02 いじめられ続けた小学校
03 「女の子」の枠組みへの違和感
04 青春を謳歌した中学
05 もしかして、私はレズビアン?
==================(後編)========================
06 飲食業界でがむしゃらに働く日々
07 性行為への嫌悪感とセクシュアリティの迷い
08 アセクシュアルを知った
09 京都でカフェバーをオープン
10 自由に好きなことをして生きていく
01家の中では中国語
中国残留孤児の祖父をもつ一族
自分は生まれも育ちも東京だが、中国にルーツを持つ家庭に生まれた。
父方の祖父が中国残留孤児で、父は中国と日本のハーフ、母は中国人。7歳上の姉は中国生まれだ。家族と話すときは中国語を使っている。
「残留孤児の帰化制度で、日本に観光で来てみたら、住み心地はいいしご飯もおいしいしってことで、一族で日本に移住しようって決めたみたいです」
本当は、母は住み慣れた中国を離れたくなかった。でも、父が祖父の家族のなかでは長男であり、親戚がすでに日本に移り住んでいた以上、母も家族とともに日本に来るしかなかった。
「日本に来たとき、母親は、父親からは最初のうちは観光目的だと聞いていたらしいんですけど、実は旅行じゃなくて、そのまま日本に住むことになったそうです」
不思議な母と、お酒で変わる父
母は、受け答えが「ふわふわ」しているところがある。話が噛み合わないこともしばしば。
「私が、こういうことで悩んでて・・・・・・って話しても、母親は口を開けて、『え? 今のって悩んでるって話?』って返して来たり」
父は、普段は穏やかで静か。
その分、あまり話を聞いてもらった覚えもない。どこかに連れて行ってもらった記憶もない。でも、休日でも家にいることが多かった。
「父親は、家のことを全部してくれるんですけど、子どものことに関しては一切興味がないんです。私が学校の話をしようとしても、そういう話は全部ママにしてって、あしらわれてました」
ただ、お酒が入ると父の性格は豹変した。
「父親は、酔っ払うと母親に『お前なんかと結婚したから、俺の株が下がった』とか平気で言ってました。でも、お酒が抜けると、言ったことを全然覚えてなくて」
「辛うじて暴力は奮いませんでしたけど、言葉の暴力は結構ひどかったです」
02いじめられ続けた小学校
ルーツや容姿を「原因」に6年間ずっと続いたいじめ
幼稚園では、明るいおしゃべりな子だったが、小学校に入って変わらざるを得なくなった。原因はいじめだ。
「入学式のときに母親と中国語でしゃべってるのを周りに見られて」
「人とは違うってことで、いじめが始まりました」
周りには、自分以外にも中国ルーツの子どもいたが、皆でいじめられていたため、中国ルーツの子で固まって過ごしていた。それでもクラスが変われば、また一人ぼっちになってしまう。
いじめに対して抵抗しても、状況は変わらなかった。
「相手に言い返したら、『お前がしゃべってるのが、日本語か中国語がわかんない』ってからかわれて、相手にされないんです。こっちは日本語で返してるのに」
小学校3年生からは、容姿をからかわれるようになった。
「天然パーマが強かったので、お前の髪は不潔だとか、髪が爆発してて黒板が見えないだとか、太っていたのでデブとか・・・・・・散々言われました」
守ってくれない大人たち
いじめが続いているにもかかわらず、周りの大人には頼ることができなかった。
「いじめられて帰って来て、泣きながら母親に相談しても、生まれも育ちも変えられないんだからそんなこと泣いてても意味ないでしょって言われてました」
「母親に、学校の先生に相談してよって言っても、『ママは日本語が話せないから、先生に何て言ったらいいのかわかんない』って取り合ってくれなくて」
いじめの対応だけではない。両親は、学校行事や授業参観にも顔を出さなかった。そんな両親を、小さい頃は育児放棄だと思っていた。
今なら、当時両親は慣れない日本で必死に働いていたから、そこまで手が回らなかっただのだとわかる。でも、当時はそこまで考えられなかった。
学校の先生も、いじめを見て見ぬふりをした。
「先生がいじめっ子に注意すると、いじめっ子の親から『うちの子どもは何もしてないのに、なんでそんなこと言うんだ』って言い返されちゃって・・・・・・いわゆるモンスターペアレントですよね」
「先生は、帰り際、周りに気付かれないように『今日、大丈夫だった?』って聞いてくれたけど、みんなの前では注意してくれませんでした。つらかったですね」
唯一の居場所である塾と、姉の存在を支えに耐える日々
いじめがひどくても小学校に通い続けられたのは、当時通っていた塾が安心できる第3の居場所になっていたからだ。
塾ではみんなと立場が平等で、楽しく過ごすことができた。
「塾に通ってたのは、ほかの学校の子たちだったんで、学校でいじめられてることを隠せたんです」
もう一つ、自分と同じ逆境のなかでも頑張っている姉の存在も大きかった。
「私よりも、中国生まれの姉の方が、状況はもっとひどかったです。そんな姉は、学校にも通い続けて、部活にも打ち込んでました」
「親が姉ばかり構ってたので、じゃあ姉よりも頑張って勉強できるようになれば、親も私の方を向いてくれるんじゃないかって思って」
小学生の間は、「姉を超える」という一心で勉強に打ち込んだ。上位の成績を保ち続けながら、なんとか小学校に通い続けることができた。
03 「女の子」の枠組みへの違和感
好きなものを着たいだけなのに
小さい頃から、「女の子らしくしなさい」「女の子なんだからスカートを穿きなさい」などと言われて、無意味に「枠」に当てはめられることが嫌だった。
七五三の衣装を着させられた7歳のときに、初めて違和感を覚えた。
「衣装が代々のお下がりで、いつの時代なのかもわかんないようなお古を着せられて(笑)」
「着たくない服を着て、笑ってって言われるのはすごく嫌だなって思ってました」
小学校でいじめが始まったタイミングも重なり、地味で女の子らしくない服を好んで選ぶようになっていった。
上下ジャージが心地よい
女の子らしい服を着たくない分、小学校のときに、いとこのお下がりのジャージで過ごせたことは、自分にとっても両親にとってもちょうどよかった。
「いとこのお兄ちゃんのお下がりのジャージを着てました」
「子どもの成長は早いから服がすぐに合わなくなっちゃうけど、タダでもらった服で済んだから、親は金がかからない子でよかったと思ってたみたいです」
ほかの親戚の女の子たちには、男の子のサイズのジャージは大きすぎたが、身体が大きい自分にはむしろちょうど良かった。
ピアノそのものまで嫌いになった、ピアノ発表会
小学校2年のときに習っていたピアノの発表会。
発表会と言えば、男の子はスーツ、女の子はドレスと衣装が決められている。でも、それも嫌だった。
「着たくない服を着ていつもの演奏ができるわけないし、そんなことしても楽しくもない。晒し者にされるのは嫌だって」
「勝手なルールに押し付けないで、って思ってました」
そのときの経験がきっかけとなって、ピアノを辞めてしまったほどだった。
今でもピアノの発表会を思い出すと嫌な気持ちになるほど、ネガティブな記憶として残っている。
04青春を謳歌した中学
小学校から一変、スクールカースト上位に
中学校ではいじめられることはなくなった。
「いじめっ子の大半が別の中学に行ったんです。中学では、もう片方の小学校から上がってきた人と仲良くなったんですけど、そっち人たちの方が気が強くて」
学校の中心グループの人たちと仲良くなり、一気にスクールカースト上位に転ずる。
同じ小学校から上がってきた、わずかな数のかつてのいじめっ子たちが、今度はいじめのターゲットになった。
でも、小学校のときの仕返しをしようとは思わなかった。むしろ、自分の立場を使って、いじめを積極的に止めに入った。
「友だちに『あの子、地味ででうざいからちょっと省こうぜ』って言われても、『省いたところで何も面白くないよ。そっとしておいたらいいじゃん』って言い返してました」
「それに対して、『いや、お前甘いんだよ』って言われたりもしたんですけど、何が甘いのか、よくわかんない(笑)」
いじめを止めようとしたことに対し、「空気の読めないことを言うな」などとは言われたものの、いじめの矛先が自分に向くことはなかった。
「だれとでも優しく接することができるお前なら任せられる」
学校の行事では、立候補していなくても、周りから推薦されるかたちで行事のリーダーを任せられることが多かった。
「お前ならできるよって言ってもらえることが多かったです」
「推薦されてた理由は、私がクラスの地味な子たちとも仲良くできて、だれの悪口も絶対に言わなかったからかもしれません」
だれからもいじめられない、だれもいじめない環境のなかで、中学では「これが青春だ」と思えるような、楽しい3年間を過ごすことができた。
これは「いじめ」じゃなくて「いじり」
中学校生活では、物事を見る視点を変えられるようになった。
「中学で仲のいい友だちからも『おい、デブ』とか、『そんなゴリラみたいな歩き方して』って時々言われることもあったんです」
「でも、そのときに、これは『いじめ』じゃなくて『いじられてる』だけだ、私が会話の中心にいるんだって考えられるようになって」
悪意のある「いじめ」ではなく、愛のある「いじり」と捉えられるようになってから、周りに何か言われることがあっても、いじめられていると思うことはなくなった。
05もしかして、私はレズビアン?
なんで私だけがレズビアンと言われるの?
中学の制服であるスカートも本当は穿きたくなかったので、スカートを極力長くして、中にジャージのズボンを穿いて、なんとかやり過ごしていた。
そんななか、仲のいい女子の友人と常に一緒に過ごしたり、友人の家に頻繁に泊まったりしていることに対して、周りから「お前、レズなんじゃないの?」と言われることがあった。
周りからの言葉に傷付いたり悩んだりすることはなかった。でも、本当に自分はレズビアンなのかもしれないとも考えるようになった。
「友だちと一緒にいるのはたしかに楽しい。でも別に、その子と手をつなぎたいとは思わなかったんです」
まだ、このときはセクシュアルマイノリティと言えば、ゲイとレズビアンしか知らなかった頃。アセクシュアルなど、到底思い至らなかった。
一方、なぜ自分だけがレズビアンだと周りから言われるのかについては不思議に思っていた。
「私がレズって呼ばれても、友だちはそう言われないのが疑問だったんです。女の子同士で好きなら、お互いレズなんじゃないの? って」
「きっと、私の見た目が男子寄りでいかついから、私だけレズだって言われてるんだろうなと思うと、もしかしたらやっぱり私レズビアンなのかなって思うこともありました」
自分のセクシュアリティについて多少の疑問はあるものの、深く悩むこともなかったので、LGBTについて詳しく調べることもしなかった。
恋人がいるって、青春
中学生にもなれば、周りも色恋に目覚め始める。
「周りは、狭い界隈で彼氏を交換するように、しょっちゅう恋人を入れ替えてて」
「あれ、この前まであの人と付き合ってたよね? もう変わったの? ってことがよくありました(笑)」
自分自身は、だれかを恋愛対象として好きになることはなかったが、恋人がいることへのあこがれはなんとなく感じていた。
「『私、付き合ってる人いるし』って言ってる人を見ると、みんな青春してるなーって思ってました」
「でも、実際に話題が自分の恋バナになったら、どういう人が好きなの? とか、いろいろと深掘りされるじゃないですか。ウソはつけないし、そういうことを話すのは面倒だなって思ってました」
性的指向に悩むことはなかったが、このときは自分がどういう人が好きなのか、LikeとLoveの違いは何なのか、はっきりすることはなかった。
<<<後編 2022/09/11/Sat>>>
INDEX
06 飲食業界でがむしゃらに働く日々
07 性行為への嫌悪感とセクシュアリティの迷い
08 アセクシュアルを知った
09 京都でカフェバーをオープン
10 自由に好きなことをして生きていく