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Writer/雁屋優

透明にされないために~マイノリティが表現し続けること~

LGBTQだけではなく、多くのマイノリティが声を上げることがかつてよりも容易になった現代。マイノリティがその存在を示すために、表現は重要だ。しかし、マイノリティの声を受け取るマジョリティはマイノリティに “説明させている” ことに、その権力構造に、気づいているのだろうか。マイノリティが表現をすること、それを受け取る社会やマジョリティについて考えていきたい。

「周りにLGBTQはいない」?

LGBTQに関するキャンペーンが開かれた際に、見聞きする残念な言葉の一つ、「でも、自分の周りにそういう人(LGBTQ当事者)はいない」がLGBTQの置かれた現状を端的に表している。

LGBTQは「遠い」存在?

LGBTQ当事者にも、ALLYであろうとし続ける人にも伝えたい、残念な現実がある。LGBTQの理解啓発を進めるキャンペーンが行われていた現場で聞いた、残酷な一言がある。

「でもさあ、そういう人(LGBTQ当事者)って、周りにいないじゃん」

本当に何の前触れもなく、日常会話のごとく、その人は言った。そして、周囲が次々に同調する。

「そうだよね。会ったことないし」
「私も知り合いにはいない」

それを聞いている私が、LGBTQ当事者だなんて、思いもせずに。その場には、私以外にもLGBTQ当事者がいたかもしれない。それなのに、どうして、「近くにいない」なんて言いきってしまえるのか。浅慮で傲慢で、無知な態度。

当然カミングアウトしてもらえないでしょうね

「いない」と言い切ってしまえる浅慮を、私は心底軽蔑した。その会話で、カミングアウトしていないLGBTQ当事者からの信頼を落としたのだけど、その人々はそのことにも気づいていないのだろう。

そんなだから、LGBTQをはじめとしたマイノリティに信用されないんだよ。
当然、カミングアウトする相手にされることなんかないでしょうね。

冷たく言い放ってやりたい衝動に駆られた。でも、面倒に思えて、私は黙って手を動かすことを選んだ。どうせ、この人達は理解しない。私が手間をかけてあげるだけ、無駄だ。

諦めたと言えば聞こえはいいが、その実、その人達を見限ったのだ。

相手を見限るのは日常茶飯事

マイノリティ性を複数持つ私にとって、そんなことは日常茶飯事だ。ありふれ過ぎている。日常の一コマになってしまった。

どうせ、理解しない。
そもそも理解する気なんてない。

そうやって、他人を見限り、信用しなくなった経験は数多くある。これが、LGBTQ当事者の私を取り囲む現実の一部だ。

説明 “させられる” マイノリティ

それでも、LGBTQ当事者をはじめとしたマイノリティは、カミングアウトの必要性に迫られる。

配慮を求める際には “申請” がいる

LGBTQ当事者も、セクシュアリティによっては、学校や職場に合理的配慮を求める必要に迫られることがある。合理的配慮を求めずとも隠し通して生活できる場合もあるが、そうでない人は、“説明” して、合理的配慮を “申請” しなければ、その場にい続けることは難しい。

LGBTQ当事者で合理的配慮を求める必要に迫られやすいセクシュアリティとして、トランスジェンダーの人々が挙げられる。性別適合手術を望むならそのための休暇を取る必要も出てくるし、着替えが発生する職場ならば更衣室の問題も生じる。

しかし、実際にはこれらの “申請” は苦痛を伴う。相手を信用してカミングアウトするのとは違い、必要に迫られて仕方なくマイノリティ性を明かす場合も少なくないからだ。

“説明の恐怖” がある

LGBTQ当事者、特にトランスジェンダーへの偏見は根強い。日本だけでなく、世界中で起こっている問題だが、トランスジェンダーの人々は偏見や差別、迫害にさらされている。これはれっきとした事実だ。

そんな状況下で、学校や職場にマイノリティ性を “説明” し、合理的配慮を “申請”するのは、勝ち目がなさそうな賭けに思えることもあるだろう。言葉にしてみないと相手の反応はわからない上に、言葉にしてしまったら取り返しはつかない。あまりにもリスクが大きすぎる。

でも、“説明” せずにいれば、配慮を “申請” することもできない。それではその場にい続けられない。結果、合理的配慮に辿り着けず、退学や離職を選択する事例は存在する。(参考:厚生労働省「職場におけるダイバーシティ推進事業について」

説明を “強いている” 自覚はあるか

説明してくれないと学校や職場としても対応のしようがない。そう思うだろうか。たしかに、それは一理ある。そもそも人によって必要とする合理的配慮は異なる。視覚障害者が名乗り出なくていいように一律に拡大資料を配るのも有効な手段ではあるけれど、それはそれで大変だ。

私も「説明を強いるな」と言うつもりはない。ただ、マイノリティに「自分は “このように他人と異なっている” から、配慮が欲しい」と説明を “させている” ことに自覚的になってほしい。その説明は、マジョリティであれば、しなくていいことなのだ。

説明をするマイノリティ、それを聞いて対応するマジョリティには、権力勾配がある。そのことを “説明させる” 側が意識しているか否かで、大きく変わってくる。

透明にされないために表現する

それでも、マイノリティが表現し、発信する必要もある。

「いない」ことにされないために

自身のマイノリティ性について、説明しなければならないのは、非常に面倒で、苦痛で、リスクを伴う。それでも、マイノリティ性を明かし、表現や発信を続ける当事者がいる。それはなぜか。

私も、文章で表現し、発信し続けることを選んだマイノリティの一人だ。筆名を使い、顔を明かしていないとはいえ、リスクはゼロではない。職場でカミングアウトするリスクについて書いたが、マイノリティ性を明かしての表現や発信もリスクだ。

それでも、やりたいと思うし、やらねばならないとも感じている。言わなければ、書かなければ、私はいないことになる。私のようなマイノリティは、簡単に透明にされて、社会にいないことになってしまうのだ。

冒頭の「周りにLGBTQはいない」発言のように。

いないことにされれば、一気に社会は後退する。合理的配慮も、同性婚法制化も、全部消えてしまう。だから、表現し、発信する。

この社会に存在していることを示し、権利の侵害を減らすために、表現や発信は大事なことだ。

私は、表現自体も好きだけれど、必要に迫られてもいる

私自身の話をすると、元から私は知識を得ること、考えること、書くことを好んでいた。そんな私がライターをしているのは、原点回帰のような気もする。ただ、私が表現し、発信していることを、単純に好きなことをしていると取ってほしくはない。

マイノリティの現実を伝える必要性に、もっと言えば、自分の存在や取り巻く現実を伝える必要性に迫られている側面もある。私自身の生存のために、より質の高い生活のために、自分が納得できる活動を、自分でやるしかない。

そういう必要に迫られた部分もあって、自分に向いた表現方法を選んで、今現在、ライターの雁屋優がある。

表現や発信の方法は人によって違う

私はたまたま書いて表現し、発信することを選んだが、表現や発信のあり方は書くことだけではない。YouTubeやTikTokなどの動画を使う、Instagramで画像を用いる、同人誌を発行する、と挙げていけば、多くの方法が思いつく。

それらの方法に優劣はないし、何を伝えるかもその人が決めることだ。その人が選んだやり方で伝えることを受け取るときに、“必要に迫られている” 可能性に思いを馳せながら、表現や発信を受け取ってほしい。当然、私にもその意識を持つ必要がある。

マイノリティの存在と現実を伝え続けていく

私にも、LGBTQをはじめとしたマイノリティ性を伝えていきたい気持ちと、説明を回避したい気持ちの、相反する二つの思いがある。

“説明の恐怖” と “黙殺される恐怖” のはざまで

説明するのは怖いし、苦痛やリスクを伴うけれど、黙っていることもまた、リスクだ。社会にいないことにされ、透明な存在になるリスクがある。黙殺されて、ないことにされてしまったら、今よりもっと悪いことになる。

LGBTQ当事者をはじめとしたマイノリティは、日頃から “説明の恐怖” と “黙殺される恐怖” にさらされ、どうするのが自分にとっていいのか(その瞬間をやり過ごすだけではなく、中長期的な視点でも考えなくてはならない)に悩まされているといえる。これは非常にストレスのかかる状態だ。

マジョリティであれば、考えなくてもいいことを、真剣に考えなくてはいけない。その点で、マイノリティは過度に負担を強いられている。

私も、状況に応じて “説明しない” 選択をすることもあれば、透明にされないために表現し発信することもある。マイノリティは常にこのはざまで揺れ動いているのかもしれない。どちらかに振り切ってしまえればいいのかもしれないが、それはそれで大変だろう。

表現や発信は、マイノリティの義務ではない

最後に、大事なことを書いておく。マイノリティの表現や発信は義務ではない。マイノリティがマジョリティに理解を求め、“説明” するのも、社会や学校、職場などの環境に “強いられている” 側面があることは否定しようもない事実だ。

マイノリティが皆、表現や発信を通しての理解啓発に努める義務なんかない。マイノリティであることに、義務も責任も生じないし、生じさせない。

その上で、私は奪われてきたマイノリティの権利を取り戻す活動が必要だと思い、それを自分でもやりたいと考えている。だから、書き続ける。

当事者の言葉を大切に扱う社会へ

マイノリティ性を明かして表現し、発信することは勇気がいる行為だ。説明することもリスクを伴う。マイノリティが言葉を発するのは大変なことなのだ。

勿論、マイノリティの発する言葉を無批判に受け入れろと言うのではない。マイノリティの言うことだからすべて正しいと言い切れるわけではない。しかし、言葉を発することの困難や、その重みについても、意識する必要がある。

マイノリティ性のある当事者の言葉を軽視せず、その重みを受け止める社会であってほしいし、そのために私も書いていく。

 

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