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Writer/酉野たまご

「もし自分の子どもが同性愛者だったら?」高校時代に受けた衝撃的な授業

今から10年ほど前、高校生だった私は、とある授業の内容にショックを受けた。当時は、まだLGBTという概念が世間に広まって間もない頃だったように思う。現在のカリキュラムでは「総合的な学習」にあたる科目の授業で、担当教師は開口一番、衝撃的な言葉を口にした。

「もし自分の子どもが同性愛者だったら?」―高校時代の私がショックを受けた授業内容

授業のはじめに担当教師が放った、衝撃の一言

あれは、私が高校生だった頃のこと。
忘れようにも忘れられない、衝撃的な授業があった。

その日、担当の教師はいつものように教室に入ってきた。
そして黒板を背にして立つと、生徒の前でこう言い放った。

「はじめまして、同性愛者の田中太郎(仮名)です」

一瞬、教室が静まり返ったのを覚えている。
私自身、ぽかーんとして何も反応ができなかった。

「・・・・・・というふうに僕が自己紹介をしたら、おかしいですよね?」

みんなの反応を一通り確認した後で、先生は笑いながらこう続けた。

「今日は、同性愛者についての授業をします」

「もし自分の子どもが同性愛者だったら、受け入れられますか?」

衝撃の台詞を口にした後で、先生は授業の説明をした。
この授業は、毎年同じ時期に、同じような内容で行っていること。

最初に自分が言った内容(同性愛者であること)は嘘だけど、その挨拶をしたら多くの人は違和感を持つはずだということ。

「つまり、前置きもなく自分が同性愛者だと語ることは、相手を戸惑わせてしまう。相手を戸惑わせるような内容は、ふつうは言わないように心がけますよね」

そして、先生はクラスのみんなに多数決をとった。

「もし自分に子どもが生まれて、ある日その子が同性愛者だと告白してきたら、受け入れられますか? 受け入れられないですか?」

突然の質問に面食らいながらも、私は迷わず「受け入れられる」ほうに手を挙げた。
クラスメイトの大半は、「受け入れられない」ほうに手を挙げた。

その事実は、あまりにも予想外で、なおかつショックだった。
私はしばらく呆然としながら、授業が進んでいく様子をただただ見つめていた。

LGBT当事者だと自覚していなかった私が、なぜその授業に違和感を持ったのか

LGBTの立場に寄り添わない、性的マジョリティ側に偏った態度

私がその授業でショックを受けた理由を、当時はうまく言語化することができなかった。
なぜなら、私は自分が同性愛者であるということにまだ気づいていなかったからだ。

しかし、まだ自分のセクシュアリティをわかっていなかった私でも、その先生の授業の進め方は乱暴すぎるように思えた。

まず、「同性愛者です」という嘘の自己紹介を、ふざけ半分のような態度でしたこと。
「自分は同性愛者だ」というカミングアウトを、他人に負担をかけるもの、本来するべきではないものとして扱ったこと。
そして、「自分の子どもが同性愛者だったら、受け入れられるか?」という質問を、無造作にクラス全員の前で投げかけたこと。

それらの行動一つ一つを、なぜか「見過ごせない」と思った。

先生はおそらく、当時少しずつ広まっていた「LGBT」という概念についての授業を、より身近に感じてもらえるような形で行おうと考えたのだろう。

あえてフランクな態度で話を進め、「同性愛者って言葉を聞いたら、みんな多少は身構えるよね?」というようなスタンスを提示した。

また、「同性愛者を受け入れられるか」というテーマについて、はっきりとした結論を示すこともなかったように思う。

たしかに、初対面の人に突然、自分の性的指向(嗜好)について語るというケースはあまり多くない。

自分にとって身近な人が、自分とはほど遠い性質を持っていると知ったら、一瞬戸惑ってしまうというのもよくわかる。

ただ、その先生の授業内容はあまりにも性的マジョリティとしての意見に偏っていて、クラスに存在するはずの同性愛者の感情を無視しているとしか思えなかったのだ。

好きな人に理解してもらえなかった、「LGBT側の感覚」

ショックを受けたその授業の後、私は仲の良かった友達と話をした。

当時は気づいていなかったけれど、その同性の友達に恋心を抱いたことで、私は後に自分が同性愛者、LGBT当事者であることを自覚することになる。

「さっきの授業、なんか嫌だったよね」

そう話しかけると、友達はきょとんとした顔で「なんで?」と言った。
びっくりして、私は思わず言葉に詰まった。

「だって、あんなふうに同性愛者の人を茶化すのっておかしくない?」
「みんなの前であんな多数決をとるのって、デリカシーないと思う」

そんなふうに、私は友達に言いたかった。
普段、好きになれない科目や気に入らない先生の授業に対して愚痴を言うような感じで。

でも、何も言うことができなかった。

今思えば、私は彼女に同意してほしかったのだ。
同性愛はおかしいことではないのに、あんな授業の仕方をされるのは嫌だよね、と。

「自分の子どもが同性愛者だったら受け入れられないと思う」と主張したクラスメイトが意外なほど多かったことも、ほのかに恋愛感情を抱いていた友達がその授業に対して違和感を抱いていなかったことも、どちらも私に大きなショックを与えた。

その気持ちをうまく言語化できないことももどかしく、私は件の授業についての感情を一旦忘れることにした。

あの教室にもLGBT当事者がいた―高校卒業後に私が下した決断

クラスメイトから受けた、初めてのカミングアウト

ここで少し時間を飛ばして、高校3年生の文化祭の日のことを述べたい。

私は文化祭の準備期間を通して、それまで話したことのなかったクラスメイトの一人と仲良くなった。話してみると面白い子で、毎日のように放課後の時間を一緒に過ごすようになる。

文化祭当日も二人で出し物の準備をしていて、たまたま教室には私とその子しかいなかった。

そして、なぜか恋愛の話をしようという流れになった。
たぶん、たまたまおしゃべりの話題が尽きてしまったのだと思う。

私は当時、好きだった同性の友達への恋心を自分で認められていなかったので、同じクラスの男子の話をした。ちょっと気になっていた時期があったんだけど、その男子には彼女がいるって知ってたから、叶わぬ恋だと思って諦めたんだ、と。

すると、その子は自分も何か話さなくてはと思ったのか、「誰にも言ったことないんだけど」と秘密を打ち明けてくれた。

「私、たぶん女の人が好きなんだ」

私が人生で初めて、同性愛者だというカミングアウトを受けた瞬間である。

とっさにどんな反応をしたのか覚えていないけれど、「えー! そうだったんだ!」「話してくれてありがとう」「たとえばどんなタイプの人が好きなの?」などと返したように思う。

その子は恥ずかしそうに、家庭科の先生のような人(少し毒舌だけど、タフさと上品さを併せ持った女性だった)が好きだと語ってくれた。

そして、話題は少し前に行われたLGBTに関する授業へと移っていった。
私もその子も、「あの授業はおかしかったよね」という点で意見が一致した。

ずっと寝たふりして授業をやり過ごしたけど、友達が「同性愛者は受け入れられない」と言っているのが聞こえてきて辛かった、とその子は正直に語ってくれた。

自分が同性愛者、LGBT当事者だと気づいた私の決意

やがて高校を卒業し、カミングアウトをしてくれた子とは疎遠になってしまった。

しかし、卒業後に自分が同性愛者であると気づいた私は、件の授業を実施した先生が、明確にLGBT当事者を傷つけていたという事実を思い出した。

私もその子も先生には何も言わず卒業してしまったけれど、私たちの後輩は、毎年必ずあの授業を受けることになる。

もう二度と、同じように傷つく生徒を出さないでほしい。
そんな思いに駆られて、大学生になった年の夏、私は先生と話をするために母校を訪ねることを決めた。

新しい世代に目を向けて―直談判とその後の変化

先生への直談判

久しぶりに会った先生は、私が「話をしたい」と言ったことで少し嬉しそうだった。

「卒業生が会いに来てくれるなんて久しぶりだ」と笑う姿を見て、先生にとって嬉しい話ができないことをつい心苦しく思ってしまったほどだ。

自分のやろうとしていることが正しいことなのか、余計なお世話なのか。

ぎりぎりまで判断がつかなかったけれど、当時のショックとカミングアウトしてくれたクラスメイトの存在を思い出し、できるだけ素直に自分の思いを話そうと努めた。

高校を卒業した後に、自分が同性愛者であると気づいたこと。
自認する前から、件の授業の進め方には違和感があったこと。
誰かは決して言わなかったけれど、当事者のクラスメイトが件の授業で傷ついていたこと。
自分もやはりあの授業は嫌だったと思い返し、後輩に同じような思いをしてほしくないから、授業のやり方を変えてほしいということ。

話しながら、自分の思いが先生にきちんと伝わっているのか、だんだん自信がなくなっていった。先生のリアクションが、かなり薄かったからだ。

「僕もゲイの友人がいるんだけど」などと話を変えられて、そういうことが聞きたいんじゃない、と反発心を抱いたことも覚えている。

結局、授業のやり方を変えるという確約は、先生からはもらえなかった。
「おまえがそういうふうに思ってることは受け止めた」が、先生から言われた最後の言葉だった。

それを聞いて、これはLGBT当事者とそうでない人の間の断絶ではなくて、そもそもこの先生と私の価値観が合わないのだ、と思い至った。

やりきれなさと無力感に包まれながら、私は母校を後にした。

きょうだいが教えてくれた、新しい世代の価値観

先生に直談判した後は、結局、空振りに終わったような感覚だけが残った。自分にできることは全部やったのだからと考え、その後は件の授業について深く考えることをやめた。

やがて数年の月日が経ち、私のきょうだいが同じ高校に入学し、卒業した。

大学の入学準備をするきょうだいの姿を見て、私はふと、自分が同性愛者だと気づいたのがちょうど今頃の時期だったことを思い出した。

「そういえば、あの先生の授業はどうなったのだろう・・・・・・」

気になった私は、きょうだいに同じ授業を受けたかどうか聞いてみた。

きょうだいは、やはり高校で件の授業を受けたらしい。

同性愛者を騙る衝撃的な導入については「言っていたかどうか覚えていない」とのことだが、「もし自分の子どもが同性愛者だったら、受け入れられますか?」と多数決をとるくだりはあったそうだ。

やはり先生の価値観は変えられなかったか・・・・・・と暗い気持ちになりかけたが、話の続きを聞いて驚いた。きょうだいのクラスでは、クラスメイトの大半が「受け入れられる」ほうに手を挙げたらしい。

私ときょうだいの年齢差は、6年。
それだけの月日が経つ間に、LGBTに対する10代の意識は変化していたのだ。

価値観の合わない教師が学校に存在し続けていることを嘆くより、新しい世代の価値観がアップデートされていっていることに目を向けるべきなのかもしれない。

少し希望が持てたことで、息苦しい思いをしていた高校生の頃の自分が報われたような気がした。

 

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