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Writer/雁屋優

「セクシュアリティ受容のすすめ」におもうこと

「LGBTである自分を肯定できていますか?」なんて問いは、幾重にも傲慢で、無知で、無神経だ。LGBTの人々は、なぜ、自身のセクシュアリティの受容を強いられるのだろうか。呪いの言葉と言っても差し支えない、受容の要請は、何に繋がっているのか。その構造を考察する。

「セクシュアリティ、受容した方がいいよ」の呪い

LGBTであることは、当事者が自分の考えや努力によってのみ受容しなければならないのか。

何でLGBTの人々だけ、セクシュアリティを受容しろって言われるんだ?

「自分のセクシュアリティを受容できていないとつらいよね」と言ったのは、誰だったか。そういう言い方をするLGBT当事者や支援者が多くて、もう誰だったか、思い出せもしない。

受容できたらいいだろうけど、さあ。でも、それって。

その言葉は言葉にならなかった。私はただもやもやとしているだけだったから。

だから、今言葉にしよう。

そもそも何で、LGBTの私達だけが、“自分のセクシュアリティを受容” しなければならないの?

私が自分をどうこう思う以前に、社会の側が私を排除したんじゃないか。迫害したんじゃないか。

「おまえはおかしい」と、折に触れ、ありとあらゆる手段で、突きつけてきたのだろう。それを、忘れたとは言わせない。私は、覚えている。

受容と聞くと、ほの暗い感情がわいてくる。

LGBTに限らない受容の話

受容の問題は、セクシュアリティに留まらないものだ。有名なところで言えば、キューブラー・ロスの言う “死の受容” があるし、障害者支援に関わっている人なら “障害受容” という言葉に聞き覚えがあるだろう。“死の受容” は余命宣告を受けた人がどのように死を受容するかという話で、“障害受容” は障害者が自分の障害を「そういうものだ」と思えるようになるまでの話を指す。

支援者だけではなく、LGBT当事者自身が他の当事者に対して、「自分のセクシュアリティを受容した方がいいよ」と言うこともある。たしかに、LGBTである自分を、自分で否定し続けているのはつらい。自分で自分を傷つけているのと、あまり変わらない。

そうなんだけど、でも、やっぱり、LGBTであることを自分で否定してしまう状況を作ったのは、当人じゃなくて、社会なのだ。それなのに、社会の不手際のつけを、LGBT当事者が負わされている。それって、とても不条理だ。

セクシュアリティを受容しなければならないのは、なぜですか?

そもそも、だ。シスジェンダーでヘテロセクシュアルでモノガミーの人は、自分のセクシュアリティに疑問を持たなくていいし、名前なんてつけなくていいし、自分のセクシュアリティを “受容” する必要なんかないわけだ。

自分でセクシュアリティを受容しないとつらい状況の前提として、自身のセクシュアリティを社会や他者に否定されていることが挙げられる。当たり前として肯定されている人々に、この前提はない。前提条件から、違っているのだ。想像を絶するほどに。

つまり、私が自分のセクシュアリティを受容するしないの問題にぶち当たるのは、前提として、セクシュアリティが社会に否定されているからだといえるのだ。

私がつらいのは、私のせいですか

それでも、無神経な人は言う。「受容しないと、つらいよ」と。

セクシュアリティを受容(すべき)って、やっぱりもやもやする

「セクシュアリティを受容できないとつらい」という言説を、真っ向から否定したいわけじゃない。自分のセクシュアリティを、こんなものだなと思えない日々は、たしかに私もつらかった。

ある意味では、その言葉に真理はある。いや、その言葉は、嘘じゃない。

でも、やっぱり私は納得なんかできやしない。だって、その言葉には、あなたがセクシュアリティに関してつらいのは、あなたが自分のセクシュアリティを自分で受容していないからで、つまりあなたが悪いというメッセージが隠されている。

少し意地悪だけど、私は問うてみたい

だから、今度もし、自分のセクシュアリティを受容云々と話をされたら、その人に聞いてみたい。

「受容していないのは、私が悪いんですか? 受容しなければつらいというこの状況を作り出しているのは、何だと思いますか?」

どんな答えが返ってくるだろうか。少々意地悪かもしれない。それでも、「セクシュアリティの受容云々」と言われて、もやもやしながら黙ることは、もうしない。私が何にもやもやしているかわかったから。

LGBTの話題でも出てくる、自己責任論

こんなにも、「セクシュアリティの受容云々」発言について書くのには、理由がある。セクシュアリティの受容をLGBT当事者に求める姿勢は、LGBTであることで社会から精神的負荷を負わされているのに、その負荷の責任は、当事者に求められているからだ。

勘のいい人は、気づいたかもしれない。それって、つまり、自己責任論だよね、と。そう、この話は、自己責任論に繋がりうるのだ。

「LGBTであることを理由に社会から排除され、精神的に苦痛です」と表明している人に、「あなたが自分のセクシュアリティを受容していないからだよね」と平然と返すことは、「あなたのつらさは、あなたのせいです」と言っているのと何も変わらない。

だけどどうしてか、LGBT当事者にも、支援者のなかにも、それをやってしまう人がいる。

ポジティブであれという要請なんか、破り捨てる

こういった言葉の亜種として、「LGBTでよかったことはありますか?」がある。

傲慢で、無神経で、無知な質問

自己責任論に繋がりうる、“セクシュアリティの受容” 圧だけど、似たような言葉がある。「LGBTでよかったことはありますか?」だ。

本当に、この言葉を聞いたとき、私は、怒りしか感じなかった。社会から排除され、迫害されている話をしているなかで、迫害の理由であるセクシュアリティであってよかったことを尋ねるなんて、どこまで無神経であれるのだろうと呆れもした。

社会にはびこるマイノリティ幻想

「LGBTでよかったことはありますか?」には、マイノリティ幻想とでも呼ぶべきものが隠れていると私は考えている。人々が、頑張っているマイノリティや輝いているマイノリティを切り取ることからも、よくわかる。

社会が、LGBTをはじめとしたマイノリティに求めていることは、相当に残酷だ。

LGBTであるがゆえに結婚ができなかったり、職場で冷遇されたり、社会から孤立してしまったとしても、不満を言わず、人一倍努力して、輝いて、希望を与え、それでいて、権利は主張せずにいてほしい。

つらくても、笑顔を絶やさずに、懸命に生きていてほしい。

こんなところだろう。

だから、LGBTの人々が自身のセクシュアリティを否定的に思ってしまうのも、つらいのも全部、自身のセクシュアリティを受容していないLGBTの人々のせいにしておきたいのだ。

LGBT当事者であるメリット? デメリットがはるかに大きい

個人的には、「LGBTでよかったことなんか一つもない」とも言えない。LGBT当事者で物書きをしているからこそできたご縁はある。でも、「LGBTでよかった」とは言えない。

明らかにLGBTであるメリットよりデメリットの方が大きいのだから。私達は、そういう社会を生きている。法律婚はできない。不動産を借りようにも、同性カップルは断られることがある。勤めても、人と話しても、マイノリティの存在をないものとしているこの社会は、生きにくい。

この社会で、「LGBTでよかったことは何ですか?」と当事者に問う人は、傲慢で無神経だと思われる覚悟をもって言葉を発してほしいものだ。

俯瞰してみたら、きっと自分のつらさの正体がわかる

私は、セクシュアリティの受容じゃなくて、構造を見たい。そして、セクシュアリティの悩みがあるLGBT当事者には、悩みの根源がいつの間にか社会に築かれてしまった固定概念の影響を受けていないか、冷静に考えてみてほしい。

呪いの言葉に惑わされないで

自分のなかで、自身のセクシュアリティと折り合いをつけることは重要ではある。でも、それを、他者や社会から要請されるのはおかしい。自分のセクシュアリティをどう思うかは、その人が決めていいし、そのありようを咎められることもない。

何より、散々人のセクシュアリティを否定しておいて、「自分のセクシュアリティは、自分で肯定してね」なんて、都合がよすぎやしないか。

“セクシュアリティを受容する” のも “「LGBTでよかった」と思う” のも、一見すると、とてもポジティブで、前向きで、いかにも幸せになれそうだ。格好よく思えるのも、無理はない。

だが、それをLGBT当事者に要請する構造は、ポジティブとは程遠い。傲慢で、旧態依然としていて、人の力を奪うものだ。だから、私は、その手には乗ってやらない。

折り合いのつけ方を考える

とはいっても、いつかどこかで、自分のセクシュアリティと何らかの折り合いをつける必要はある。セクシュアリティ以外のこと、例えば仕事に没頭して、セクシュアリティについて考えなくてもいい生活を送るのも一つではある。簡単ではないけれど、そうしている人もいる。

しかし、多くの人は、そうはいかない。職場で、家庭で、ありとあらゆるところで、自分がマイノリティだと実感し、疎外感に苛まれることもあるからだ。

これを読んでいるあなたが自分のセクシュアリティに悩んでいるなら、「ゲイだなんて、気持ち悪い」とか、「誰も好きにならないなんて、おかしい」と内心で思ったときに、「誰が、そう思っているの?」「何か理由があるの?」「本心でそう思うの?」と自身に問い返す癖をつけるといいのではないか。案外、誰かが口にしていたことやそう思わされる体験をしただけのことが多い。

もし理解のある精神科もしくは心療内科に出会えたなら、カウンセリングを受けることも、有効かもしれない。自分の感情や考えを他者に話すことで、見えてくるものもあるからだ。自分のものだと思っていた、セクシュアリティへの否定的な感情が、実は身近な誰かの言葉から来ていた可能性だってある。

生き続けている、そのことを悪くないなと思えたら

LGBTだからといって、苦境を乗り越えなくていいのだと、私は思う。乗り越えられない苦境がいくつもいくつも転がっているのが、この国だから。

だから、自身のセクシュアリティを受容できなくても、「LGBTでよかった」と思えなくても、今ここに生きている自分を、その生存を、肯定まではできなくても、悪くないなと思いたい。

そしていずれは、私のセクシュアリティってこんなものか、とふわっと思えるようにはなりたい。そのためには、社会の変化が必要だ。

今自分を肯定できないのは、自分のせいじゃないから、それだけ覚えておいて。それで、少しは楽になるかもしれない。

 

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