毎年2月のカレンダーをめくると反射的に苦虫を噛み潰したような顔をしてしまうのは、きっと日本中でぼくだけではないんだろう。バレンタインが近づくこの季節だけは、大好きなゴディバの看板さえ目を逸らしてしまう。
バレンタインで傷つけられたノンバイナリーのぼくの自尊心
「女の子が好きな男の子へチョコレートを贈る日」とされているバレンタインデー。製菓会社の戦略といえど、浮かれたイベントに乗っからない理由など特にない。もっともそれは、男女二元論を疑いすらしたことのない人たちに限る話ではあるが。
バレンタインで毎年「女の子」を突きつけられていた
2月に入ると、教室がわずかに浮き足立つ。「誰にあげるの?」の言葉たちは、実際の音声よりもむしろ手紙でひそひそと交わされていたような気がする。気付かぬふりを決め込みながらも、耳をダンボみたいにでっかくしてる男子たち。その狭間で、頬杖をついて所在なく教科書の図説なんかを眺めていた。
高校を卒業してもう10年以上が経つが、あの空気はいまだに鮮明に思い出せる。あの時期はことさらに、世界には「男」と「女」のみしか存在していないみたいに感じられた。
そのころのぼくは、「ノンバイナリー」という単語こそ知らなかったとはいえ、自分が「女の子」でないことは強烈に自覚していた。でも恋愛対象は「男の子」のみに限られていると思い込んでいたため、余計に “性” について混乱していたのだ。
「女の子」であることをノンバイナリーのぼくに押し付ける暴力性
好きな男の子は、いた。でも、チョコレートを渡したくなかった。恋心を打ち明けていた友人たちからは「絶対に渡しなよ! 後悔するよ!」とせっつかれていたものの、あいまいに笑ってごまかし続けていた。
うまく受け流すすべも知らない。それ以前に、自分のセクシュアリティについて説明する言葉すら、まだ持っていない。「なぜ渡したくないのか」を適切に答えることのできないぼくを、意気地なしと彼女たちはからかったけれど。
違う。
気持ちを伝えることよりも、恋に敗れることよりも、なによりもぼくは、「女の子」になってしまうことが怖かった。初潮を迎え、乳房の発達したこの身体で、「男の子」にチョコレートを渡したら、ぼくは「女の子」になってしまう。
そうなのだと、認めることになってしまう。ぼくがぼくで、いられなくなってしまう。そのことのほうが、ぼくにとってはずっとずっとおそろしかったのだ。
「みんな」のために生贄にされたノンバイナリーのぼくの自尊心
それでもまだ、学校ではなんとかやり過ごせていた。
友チョコに見せかけたみんなに渡すものとまったくおんなじ包装のチョコレートを、好きな男の子に手渡す。この作戦でなら、ぼくの恋を真剣に応援する友達の溜飲も下げられたし、ぼくも「女の子」に擬態しながら「女の子」にならずに済んでいた。
もっとずっときつかったのは、母に「親戚の男の子たち・叔父/伯父さんたちへのチョコレートに添える手紙」の執筆を強制させられたことだった。毎年毎年、何度も泣いて抵抗したのだけれど、母は頑として受け入れてくれず、そればかりか「女の子からチョコレートもらったら、みんなが喜ぶから」とぼくを嗜めた。
最終的にはヤケクソになって言われるままの文言を便箋に走り書き、踏みにじられた自尊心を抱えて自室でひっそり泣いていた。
成人後、母にこのことで深く傷ついた旨を伝えたのだけれど、どうやら伯母に「息子がチョコレートをもらえず悲しんでいるから」と頼まれてのことだったらしい。「みんなが喜ぶから」という言葉を思い出すと、今でもぼくの腹の内は煮えたぎる。
「みんなの喜ぶ顔」──従兄弟たちの馬鹿げた自尊心のために、母は泣いて嫌がるぼくの自尊心を生贄に差し出したのだ。
ぼくらノンバイナリー及び性的マイノリティの犠牲の上に成り立つ「バレンタイン」
義姉の頼みであれば断りにくい、という母の背景も理解はできる。ただそれでも、このことでぼくは母を恨まずにはいられない。
ぼくらノンバイナリー及び性的マイノリティの犠牲の上に成り立つ「青春」って、いったいなんなんだろう
バレンタインを嫌がる「マイノリティ」の我が子よりも、「マジョリティ」である「みんな」や甥っ子をおもんばかったこと。母のしたことを許せる日は、もしかしたら来ないかもしれない。だってぼくがノンバイナリーだとは知らなかったとはいえ、己の子どもよりも甥っ子のくだらないプライドを優先したのだから。
マイノリティの、ぼくらの犠牲の上に成り立つ青春って、いったいなんなんだろう。たかがチョコレートごときで満たされるような、そんなちっぽけでくだらない自尊心のために、どうしてぼくの大切な「女性ではない」というアイデンティティ──「ノンバイナリー」であることは、生贄に差し出されなきゃならなかったんだろう。
マジョリティの青春の養分になんかなりたくなかった
マジョリティがキラキラ輝く青春を送る裏で、ぼくらマイノリティの青春が影を落とさねばならない。“セクシュアリティをオープンにしていなかったから/できていなかったから。” “気付かなかったから/分からなかったから。”
そんな言い訳でこぼれ落ちていく若くやわらかい心と時間は、輝く青春を疑いなく送ることのできる子たちと等しく貴重なのだ。そのことを母は、そして大人は、あまりに理解していなさすぎた。
ぼくの声に耳を傾けてくれさえいれば、傷は浅く済んだだろう。「みんなが喜ぶから」なんて言葉で、「女の子」になんかなりたくなかったよ。従兄弟のバレンタインがぼくのおかげできらめいたっていうんなら、今からでも真実をカムアウトしてその幻想を叩き壊してやりたい。
ノンバイナリーのぼくの「バレンタイン」だって、尊重されたかった
「若い人間ひとりひとりの “性” の在り方を周囲の大人は正しく把握しておくべき」とか、なにもそんな無茶なことを言っているわけじゃない。
ぼくたちノンバイナリーや性的マイノリティの「バレンタイン」だって、尊重されるべきだった
心のかたちがどうあるのか、どんなひとに恋をして、恋をしないのか。だれかに性欲を抱くのか、抱かないのか。一対一のパートナー関係を望むのか、そうではないのか。青春の只中にいる人間が、どういうジェンダーやセクシュアリティ──性自認や性的指向を持つのか。
そんなことまでは、もちろんわからないけれど。接する大人たちは、もっときちんと個々人について考える必要があった。少なくともぼくは、考えてほしかった。「ジェンダー」「セクシュアリティ」の知識がなくとも、「嫌だ」という意思表示を汲んでくれれば済む話だったのだ。
ただ、ぼく自身に選ばせてほしかった。チョコレートを渡したいのか、渡したくないのか。バレンタインに参加したいのか、したくないのか。あのころのぼくが求めていたのは、シンプルにそれだけだったのだ。
ノンバイナリーのぼくの、現在のバレンタイン
自尊心をねじ伏せられた苦い思い出であるバレンタインを、それでも大人になった今は、楽しむことができている。嫌な記憶をフラッシュバックさせるイベントではあるけれど、それも少しずつ、己の意志で塗り替えている。
現在29歳のぼくはシス男性のパートナーと法律婚をしているんだけど、彼とのバレンタインは実に気楽だ。取り決めは特になく、ぼくが彼にチョコレートを贈る年もあれば、彼がぼくに贈る年もある。
なんならチョコレートじゃない年もあるし、去年は彼がぼくにちょっとした花束をくれた。一時期はトラウマすぎてバレンタインを避け続けていたが、いつのまにかなんとなく乗っかるようになっていた。
たぶん選ぶことさえできれば、それでよかったのだ。「女の子」として「男の子」に「チョコレート」を贈る日、ではなくて、「大切なだれか」に「何か」を贈る日。そしてそれは、「やらなければいけないもの」ではなくて、気が乗らなきゃ無視したってかまわない。
そう捉え直すことができたから、いつかはこの時期に街でゴディバの看板を見つけても心がざわつかなくなる気がしている。
男女二元論も恋愛自体も、押し付けないで
「恋愛イベント」は基本的に、性的マイノリティを排除していること
日本における恋愛にまつわるイベントは、現代でもなお、性的マイノリティを想定していない。バレンタインはもちろん、デートは男女の間柄のものとされているから「クリスマスは男女のカップルがデートする日だ」とか。
去年の暮れに、同性の恋人を持つ男性の友人からこんな話を聞いた。クリスマスデートでホテルのレストランの窓際の席を予約していたのに、なぜか奥のソファ席へ通されてしまったこと。店員に訊ねたら「窓際はカップルのお客様ばかりが予約していたので、手違いでこちらの席になってしまった」という説明を受けたこと。電話越しに彼がため息まじりで愚痴るのを聞いて、胸がきしんだ。
予約時に「男性・2名」と入力したら、自動的に「恋人同士ではない」とみなされてしまったのか。それゆえに起きた手違いならば、イベントを等しく楽しむ権利さえ性的マイノリティは剥奪されているということになる。
男女二元論も、恋愛自体も、押し付けないで
カップルは「男女」に限られないこと。恋人はだれしもが一対一なわけじゃないし、そのかたちは人の数だけあること。そして人類のみんながみんな、恋をするわけじゃないこと、他者に対して性愛感情を持たぬ人もいること。
そのことだけを、みんなが当たり前に頭の片隅に置いている社会になってほしい。そうすればすべての人にとってイベントは、楽しみたければ等しく楽しめる日になる。少なくとも「辛く苦しく乗り越えねばならない日」にはならないし、だれかの若かりし日の苦い思い出にもならない。
イベントって、そんなもんでいいんじゃないか。男女二元論とかいう歪んだ価値観は、そろそろゴミ箱に捨てちまおう。楽しみたい人全員が、各々の楽しみたい形で、楽しめるように。そして、興味のない人に強制する空気を作らないように。社会の中でそういう意識が育っていけば、きっとみんな、呼吸がしやすくなる。