私は性愛感情を抱かないアセクシュアルと、性欲を抱かないノンセクシュアルの間を行き来しています。そんな私は、性的なことにはほとんど関心がなく生きてきました。しかし、私も性的なこと、例えばセックスについて考える必要があるというできごとがあったのです。
自分の世界に性がない
セックスにも自慰にも、興味を持ったことはありませんでした。それは遠くの世界の出来事のようでした。幸いにして、私が高校、大学で関わってきた友人達はそういった生々しい話、いわゆる下ネタを私の前でするような人達ではありませんでした。私と同様にそういうことに興味がない人もいたのでしょうが、私の雰囲気がそういったことに微塵も興味がわかないと示していたこともあるかもしれません。
性のない世界を生きている
格好いい友人の一人と写真を撮り、彼氏と偽って大学の友人に写真を送るという遊びをしたことがありますが、すぐに嘘と見破られたくらいには、恋愛にも性にも縁のない人間とバレていたようです。なおこの格好いい友人は、写真を送って彼氏と嘘をつくことも含めて了承済みでした。
性のない世界を生きていましたし、今も多分そうです。性的なことをしたいと思わないし、そういった行為を自分がするという想像すらまったくできません。
セックス? 気持ち悪い
私にとって、セックスは未知のものであると同時に、気持ち悪いものでもありました。中学生になって保健の授業で赤ちゃんはコウノトリが運んでくるのではなく、男性と女性がセックスして、その結果受精し、子宮に着床して、約10ヶ月間子宮で育まれ・・・・・・といった過程を経て生まれてくるのだということを知りました。その時の嫌悪感は、人生最大のものだったことでしょう。気持ち悪くて、吐き気がしました。自分の存在の足場がなくなるかのようでした。
おそるおそる親に、「私も両親がセックスしたから生まれてきたの?」と聞いて、「そうだよ」と当たり前のように答えられた時、自分の存在すら汚いもののように思いました。セックスという汚くて気持ち悪いものをした結果として、自分がここに在る。その絶望感は計り知れません。
人工授精による出産だったらよかったなあと切実に感じていました。セックスによる誕生は、中学生の私にとって忌避したかった過去だったのです。
アセクシュアルでノンセクシュアルだから語ってはいけない?
そんな風に、セックスによる自らの誕生すら否定的に捉えたまま大人になったので、性的なことについて語れることなど、自分の中には何もありませんでした。
語れることが何もない
性的なことはすべて気持ち悪いと思っていたのです。それは大学でセクシュアルマイノリティについて研究している友人と知り合い、多様な性を語り合うようになっても変わりませんでした。
他人が性的なことをするのさえ気持ち悪い、と思っていたことを思えば、
・他人が性的なことをしてもそれは悪いことでも気持ち悪くもない。
・けれど私がするのは気持ち悪い、性的なことの当事者になりたくない。
と思うようになったのは一種の進歩ともいえます。性的なことを考える上での、スタートラインにすら立っていないかもしれませんが、私にとっては大きな変化でした。それでも性欲が強いという人に会うと、ひいてしまう自分がいたことも否めません。
アセクシュアルでノンセクシュアルだから・・・と引け目を感じていた
やがて、アセクシュアルとノンセクシュアルという言葉を知り、それらを揺れ動いている自分自身を自認します。自分のセクシュアリティが確立するのです。性的なこともなくていいんだ、と思うと同時に、性的なことを考えたり発言したりする場において、自分には何か考える資格が存在していないのだと思うようになっていきます。その理由は一つ。性的なことをしたことがないし、今後もするつもりがないから。
簡単に例えると、カレーを食べたことがない人間が、カレーの感想を語ることは許されないと思っていたのです。カレーを食べたことがないのだったら、食べてから感想を言えばいいのに、と思ってしまう自分に気づいていたから、性的なことをしたことがない自分は性的なことについて、発言権も考える権利もないのだと考えるようになりました。
セックスは、性は男と女だけのもの?
世の中には性に関する情報が溢れています。その信頼性は置いておくとしても、それらの多くは男性と女性の性やセックスに関するものです。情報の洪水に、溺れてしまいそうでした。世の中は男女のセックスを前提に動いているのです。このことを痛感して、ますます性的なことを自分から遠ざけ、考えないようになりました。
性が男性と女性だけのものとする情報を避けた結果、同性同士の恋愛を描いた、BL作品や百合作品に傾倒していくようになりました。その世界の中では、現実よりは多様な性が肯定されていたのです。
恋愛しない自分に恋愛するもの、というメッセージを送ってくる作品もあり、苦しかったこともあるのですが、それでも、性や恋愛は男女のものであると当たり前のように押しつけてくる現実よりは息のしやすい世界でした。
セックスは、性は男性と女性のもの。そこに当てはまらない自分には、発言権も考える権利もない。その思いこみはどんどん強くなっていきました。
性について考えなくてはならない
BL作品について語っている時や日本の性教育について考える時など、セックスについて語る場面は、私の人生においてもいくつか現れました。セックスについて考えてみようとその度に私は決意するのですが、怖くてどうしてもできませんでした。
セックスがわからないので怖かった
セックス、性的なこと。その営みによって自分が生まれた、という事実すら気持ち悪いのです。そんな状況なので、BL作品もほとんどが全年齢本、セックスがあるものはその箇所を飛ばして読んでいました。セックスについて語ることなしにBL作品を語ったり同性のなかで性的なことを語ったりすることは難しく、そういった場では、しばらく存在感を消すようなこともしました。
何も、必ずセックスを経験していなければ、セックスを語れないということではないのです。そんなことはわかっています。しかしそれ以上に、セックスが未知で恐怖の対象で、気持ち悪いものだったのです。それでもセックスを理解せずに話を進めていいものかという迷いも、たしかにあったのです。
そんな迷いがあったので、AVを観てみようとしたこともありました。しかし、検索しようとして、恐怖とセックスへの嫌悪感で、私は動けなくなってしまい、断念しました。
いつかは考えなきゃいけないのかな、と先送りにしていた過去
いつかはセックスについて、性について、考えなければいけないのかもしれないと感じることは何度かありました。セクシュアルマイノリティについて書く上で、性的な話というのは、無視できない話でもあったからです。考えなければいけないことかもしれないけれど、性嫌悪ともいえる、両親のセックスによる受精から生まれたことへの嫌悪感が拭いきれないからと、私はセックスや性のことから目を背け続けました。
私には性欲もないし、セックスも、自慰すらもしたいと思わないのだから、と。いつかは考えなきゃいけないかもしれないけれど、今じゃない、と先送りにしたのです。セクシュアルマイノリティについて書いている身で、あまりよいとは言えない姿勢だったかもしれません。反省しています。
ないことについても考えよう
私にはセックスも性的なことも必要ないし、したいという欲もありません。セックスや性的なことは、ずっと他人がするものだと思って生きてきました。他人事でした。
たしかに私にはないものだし必要もない
どれくらい他人事かというと、世界にはじゃがいもが主食の国があるらしい、私は米かパンを食べるけど、くらいのものでした。じゃがいもが主食の国は、私にとって非常に遠かったのです。
そしてじゃがいもが主食じゃないので、私はじゃがいもがなくても特に困りません。セックスは、性的なことは、なくても困らないし、できれば目に入れたくないものでした。セクシュアルマイノリティについて書かないのなら、それでよかったかもしれません。でも、私はアセクシュアルでノンセクシュアルな自分のことを書くことに決めています。書くなら、知らねばなりませんでした。
社会には存在しているから考えなくてはと思うようになった
セックスや性的なことに関わる問題は、社会にたくさんあります。性教育が十分でないこと、セックスについて得られる情報が偏っていること、などなど。セックスや性的なことに関して、学ぼうとしている最中の私でもこうしていくつか挙げることができるほどに、問題というのはあるのです。
社会には性的なこともセックスも、それにまつわる問題も存在しています。できれば無関係でいたかったという傷つきやすい私の一面も顔を覗かせますが、書くということの責任からその一面には少し覚悟を決めてもらいます。
知らねばならない、現実を
知らねばならない、と思います。書く側の責任として。性的なこと、セックス、そしてそれらが抱える問題について、私はあまりにも無知すぎました。マイノリティの現実をテーマに掲げるなら、私はその現実から目を背けるわけにはいきません。書くことには責任が伴うのです。
アセクシュアルでノンセクシュアルだから、性交経験がないから、というのを性的なこと、セックスのことを考えない理由にしていいわけがありません。勿論私の日常にセックスや性的なことがないのは変わりませんが、それでも、考えることはできるはずです。