プライド月間である6月に入ると、YouTubeにセクシュアルマイノリティを描いた広告が掲載された。その中のFTMないしFTX /ノンバイナリーとおぼしきキャラクターの胸オペの手術痕らしきものに対して、一部の人たちから無理解に基づく批判が寄せられている。
胸オペの手術痕は個人で違う
シャツの襟元をくつろげて、自慢げに胸オペの手術痕を見せつけるクィアのキャラクター。イラストのタッチに合わせてデフォルメされている大きなそれを「ずさんな傷跡」と表現したり、「傷がついた身体を持つ人は不幸だ」なんて言う人がいたのだけど、これは誤解に基づく偏見である。
胸オペの術式は、個人で異なる
「現代の技術では、これほど大きな傷が残るはずない」などと勝手な憶測で断ずる人がいたけれど、これは誤りだ。傷跡の大きさも残り方も、個人で異なる。だって言うまでもないけど、乳房の大きさも形も、個々人で異なるから。
比較的傷跡が残りにくいと言われているのはU字切開で、乳輪の下半周を切って乳腺を取り除く術式だ。肌と比べて乳輪は色素が濃いから、この方法だと傷跡も目立ちにくくなる。でもこの術式が採用されるのは、乳房がごく小さい人に限られる。
平均以上のサイズだったり、もしくは下垂していたりすると、必然的に乳輪以外の皮膚も切開する術式(鍵穴や逆T字など)になってしまうことが多い。その場合だと、やっぱり傷跡は目立ちやすくなる。つまり「現代の技術」を持ってしても、全員が「ほぼ目立たない」手術痕で胸オペができるとは限らないのだ。
胸オペにもリスクはある
胸オペを一度でも検討したことのある人なら知ってると思うけど、どんなに有名な病院でも、どんなに腕の良い医師が執刀しても、一定程度の割合でリスクは発生する。あらゆる治療・外科手術にそれは付きものだし、希望通りの仕上がりにならないケースだってもちろんあるのだ。
具体的には、乳輪・乳頭の壊死や皮膚のたるみ、胸部のえぐれなどが挙げられる。そういう結果になってしまう人も少なからずいるのは、もちろん事実だ。それでも当事者たちは、そのリスクを知らされた上で胸オペに踏み切っている。きちんとした病院は手術の前にリスクの説明は行うはずだし、第一胸オペを選択する人の大半は事前にそういう情報も得ているだろう。この時代、インターネットでいくらでも症例写真を見ることはできるし。
背景を知ろうともせずに憶測のみで非難すること
傷跡の目立たない術式を希望しても、誰もがリスクがゼロ、つまり希望通りの術式で手術を受けたり仕上がりを手に入れたりすることは、現代では不可能だ。その手に握っているスマホで検索すりゃわかる事実を知ろうともせず、他者の傷跡を「ずさん」と表現すること。その傷跡とどうにか折り合いをつけて自らの身体を誇る人を、「小さな傷跡で済む術式を選択せず、わざと目立つ手術痕を “勲章” のように残したんだろう。それをクールなことのように見せつけるのはティーンに悪影響だ」なんてむちゃくちゃな論調で殴りつけること。
実態から乖離しているそんな意見がどれほど暴力的で、胸オペを選択したクィアたちを踏みにじるものなのか。きっと、想像すらしない。それどころか自分たちこそが正義なのだと、信じて疑わない。そしてもっとおそろしいことに、こういう偏見を吐く人たちの中には、セクシュアルマイノリティ当事者も少なくなかった。
そもそもクィアや胸オペに限らず、病気や事故によって目立つ傷跡のある人はこの世にごまんといる。「傷のある身体を持つ人は不幸だ」という主張を声高に叫ぶことは、身体に傷を負う人たち全員を侮辱していることに気づいているのだろうか。
傷跡が残ってもぼくが胸オペを選択する理由
この胸オペ手術痕の誤解に基づく偏見にぼくがブチ切れているのは、ぼく自身も胸オペを控えている人間だからだ。控えてるっていうか、下手したらあなたがこれを読んでるときにはもう手術後の可能性もある。
「傷跡の目立ちやすい術式」が怖くて、一度は保留にしたけれど
避けられぬリスクが伴うことをわかっていながら、どうしてぼくが胸オペを選択したのか。それをここで述べておきたい。
ぼくが胸オペを決めたのは、学生時代だ。20歳ごろからバイト代でコツコツと手術費を貯め込み、「いつか必ずこの身体のふたつのできものを取ってやる」と意気込んでいた。
「できもの」という表現がしっくりくるほど、ふたつのふくらみはぼくの身体にふさわしくなかった。余談だけど世界で最初に性別適合手術を受けたと言われるリリー・エルベが自分のペニスを「できもの」と呼んだという文献を読んで、ものすごく共感したのをいまだに覚えている。
そして2年前、28歳のときに、タイの病院での手術をアテンド会社へ申し込み、胸部の写真を現地へ送った。ぼくのサイズはカップ数に換算するとおそらくB〜C程度だったから、てっきりU字切開でやってもらえると思っていたんだけど。それを見て返ってきた医師の見立ては、「U字切開ではなく、傷跡の目立ちやすい術式になるだろう」というものだった。
予想外の回答にビビってしまい、いったん手術自体を保留にさせてもらった。まさか自分が傷跡の残りやすい術式になる可能性が高いだなんて、思いもしなかったのだ。鍵穴切開や逆T字切開等の術式やリスクについては、インターネットでもちろん知ってはいた。でもそれらはあくまで「例外」だと勘違いしていた。SNSでもよく見かける当事者の人たちはU字切開の人たちが多く(あくまでぼくの観測範囲内の話に限る)、それ以外の術式になった人たちは「平均よりも大きいサイズの人たちだけなんだろうな」と思い込んでいた。
傷跡が残っても正しい身体で生きたい
見立てを告げられてから、改めてそういうケースの症例写真をスマホで見漁ること約半年。考えに考えた末に出した結論は、「目立つ傷跡が残ったとしても、リスクがあっても、やっぱり胸オペしたい」というものだった。
もし乳頭や乳輪が壊死しても、胸がえぐれてしまっても、それでもこの「できもの」をくっつけたまま生きていくよりはるかにましだ。できものがふくらみ始めた11歳ごろ、おそろしくておそろしくて、せめてこれ以上悪化しないようにと毎晩うつぶせ寝で眠っていた。そして今でも、その癖が抜けない。
20年近く継続的に違和感を感じ続けているんだから、これはやはり「できもの」なのだ。この「できもの」のない身体こそが、自分にとって正しいのだ。
もし目立つ傷跡が残ったとしても、それごと自分の身体として受け止めるなり折り合いをつけるなり、努力しよう。そう決意し直して、改めて正式にタイの病院で予約を取った。
クィアの胸オペ手術痕「美化」は子どもたちに悪影響?
ぼくの胸オペに対する葛藤を踏まえた上で、YouTubeプライド月間の広告への批判に立ち返ろう。手術痕を誇らしげに見せるその行為は子どもたちを「洗脳」するおそれがある、という謎な指摘もSNS上では散見された。
クィアの活動家たちによる子どもたちの「洗脳」とは?
先ほど述べた通り、「胸オペによる大きな傷跡を “勲章” のように誇ることで、子どもたちへのクィアへの憧れを促すおそれがある」というトンデモ言説を長々と訴えてる人もいて、膝から崩れ落ちそうになった。
その人たちは、クィアが「大きな傷跡」を見せることに対し、「困難や苦悩を乗り越えた武勇伝として語っている」という意味不明な解釈を付けた上で、「これを見た子どもたちは大きな傷跡をクールなものだと信じてしまう」という警鐘を鳴らしていた。
“目立つ傷跡など本来はなくていいのに、無知で無垢で純粋な子どもたちがわざと大きな傷を負う術式を選択したらどうするのか。子どもたちの未来が危ない。”そんなもっともらしい口調で語られるご意見は、正義っぽいものでコーティングされた偏見と差別に過ぎない。
繰り返しになるけれど、傷跡が目立つものになるかどうかは個々人による。多くの人がわざわざ「武勇伝」を語りたいがために、あえて「目立つ傷跡」を選択してるわけじゃない。それを踏まえた上で、わざと「目立つ傷跡」を選んだ人が仮にいたとして、そしてその人がそれを誇っていたとして、そのことの何が罪なのだろう。自分の身体の形を、自分で決める。そんなのは当たり前の権利だし、他人が好き勝手口を挟んでいい領域じゃない。
まあ、「LGBTQ活動家が子どもたちを洗脳している」なんていう意味不明ないちゃもんは、何も今回のYouTube広告に限った話ではないんだけど。
性別移行を後悔する人もいるのは事実だけど
「子どもたちの洗脳を危惧している人たち」の主張には、「思春期特有の悩みを性別違和と勘違いして性別移行を進めてしまい、大人になってから後悔する人も増えている」というものも含まれていた。
たしかにそういう事例はある。SRS(性別適合手術)もホルモン治療も基本的には不可逆的なものだし、「やっぱり違っていた!」と思い直したとて元通りに戻ることはできない。
ただ、それとこれとは別問題だ。クィアが性別移行の過程で負った傷跡ふくめて自分の身体を誇ることと、それに触発されて性別移行に踏み切って後悔する人がいることは、それぞれ独立した問題として別個に考えなければならない。
そしてもし仮に、このキャラクターのように誰かが取り戻した自分の正しい身体を誇り、それによって若い人が「悪影響を受け」て「間違った選択をしてしまった」としよう。その責任は果たして本当に、「正しい身体を誇る人」が負うべきものなのだろうか。
性別移行をした人たちが自らの身体の写真をSNS等で公開すること、そこには自己満足も承認欲求も自己顕示欲も、きっと存在する。でも同時に在るのは、似た立場の人へのエンパワメントだ。「傷のない身体こそが美しい」という価値観からの解放、ルッキズムへ突き立てる中指。「胸オペの手術痕」を誇らしげに見せびらかすその姿から、「私の身体は美しい」という力強いメッセージを受け取ることができる。また、情報提供という意味においても、非常にありがたい行為だとぼく自身は感じている。
異性愛・男女二元論で溢れかえっているのになぜクィアは存在するの?
だいたい、クィアが手術痕をSNSでアップしたくらいで若い人たちがそんな簡単に「悪影響」とやらを受けるんだったら、なんで男女二元論・異性愛前提のこの世界で、セクシュアルマイノリティが存在するんだよ。
そしてティーンズを「影響を受けやすい」「感化されやすい」「洗脳されやすい」なんて決めつけること自体、ティーンズ自身に対して失礼すぎやしねえか。性別違和を訴える若い人たちの声を「思春期のよくある悩み」と鼻で笑う大人の方が、よっぽど若い人たちをシスジェンダー・ヘテロセクシュアルに「洗脳」してるだろ。
自分の体は自分で決める
他人の身体の在り方に、口を挟まないで
「目立つ傷跡はできるだけ残すべきじゃない」、そういう考え方を持つのは勝手だけど、押し付けないでほしい。現代の医療ではこんなに大きい傷跡など残らないはずだなんて、勝手な思い込みと浅い知識で決めつけないでほしい。それを正論だと疑っていないのであれば、「胸オペ」を考えずに済んだ自分の特権性──マジョリティ性に自覚的であってほしい。
「傷跡が残るよりは性別違和をやり過ごして生きるほうがマシなはずだ」なんて価値観、全人類に共通してるわけがない。どの選択肢がより辛いか、楽か、生きやすいか、幸福か。それを決めるのは本人であって、他人が口を出していい領域じゃないのだ。出していいと思っているのなら、それはあなたの傲慢だ。
クィアとして生きること≠「特別な自分」の演出
“胸オペの手術痕でキラキラセクシュアルマイノリティの「特別な自分」を演出して、ティーンズを洗脳してる”。こういう主張がどれほど下衆か、どれほど残忍か。それがわからないんなら、脳内お花畑すぎる。クィアに対する差別や迫害の歴史を知らずに言ってるんなら、せめて勉強してくれよ。
ぼくたちは、自分で「選択」してクィアになったんじゃない。ただ生まれてみたら性別違和を持っていた、それだけの話だ。あなたが今まで生きてきた中で、自分の身体とアイデンティティの剥離を覚えたことも疑ったこともないのと同じように。
大きな手術痕を持つキャラクターに「もっと小さな傷で済むはずだ!」なんて条件反射で噛み付くんじゃなくて、「なんでこんなに目立つ傷が残るのだろう」と一度立ち止まって考えてみてほしい。若い人たちの未来をおもんばかるのなら、まずはそこから始めてくれないか。
自分の知っていること/見えているもの、それのみがこの世の真理で正義なわけがない。できる限り他者を踏みつけないためにも、己の知識を常に疑う姿勢は忘れたくない。誰も傷つけずに生きていくのは無理だから、せめてその可能性を最小限にとどめる努力は惜しまずにいようよ。