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Writer/HOKU

レズビアンカップルYouTuber『わがしチャンネル』の二人がお別れした。みたらし加奈さんの投稿を読んで思うこと

大好きで、これからゆく先を応援していた『わがしチャンネル』のふたりがお別れしてしまった。レズビアンのロールモデルとして情報を発信したり、同性婚合法化に向けて活動をしたり、ただ二人の生活の様子を見せてくれたり、そういう二人の「リアル」がただただ好きだった。

『わがしチャンネル』のみたらし加奈さんと恋人のMikiさんの勇気とその関係に、いつも救われてきた

『わがしチャンネル』のレズビアンカップルがお別れした

本当に素敵なカップルだった。

お互いを見つめる二人の表情が好きだった。
仲の良さそうな会話が好きだった。
関係を公開に踏み切れる勇気が好きだった。

でも、そんな二人が、これから先の人生を共には歩まないことを決めた。

『わがしチャンネル』というレズビアンカップルのYouTuberをご存知だろうか。あるいは、みたらし加奈さんという名前をTwitterやテレビなどで聞いたことがある人もいるかもしれない。彼女たちはレズビアンカップルであることを公表して、色々な活動を行なっていた。

特にみたらし加奈さんの方は、テレビではレズビアンの存在の可視化について語ったり、セクシュアルマイノリティの孤独と向き合ったりとLGBT活動家として有名だ。

カップルとしてもマリフォー(Marriage for All)の活動に協力したり、YouTubeでレズビアンカップルの日常生活を配信することで、レズビアンカップルがなんら特別なものではなく、ただそこに在るものなのだということを、いつも活動を通して教えてくれていた。

みたらし加奈さんと恋人のMikiさんの存在に救われてきた私たちではあったけど

私は、みたらし加奈さんや『わがしチャンネル』の存在を友人から教えてもらったのだが、自分がレズビアンかも、バイセクシュアルかもと色々悩んできた時期に出会ったから、自分のセクシュアリティをみんなに見せて生きているその強さに、セクシュアルマイノリティを決して特別視させないように工夫するその姿に、何度も救われてきた。

私たちファンには見えないこと、見せなかったこともきっと本当にたくさんあったのだろうけれど、同じ時代を生きるセクシュアルマイノリティとして、いつもその姿に勇気づけられていた。でもそれは、同時にみたらし加奈さんご本人にとっては重荷でもあったはずだと思う。

レズビアンであること。セクシュアルマイノリティであること。それを発信すること。同性カップルとして、パートナーとのプライベートを公開すること。それは誰かを勇気づけると同時に、誰かの「希望」になり、「期待」になる。希望も、期待も、ポジティブであると同時に、すごく重い。

ずっと仲良しでいてほしい。私たちみんなのロールモデルになってほしい。私たちをこれからも勇気づけてほしい。そう思われ続け、たくさんの人たちの期待を数年にわたって背負い続けてきた『わがしチャンネル』の二人が、お別れした。

もちろん、長い年月でふたりの関係も変わっていったのだろう。でも、そこに私たちの期待や希望が影響しなかった・・・・・・なんてことはないだろう。レズビアンカップルには、「多様な生き方」をずっと体現する存在でいてほしい、いつまでも私たちセクシュアルマイノリティを可視化する存在でいてほしい、という異性愛カップルには押し付けらないような期待まで、押し付けられるのだから。

レズビアンカップルとしての一つのロールモデルを『わがしチャンネル』は私たちに見せてくれた

終わってしまったふたりの恋愛を、ただ悲しむだけでいい

異性愛の有名人カップルも、別れると人から色々なことを言われる。一般人もまた近いものがある。私たちはみんな、公にされた愛には「不変」であってほしいみたいだ。でも、ほとんどの恋愛は、実際各地で消えていっているはず。

もちろん、続くものもあれば、復活するものもあるだろう。でも、消えていくものだって、公にされていようとされていまいと、ある。何よりも、これは私たちの人生の問題ではなく、彼ら当事者の人生の問題だ。だから、外から誰かが責めるのはお門違いだろう。

では、二人の別れを「悲しむ」ことは二人を傷つけることにはならないのだろうか。私はこれは良いことだと思う。付き合っているという話を聞き、祝福し応援してきた私たちには、悲しむ権利もある。悲しむことは自分の魂との対話だから。

今までレズビアンカップルの『わがしチャンネル』として発信してくれた、そのこと自体に意味があった

『わがしチャンネル』の二人をレズビアンカップルのロールモデルとして期待をかけていたセクシュアルマイノリティは、もしかすると別の意味で悲しんでいるかもしれない。あんなに仲の良かった二人が別れてしまうということは、レズビアンとして誰かと一生付き合い続けるのはきっと無理なんだ・・・・・・と。

でもきっと、死ぬまで付き合い続けたレズビアンカップルだって探せばいるはず。望ましい「ロールモデル」は10年前よりは確実に見つけやすくなっている。

むしろ、『わがしチャンネル』の二人が残してくれた「レズビアンカップルとして生きた証」であったり、彼女たちが「レズビアンカップルの生き様のひとつ」を見せてくれたこと、それ自体に価値があると私は思う。

無理して「関係を続ける」必要はない。私たちは、自分の人生を生きるだけ。それだけだ。

人生の一部を、私たちに共有してくれてありがとう。

『わがしチャンネル』の二人が別れたことを受けて、「同性婚が法制化されてなくて良かったね」なんて言わせてやるもんか

同性カップルが別れた時に時々聞く言葉「簡単に別れられて良かったね」

同性カップルが別れたことを受けて、たまにこういうことを言う人がいる。

「ほら、同性婚が法律で認められてなくて良かったね」
「結婚したら簡単には別れられないんだから」

結婚したら簡単には別れられない。

結婚をする、ということは二人の人間が契約をする、ということだ。今後「結婚」という関係を当分の間続けますよ、という意思表示と言っても良いだろう。婚姻関係が雇用関係のようなものだとすれば、結婚という関係に一度落ち着いてしまえば、やめることは少し大変になる。簡単には別れられない。それはその通りだと思う。

でも、簡単には別れられない、ということは「別れる」という選択肢が二人の関係においてちらつかなくなる、ちらつきにくくなるということでもある。

人間は常に目の前に大量の選択肢を与えられている状態だ。選択肢を選ぶためには脳の容量と、精神力を使う。大きな選択肢を一つ失うということは、消えた選択肢を「選ばなくても良くなる」ということでもある。それは、制限であると同時に「楽」でもあるだろう。

結婚していなければそうはいかない。喧嘩して、私たちはやっぱり合わないのかもしれないね、と思うたびに、「別れる」という選択肢が心のどこかに浮かぶ。全ての同性愛カップルは、関係性を続けるために「この関係を選択する」という選択肢を選び取るという、決断を迫られ続けているのだ。

同性婚が成立しなくて良い、という人が言う「パートナーシップ制度があるじゃない」

ここで、「パートナーシップ制度があるじゃないか」という意見もあると思う。実際、同性婚を認めない現状の法制度を「合憲」とした、大阪地裁の判決はそのようなことを言っていた。

パートナーシップ制度、あるね。あるけど、その自治体を出てしまったら効力を失う「パートナーシップ宣誓」は、婚姻関係よりも容易に「別れる」という選択につながりはしないだろうか。

「そんなこと」のために同性婚を認めろと言うの? と思うかもしれないけれど、私の母は「結婚のメリットは、この人とより快適に暮らすにはどうするべきか? から問いを立てられること」だと言っていた。そうじゃなきゃ同じ人と一緒に暮らし続けられないよ、とも。

現代においては、「別れづらい」という結婚における性質を、デメリットとして感じている人自体、もちろん多いと思う。でもそれは、異性愛カップルにおいては結婚が付き合いの先にある「当然の義務」のようになってしまっているからではないだろうか。

同性愛カップルに結婚の権利がないことの裏返しのように、異性愛カップルには(あるいは異性愛者に見える人に向かっては)まだまだ「結婚はするべき」という価値観が根強い。だからこそ、結婚の「関係性の固定」という部分はデメリットに見えやすいようにも思う。

でも、その「関係性が固定化される」「安定する」という今の異性愛カップルにおいてはデメリットになってしまっている部分を、「享受したい」と願う同性愛カップルがいても、私はなんら不思議に思わない。

また、国から関係性をはっきりと認められないということは、同性愛者の存在が「公認」ではない、ということでもある。「公認」されない限りは、やっぱり大手を振って公道を手を繋いで歩きづらいし、なんとなく「隠すか隠さないかで言ったら、隠す方が普通」という気持ちにもなると思う。

経済的なメリットももちろん大事だけど、「結婚したから」を言い訳にダラダラと関係を続けられるというメリット(もちろんこれをメリットだと思う人と思わない人がいるのが当然だけど)や、互いの関係を隠さなければならないという気持ちにさせられる、ということも、生きていく上では重要なんじゃないだろうか。

冒頭の『わがしチャンネル』についても同じだ。もちろん、はじまりも別れも二人の自由意志でとても真剣なものだったはず。二人の関係性が真摯なものだったこともよくわかっている。しかも、彼女たちは「隠すほうが普通」という価値観をはねのけて、二人の関係性を公に続けてきたくらい、強くてカッコいい人たちだ。

それでも、もし「結婚」という選択肢があったら・・・・・・。

ダラダラ関係が続いて不幸になっていたかもしれない。結婚していてもやはり続けられないと別れていたかもしれない。でも、あるいは・・・・・・

存在しない未来に、勝手に思いを馳せずにはいられない。

同性婚については、経済的なところよりも精神的メリットの方が実は重大なのかも

しかも、異性愛者は「結婚」という選択肢があるからこそ、「結婚を見据えた真面目なお付き合い」が主流になっている(その功罪もあるのは当然のことである)。

一方で、同性愛者の友人が言うには、同性愛者が生涯の伴侶を真面目に見つけることはひどく難しい、らしい。「どうせ結婚できないんだし、人生楽しもうよ」って誘ってくる人ばっかりなんだよね、と友人は唇の端を曲げて語っていた。

「結婚」という選択肢がないことで、真面目な付き合いが主流にならないのかな。もちろん、そこに乗じて楽しんでいる人がたくさんいることは言うまでもないが、そのせいで割を食っている人たちもたくさんいるわけだ。

別にそれだけを理由に「同性婚を法制化しろ」というわけではないが(経済的な問題点や、法律上の問題点等は既に多くの人が議論を重ねている)、異性愛者にとっては思いもかけないような場所に「結婚が認められていることのメリット」が隠れていることに気付かされた。

だからやっぱり、同性婚という「選択肢」があること、それ自体がとても重要なのだ。

『わがしチャンネル』の二人が教えてくれたことは、「政治」という大きなものの身近さだった

「同性婚」がオッケーな国ではないことを、大学生になって初めて知った

大学の半分くらいの時間を、政治に興味のない状態で過ごした。マニフェストを見ずに投票に行って、名前聞いたことあるな・・・・・・マニフェストとかは知らないけど・・・・・・くらいの人に投票したり、フィーリングで名前を選んで投票したりしていた。政治を知らないことが素敵な人間の条件だと思っていた。「投票すること自体に価値があるんだ」みたいな耳触りの良い言葉を信じて。

大学の半分くらいの時間を、法律に興味のない状態で過ごした。ずっと同性カップルは結婚できると思っていたし、ずっと名字はただ「名前を変える」というロマンだけのためにみんな変更しているんだと思っていた。それくらい無知だった。

無知なまま、生きてこられたのは私が自分のことをマジョリティだと信じ込んでいたからだった。政治を知り、法律を知らないと、大好きな人たちの生活が危うくなるかもしれない、なんて思いもしなかった。

逆に言えば、私が、私だけでなく色々な人たちが、「同性婚成立」に少しでも興味を持っていたら、『わがしチャンネル』の二人は別れずに済んだかもしれない。それくらい、政治や法律というのは身近な話で、「身近な人を守る」ためのものなのだ。

私たちは自分で選ぶと同時に「政治」や「制度」によって人生を選ばされている

『わがしチャンネル』のふたりは関係を終わらせた。それは彼女たちの選択であり、またそれは彼女たちの選択ではなかった。選んだものでもあり、選ばされたものでもあった。私たちのする選択も同じだ。

たった一人の意志だけではどうにもできない社会のルールだったり、社会情勢だったり、そういうものが私たちの生活に影響を与えている。私たちは本当に完全な「自由意志」の元で決めることなんてできない。「自由意志」には最初から、社会からの影響や圧力が織り込まれている。

だから、私たちの行う選択のひとつひとつは、今の「政治」「法律」「社会」「経済」・・・・・・、本当に色々なものから影響を受けている。だからこそ、影響を与えてくるものに興味を持ち、私たちが自分の頭で、どんな世の中を生きていきたいのか考え抜いて、選び取っていかなければならない。

政治は、私たちの生活だ。だから、難しいものだと思考停止していても良いことはない。政治を避けて、私たちは幸せをつかみ取ることはできない。

未来の『わがしチャンネル』が別れを選ばされない世界へ

今、この社会では、『わがしチャンネル』の二人は別れを選んだ。

それは、結婚ができる社会でも、結婚ができない社会でも、選ばれた選択肢だったかもしれない。でもその選択が、もし1%でも、制度や政治によって「選ばされた」ものだったら。やっぱりそれはとても悲しいことで、「同性婚」という選択肢があればと心の底から思う。

だから将来、若者たちが、次の世代の『わがしチャンネル』のような二人が、「同性婚」という選択肢が当たり前にある状態で、恋愛関係に向かっていく社会にできたら。悲しい別れも、たくさん目に入るかもしれない。でも、幸せになる人だって増えるはずだ。私は、そんな社会の方が、数段住んでみたい、と思うけど、なぁ。

 

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