ノンバイナリーとして発信を続けていると、セクシュアリティについて悩みを抱えた若い方から相談を受けることがたまにある。その中でよくあるのが、「私も自分のこと女/男とは思えないし、たぶんノンバイナリーだと思うんですけど、 “にわか” って思われるのが怖くて名乗れないんですよね」というものだ。
わたしがノンバイナリーを自称し始めたワケ
そもそも、なぜわたしがLGBT当事者として発信するにあたり「ノンバイナリー」を自称しているのか、その理由に立ち返ってみたいと思う。
検索で引っ掛かりたかったから
もともと文章を書くのが好きで、10代のころからFC2ブログで純文学もどきのBL小説やエッセイまがいのものをネットの海にせっせと放流し続けてきた。そうしているうちに「もっとたくさんの人に読まれたい」という欲望がむくむくと湧いてきて、それで検索に引っかかりやすいように「ノンバイナリー」を自称するようになったのだ。
要は強すぎる承認欲求がきっかけだったので、わたしの場合は「LGBT当事者として世間に物申したい!」みたいな強い信念を持って、名乗り始めたわけじゃない。自分が「男でも女でもないセクシュアリティである」ということを、わかりやすく提示するためにたまたまノンバイナリーという言葉がそこにあっただけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「ノンバイナリーであること」にプライドみたいなものはない
これはあくまでわたしの話なんだけど、「ノンバイナリーであること」に対してプライドのようなものは特に持っていない。「ノンバイナリー」って言葉を自分の性自認が「男でも女でもない」ことを示すための道具くらいにしか思っていないので、「このセクシュアリティを楽しむぞ!」みたいな気概も特にないのだ。
ただ、「男でも女でもない普通の人」として在りたい。そういう人間がこの世界の片隅に生きてて、呼吸してるってことが伝わったらいいなと思って、「ノンバイナリー」という言葉を使い始めた。
ノンバイナリーと自称することへためらい
最初は「ノンバイナリー」と自称することに、わたしもためらいを感じた。Twitterやnoteのbioに堂々と書いてよいものか、ちょっと悩んだりもした。だから相談を持ちかけてくださる方の抱える、名乗ることに対する不安は、少しだけわかる。なぜ、「ノンバイナリー」を自称するときにこんな気持ちに陥るのだろう。
ノンバイナリーの定義の広さ
理由のひとつとして考えられるのは、「ノンバイナリー」という言葉の定義や曖昧さだと思う。同じノンバイナリーを自称する方でも、わたしとまったく同じ感じ方をしている人なんてもちろんいない。
男と女の真ん中に立っている人、ちょっと女/男に寄っている人、その周りを泳いでいる人や、性別という概念自体持たない人、あるいは男と女両方だと感じる人、もしくはそのときどきで違う人。それらをひっくるめて「ノンバイナリー」と呼ぶから、当てはまっているのかいないのかわからなくなってしまう人も多いんじゃないか。
「ガチのLGBT当事者」に失礼なのでは、という心配
「ガチのLGBT当事者」ってなんだよって話ではあるが、ノンバイナリーはシスジェンダーに “擬態” しやすい人が多いのだと思う。これはわたしも含めて。わたしはメンズ服を着用しているけど、身長が低くて化粧をするタイプだから、ぱっと見はボーイッシュな女性にしか見えない。少なくとも “男性” だと勘違いされたことは今までの人生においてないし、女子トイレでギョッとされた経験もない。そして現在はシス男性と結婚しているから、黙っていればセクシュアルマイノリティだと疑われることはまずないのだ。
だからなんとなく、“擬態” できない他のLGBT当事者に対して、また同じノンバイナリーでも性表現が女性ないし男性にはっきりと決定している方に対して、引け目のようなものがある。いつ「バレる」かわからない不安と戦うことが比較的少ないわたしが、はたしてLGBT当事者を名乗っていいんだろうか。ノンバイナリーであると自称して、いいのだろうか。
ノンバイナリーの苦悩は「軽度」なのか
ノンバイナリー当事者でさえ、自分の苦悩を「他のセクシュアル・マイノリティに比べたら軽度なのでは」と矮小化してしまう傾向がある気がする。FTMやMTFに比べると、心と身体の剥離が小さいから。だからなんだか、LGBT当事者と声高に主張するのは違和感があって、でもシスヘテロとは言い難い。
だけど、心と身体の齟齬の大小が、悩みの深さや軽度を測る物差しなわけじゃないよ。わたしだって真剣に、中身と容れ物のかたちのズレに悩んでる。それを他人に「まだ軽い方だよね」だなんて、ジャッジされたくない。
どこにいっても仲間外れになりやすいノンバイナリー
ノンバイナリーは、LGBTにもマジョリティにも居場所を見出しにくい。それは突き詰めてしまうと、結局のところセクシュアルマイノリティ当事者自身も男女二元論を基準に物事を捉えているからなんじゃないか。
「男でも女でもないセクシュアリティ」の理解されにくさ
ノンバイナリーという在り方は、LGBT当事者にもシスヘテロにも理解されにくい。トランスジェンダーに含まれる概念であるはずなのに、「男→女」ないし「女→男」のわかりやすい移行じゃないから。「どちらでもない」が認識されていないだなんて、まるで性別というものは「男」と「女」の2種類しか存在していないみたいじゃないか。
わたしの心は、たしかに身体とは異なる。乳房のある肉体には違和感を感じているし、この容れ物の中に押し込められている現状をひどく窮屈に思う。その気持ちはたしかに本物なのに。「女/男」のどちらの身体も望まないから、「そのままで生きていけないってわけじゃないんでしょ」と軽んじられてしまう。
でもそれは、勘違いだ。わたしみたいに性別違和がある人もいれば、ない人もいる。「どちらでもない/どちらでもある」は、「どちらでもいい」ではない。
「ノンバイナリー」はそもそも想定されていなかった
LGBTという言葉の中に、ノンバイナリーは含まれていない。というより、トランスジェンダーの一部であるということをあまり知られていない。
もちろんLGBTというこの頭文字の羅列がセクシュアル・マイノリティのカテゴリを網羅しきれていないことは、もはや自明だけど。そしてそこに含まれていないセクシュアリティは、ノンバイナリーだけではないということも。
そもそも初めから、わたしたちのような「男でも女でもない」セクシュアリティは想定されていなかったんだろうな。この世には「男」と「女」しかいないと長い間社会では信じられてきて、だからこそFTMないしMTFはまだ比較的シスヘテロの人たちにも理解されやすい。
でも、FTN(X)やMTN(X)は認知すらされていなかった。存在しないものとして扱われてきたからこそ、いまだに他のセクシュアル・マイノリティのカテゴリに所属する当事者たちにも「あなたは私たちとは違う」と思われている気がしちゃう。
ノンバイナリーの特有の疎外感
LGBT当事者の人たちには “にわか” と言われてしまうが、さりとてシスヘテロのマジョリティの輪にも入れない。どこにも居場所がないこの疎外感こそが、ノンバイナリーの人たちが抱える問題のひとつである。
いかにシスヘテロから離れているか、いかに心と身体が食い違っているのか、いかに悩んでいるのか、これらの要素がLGBT当事者であるための証左みたいに見えてしまうかもしれないけれど。そうじゃない。悩んでいてもいなくても、わたしたちが「男でも女でもない」という事実は変わらなくて、この在り方を認めてほしいと世の中に叫ぶことは当然の権利なのだ。
「ノンバイナリーを名乗る資格」なんてないよ
セクシュアリティは、悩みの深さや重大さを測るものじゃない。他の誰かと比較してマシだったらマイノリティとして声を上げちゃいけないなんてこともないし、そもそもそんなものを比べることになんの意味があるのだろう。LGBT当事者が社会に向けてアピールしたいのは、己の不幸度なんかじゃないはずだ。
セクシュアリティの名称は、人を分類するためのものじゃない
どの程度悩んでいたら、困っていたら、「ノンバイナリーと名乗っていいよ」「LGBTとして認めてあげる」なんて、そんなばかな基準はないよ。名乗りたくなったら、名乗ればいいんだ。逆に言えば、名乗りたくなければもちろん名乗らなくていい。
「名乗る資格」なんてものは存在しない。誰かから与えられるものでも、許可を取らなきゃいけないものでもない。他人が「違う」と判断すべきことでは、断じてない。セクシュアリティは、自分自身が決めるものだから。名乗ることで居場所を発見できて、それで安心できるのなら、自由に名乗ればいい。
こういうセクシュアリティの名称は、そもそも人を分類するためにあるんじゃない。「自分は他人とは違う、異質な存在なんじゃないか」と不安になっている人に、居場所を示してあげるための言葉であるはずだ。
「悩みの深さ」=「マイノリティの証」ではない
悩みの深刻度によって、セクシュアリティは決まらない。そしてこういうものは、比較すべきものじゃないのだ。誰かより不幸で、誰かより不便で、誰かより虐げられていることが、「マイノリティの証」ではない。わたしの悲しさや悔しさや辛さは、わたしだけのものであって、見知らぬ他人が「あなたはマシなほう」と勝手に断じていいものじゃない。わたしの苦しさも、あなたの痛みも、どちらも等しく尊重されるべきだ。
ノンバイナリーと自称することで、あなたの人生がより良いものになるのなら。少しでも今までより生きやすくなるのなら。マイノリティとして、一緒に声を上げたいと思ってくれるのなら。そのときは、SNSのbioに「ノンバイナリー」と書いてくれたらわたしは嬉しい。その言葉を見つけると、わたしは「1人じゃないんだなあ」と安心できるから。