使いたいから」という理由だ。

だから、今でも9割くらいの比率で「わたし」を使い続けているし、家族の前では基本的に「わたし」を使う。

友人としゃべっていて、ちょっと羽目を外したいような気分になったときは、「俺」が登場する確率が高い。そして友人たちも、引っ掛かったり突っ込んだりすることなく、自然体で私の一人称の変化を受け止めてくれている。

「俺」という一人称が、男性でも女性でもない、無印の「自分」という存在を浮き彫りにしてくれた。
この自由で身軽な感覚は、「わたし」を名乗る自分ではたどりつけなかった境地だ。

こういう瞬間に、私はLGBTQ+である自分を積極的に肯定したい気持ちになる。

LGBTQ+かどうかにかかわらず、自由に一人称を選べる社会に

小学5年生の頃に教えられた教育方針は、今思い返してみると、もしかしたらジェンダーフリーの観点から立てられたものだったかもしれない。

現在の視点で振り返る、小学生時代の一人称の教育方針

男女ともに「わたし」と名乗りなさい。

「わたし」という一人称で統一するという当時の学校の方針は、性差のない表現方法を推奨しているようにも思える。

ただ、「わたし」という一人称を大人から勝手に決められたという印象は、今も自分の中に根強く残ってしまっている。

LGBTQ+教育の一環として、一人称の表現について伝えてほしいこと

今の私は、「わたし」という言葉は男女問わず公的な場で使用できる一人称であることと、プライベートな場では自分のことを好きな言い方で表現してもいいんだよということを、あわせて教えてもらえたらよかったな、と思っている。

女の子も男の子も関係なく、好きな一人称を使う自由があるんだよと教えてくれる大人がいたら、子ども時代の私はどんなに気が楽になっただろう。

教育現場でLGBTQ+について伝えるのと同じくらい、一人称や言葉選びで自分らしさを表現するということを子どもたちに(大人にも)伝えてくれる人が、これから増えていってくれることを願っている。

 

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