NOISE ライター投稿型 LGBT情報発信サイト
HOMEすべての記事 ぼくがノンバイナリーであることと、友達が「女子力」を大切にすること

Writer/チカゼ

ぼくがノンバイナリーであることと、友達が「女子力」を大切にすること

ぼくの所属していた大学のサークルは、卒業して何年も経った今でも仲が良い。グループLINEも飲み会の日程を決めるときに限らず、わりにしょっちゅう動くし、みんなくだらない話をバンバン流す。その中である日、仲良しの女の子の1人が「最近このご時世でデートもできてないから、女子力の低下がやばいわ」というメッセージを投下した。ぼくは「女子力」という言葉が嫌いだったはずなのに、なぜだか彼女のこの発言には、不思議と嫌悪感を抱かなかった。

「女子力」と言う言葉自体を憎んでいた

ぼくは「女子力」アレルギーである。性自認が「女性」ではないから、なおさら他者から押し付けられる「女子力」に敏感に反応してしまう。ちょっと前までは、この言葉を聞いただけで蕁麻疹が出る体質だった。

「料理や掃除ができない」=女子力低い、に苛立っていたこと

バイセクシュアルであるぼくの現在のパートナーは、シス男性だ。婚姻届の「妻」の欄に己の名前を書いたときの、あの凄まじい嫌悪感は忘れられない。それでも、彼とぼくのあいだでいろんなことを話し合って決めた「法律婚」だった。その選択自体に、後悔はない。

けれども、自分の親戚や夫の両親からかけられる「お料理を頑張らないとね」「お掃除、しっかりね」という言葉たちには吐き気を催した。それは必ず、「女性」に見えるぼくにしか投げつけられない。「女性」であったら、料理が上手くなければならないのだろうか。「女性」であるのならば、掃除が得意であることが当たり前なのだろうか。

シス女性だって、こんな前時代的な「女子力」の押し付けを苦しく思うだろう。ノンバイナリーのぼくにとっても、もちろんそれは同じだ。はらわたは煮え繰り返っていたけれど、そう言われるたびに引き攣った笑みを顔に貼り付けてなんとかやり過ごしていた。

飲み会の場での男子からの「お前、女子力ないよな」

「女子力」の押し付けは、結婚以前にもたびたびあった。誰かに「女子力」でぶん殴られるのは、たいてい飲み会の場だった気がする。サラダを取り分けず、皿を片付けず、人のグラスが空いたかどうかをチェックせずにハイボールを飲んでいると、必ずと言っていいほど「お前、ほんと女子力ないよな」とその場にいる男性に鼻で笑われるのだ。あの、見下すような、小馬鹿にしたような目線。

「お前なんか女じゃない」「お前が裸になっても、絶対に勃たない」という言葉たちに「女性」ではないぼくが苛立つのは、一方的に性的魅力を査定されることが不快だからだ。それに腹を立てることと、ぼくが「女性」ではないことに、矛盾はない。誰だって自分の価値を勝手に値踏みされたらむっとするし、性的な目で見定められたら気持ち悪いと思うのは当然だろう。あまりに頭に来すぎて、「こっちだってお前なんかとは死んでも寝れねえよ」と吐き捨ててその場を後にしたことも、実際にあった。

ノンバイナリーのぼくは殊更に、「女子力」を憎んでいた

「女性」じゃないのに、社会的な性役割である「女子力」を押し付けられること。それが乏しいと、「性的魅力がない」と勝手に断じられること。あまりにも屈辱的で不愉快で、次第にそういう人間のいる場からは足が遠くなった。ぼくの親戚とは元々もう疎遠だし、夫の実家にはよほどのことがなければ行かないと思う。

ノンバイナリーという性自認もあいまって、ぼくの「女子力」への嫌悪感は年を取るごとに増していった。「女性たるもの無毛でなければ彼氏は一生できません!」みたいな安っぽい脅迫的キャッチコピーを掲げる吊革の脱毛サロン広告を、「こんな女性は嫌だ! 結婚できない女性の特徴とは?」みたいなタイトルの馬鹿みたいにお粗末なコラムを、今でも死ぬほどに憎悪している。

ノンバイナリーのぼくの「女子力」に対する考えの変化

ここまで明確に「女子力」に対してヘイトを抱えているにもかかわらず、友人の発した「女子力」という言葉には、不思議なほどに不快感を覚えなかった。グループ内でもとりわけ仲の良い友達だし、いわゆる身内びいきってやつだろうか。それとも彼女がぼくのセクシュアリティを、そのまま「へえ、そう」と受け入れるフラットな人だったからだろうか。

ノンバイナリーなのに「女子力」押しのWEBマガジンで執筆することの葛藤

このことに対し、数日間ぐるぐると考えている中で、はたと思い出したことがある。ぼくは学生時代から文字を書く仕事を始めたんだけど、最初にコラムを執筆したWEBマガジンは、「女子力」を全面に押し出すメディアだった。

仕事を始めたときはセクシュアリティにまだ迷いがあって、「もう20歳を越えて成人したんだから、まともな“女の子”にならなきゃ」と焦っていた。逆立ちしても似合わないピンクのリップを塗り、淡い色のニットを着て、ふんわりしたスカートを履き、ダークブラウンに染めた髪を耳が隠れる程度のショートボブに切り揃えていた。

端的にいって、二度とそのときの写真を見たくない。死ぬほどダサいし、なんかめっちゃくちゃに気持ち悪い。そんな黒歴史真っただ中の顔写真が今でもそのメディアのプロフィール写真として使われているから、なんかもういたたまれない。

とにかく、年齢とともに「自分は女の子じゃないんだ」という自覚が強まるにつれて、このWEBマガジンで執筆することが少しずつ辛くなっていった。ぼく自身は「女子力」について殊更に言及したコラムは書かなかったけれど(「学生時代嫌だったこと5選」とか「イタリア旅行でおすすめのカフェ」とかそんな記事を書いていた)、その横に他のライターさんが書かれた「最近女子力が下がっていると感じているあなたへ、おばさん化に要注意!」みたいな記事が並ぶことに、だんだんと耐えられなくなってしまったのだ。

「本当の女子力とは、自分らしく生きる力のことだ!」

ただ、編集さんはとてもとてもいい人だった。社会人経験のない学生ひよっこライターのぼくなんかに真剣に向き合ってくれたし、ネタが切れてしまったときは電話で相談にも乗ってくれた。フィードバックがいつも的確で、指摘の仕方も優しくて、報酬も相応のものをきちんと支払ってくれたし、メディア自体はものすごく誠実だった。

だからそこでの執筆をやめるという選択肢はそのときのぼくにはなくて、でも苛立ちは募っていた。そしてある日、小爆発を起こした。「家事・炊事能力=女子力じゃない! 本当の女子力とは、自分らしく生きる力のことだ!」みたいな、思いっきりメディアの色を無視したコラムを納品したのだ。

叱られると思った。「これはさすがに・・・・・・」と怒られて修正を依頼されるか、最悪契約を切られることも覚悟していた。ぼくの鬱屈とした気持ちをそこにぶつけるのはもちろん間違っていたし、だいたい「(社会における)本当の女子力=自分らしく生きる力」っていう認識もなんか違う。ズレてる。

しかし予想とは正反対に、このコラムは褒められた。「とてもいい記事でした、チカゼさんにしか書けない、チカゼさんらしいものだと思います。私個人としても、とても共感できました」という温かなコメントまで寄せてくださったのだ。結局ぼくは大学院修了後まで、そこでコラムを連載し続けた。そこでの実績があったからこそ、今こうしてものを書く仕事を本業にできている。

彼女自身が大切にする「女子力」は、素敵だった

(当時の)ぼくの思う「女子力」を否定されなかった経験が、「女子力」そのものへの嫌悪をずいぶんとやわらげてくれた気がする。だからこそ友達が「女子力」という言葉を使ったことに対して、ざらっとした気持ちにはならなかったのかもしれない。

彼女は、自分が「女性」であることを楽しんでいた。社会が作り上げて押し付けた「女性像」ではなくて、社会が是とする「女性らしさ」でもなくて、ただ純粋に彼女自身が「女性らしい」と思うものたちを大切にするその姿勢は、なんだかとても素敵に見えた。

「女子力」は女性が「女性」を楽しむことかも

もしかしたら「女子力」っていうのは、女性が「女性」というセクシュアリティを楽しむことを指すのかもしれない。ノンバイナリーであるぼくにとっての、ニュートラルさみたいなもの。

彼女が彼女らしくあるための「女子力」

「女性は料理と掃除が上手くあるべき」「女性は全身無毛でツルツルの肌でいるべき」「女性は化粧をするべき」みたいな意味合いでの「女子力」を押し付けられることを、彼女は嫌う人だ。職場のおっさんに「女はかくあるべし」みたいなセクハラ発言を受けてうんざりしている、という話も、彼女はそれこそこのグループLINEでよく愚痴っている。

でも彼女がこのとき言った「女子力」は、社会が作り出したそんな薄っぺらい馬鹿みたいな幻想なんかじゃない。彼女自身が彼女らしく、「女性」であることを楽しもうとする力のことだ。ぼくには、そう聞こえた。自分のセクシュアリティを慈しみ、彼女が彼女らしくあるために「デートでおしゃれをしたい」というその気持ちは、なんだかとても愛おしくて頬擦りしたくなった。

彼女が大切にしている「女子力」を尊重したい

この「女子力」は、他者から押し付けられることでたちまち暴力になってしまう。そもそも生活に必須な家事能力を「女子力」と言い換えて「女性」にのみそれを押し付けること、それ自体がおかしい。そしてすべての女性が男性のためにおしゃれをするわけじゃないし、女性は無毛でなければならないなんていう常識も意味不明だ。生きているんだから、毛ぐらい生える。毛穴も黒ずむに決まっている。

でも、彼女がデートのためにおしゃれをするのは、彼女自身がそれを楽しいと感じているからだ。それこそが誰に押し付けられたわけじゃない、彼女が思う「女子力」なんだろう。「女性」でないノンバイナリーのぼくが、竹宮惠子や萩尾望都が描く「少年」に憧れているから化粧をして脱毛サロンに通うのと、根本はたぶんきっと同じなのだ。だったらぼくは、その気持ちを尊重したい。彼女が自分らしくあるための「女子力」ならば、素敵だねと思いっきり褒めたい。

「女子力」を楽しむ女性の気持ちを大切にしたい

ノンバイナリーのぼくが「ノンバイナリーらしさ」を嫌うのと同じように

以前、「生まれたときに女性に割り振られたノンバイナリーは、全員男性的な見た目を目指しているだとか、そういうどこからともなくこの社会に出現した『ノンバイナリーらしさ』が時折苦しい」という趣旨のエッセイを書いた。ノンバイナリーは「男・女・それ以外」の「それ以外」なんかじゃないし、性別は2種類から3種類に増えたわけじゃない。セクシュアリティはグラデーションで、「らしさ」なんてものを勝手に押し付けてはならない。

だけどその一方で、ぼくは「ぼくの思うノンバイナリーらしさ」を大切にしたい。化粧をしてメンズ服を着る、男にも女にも見える、性別不詳のキラキラした「少年」でありたい。それと同じように、彼女もまた、社会から押し付けられる「女子力」には中指を突き立てているけど、彼女自身が思う「女子力」はとても大切にしている。それはなんら矛盾などしないし、尊重されて然るべき気持ちだ。

「女子力」を大切にする女性の友人は、「女性」というアイデンティティを誇っている

彼女が自らの「女子力」を大切にする姿勢は、「女性」というセクシュアリティをアイデンティティとして誇っているように見えた。だからきっとグループLINEであのメッセージを見たときに、「とても素敵だな」と感じたのだ。

ぼくが「女性」ではないこと、ノンバイナリーであることを大切に思うのと同じように、彼女は自分が「女性」であることを大切に思っている。彼女がぼくのセクシュアリティを尊重してくれるのと同じように、ぼくもまた彼女の「女性」というセクシュアリティを尊重したい。彼女の誇る「女子力」を、これからもずっと友人として、愛し続けていきたいな。

RELATED

関連記事

ロゴ:LGBTER 関連記事

TOP