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Writer/チカゼ

DaiGo氏の発言からみえるLGBTQ当事者へのアンコンシャス・バイアス

メンタリストDaiGo氏がホームレスの方や生活保護受給者の方へのヘイトスピーチをYouTube上で行ったことは、記憶に新しい。そのあまりにも差別的な内容に脳みそが沸騰したが、ぼくは彼の以前の発言にもまた、実はずっと怒りを抱えていた。知っている人も多いと思うけど、LGBT当事者へ向けた、あの動画だ。

DaiGo氏は「LGBTQに偏見はない」と繰り返すけれど

「LGBTQ ただのバカ 何がしたいの?」という強烈な文言のサムネイル画像で始まるあの動画内で、しかし彼は幾度も「LGBTQに偏見はない」と繰り返していた。これはどういう意味なのだろう。

DaiGo氏「LGBTQは何がしたいのかわからない」

DaiGo氏の発言の要旨は、簡単にまとめると「LGBTQの人たちは、まとまって仲間を作りたがる。多様性を認めろというくせに、矛盾している」というようなものだった。だから「LGBTQの人たちは、なにがしたいのかわからない」そうだ。なるほど、特にLGBTQアンチ層なんかは「そうだそうだ」と同意してしまいそうな、一見もっとらしい主張である。

しかしなぜぼくたちが「仲間を作らねばならないのか」については、思いを馳せたことがあるのだろうか。なぜ、「まとまらねばならない」のか、考えたことはあるのだろうか。

「LGBTQは心が弱い」のか

「まとまって仲間を作るLGBTQの人たち」は、「心が弱い」らしい。「違いを認めることが本来大事なことであって、同じだから一緒にいようぜ、っていうのは新興宗教なのかなみたいな風に思っちゃいますよ」と同氏は言う。

でも、ぼくたちが(彼の言葉を借りるのならば)「まとまって仲間を作る」のは、「一緒にいること」で「安心したいから」だけじゃない。そういう側面だってあるにはあるが、そうだとして、それのなにが悪いのだろう。

この世に「こんな人間はこの社会において自分ひとりしかいないのでは」という凄絶な孤独から逃れて安堵したいと願うことの、いったい何がおかしいというのだろう。マイノリティであるがゆえの苦悩を、だれかとシェアして癒されたいと思うことの、どこが「弱い」のだろう。

そしてそれをシス男性であるDaiGo氏が言うのって、なかなかに残忍だ。だって、彼は生まれながらに「シス男性」のカテゴリに放り込まれていて、「まとまって仲間を作る」必要性はおろかその自覚をする機会すらなく生きてこられたのだろうから。

ちょっと話は逸れちゃうんだけど、そもそも人間ってある程度は似たやつ同士で集まるのって当たり前なんじゃないか。趣味が合うとか話が合うとか波長が合うとか、「合う人」同士でコミュニティを形成するのって、人間という生き物にとってわりに自然な文化だと思うんだけど。

「LGBTQはカテゴライズに縛られている」わけじゃない

5億歩譲って、LGBTQ当事者たちが「仲間を作って馴れ合っている」とみられてしまうことはまあ、わかる。実際にセクシュアル・マイノリティの中には、ごく一部だけど閉鎖的な人たちがいないわけじゃないから。でもそれだって、そうせずには自分らしく生きられないほどに、マジョリティの中で生きることが辛かったゆえの現象だろう。

ただ、ぼくたちが集まって声を上げるのは、ひとりでは「存在しないもの」として見做されてしまうからだ。個人では届かぬ声も、数が多ければ大きくなるからだ。もう何度も何度もNOISEで書いてきたとおり、ぼくたちが使うセクシュアリティのカテゴリは、categoryではあるがcategorizeするためのものじゃない。

ぼくたちはもちろんそれぞれ別々の個体であり、例えば、これはピアスでこれは指輪、これはネックレス、ブレスレット、なんて具合に分類されるとしたら、たまったもんじゃない。ノンバイナリーとかバイセクシュアルというものは、個人の気持ちを尊重するための、「あなたはここにいていいんですよ」「変なんかじゃないんですよ」「おかしくなんかないですよ」と示すための言葉、概念なのだ。

だってカテゴリの名前がなければ、ぼくたちの存在は認知されないじゃないか。目に見える存在になるために、LGBTそれぞれの名前を必要としている。ぼくたちはこの長い歴史の中で、ずっとハリー・ポッターで言うところの「透明マント」を被って生きてきた。透明マントを脱ぐために、LGBTの名前を欲しているのだ。

ぼくの身のうちに潜むアンコンシャス・バイアス

DaiGo氏の発言からは「無意識の偏見」、アンコンシャス・バイアスが滲み出ていた。「偏見はない」と言い切ることほど危険なことはない。むしろ差別をなくそうとする意思があるのならば、常に己に「偏見を持っているのでは」と問い続けなくてはならない。

「韓国籍だから韓国語ができて当たり前」というアンコンシャス・バイアス

なんだか偉そうなことを述べたけど、もちろんぼくにだってアンコンシャス・バイアスは存在する。そのことをつい最近、まざまざと実感させられた出来事があった。

数年前に登録した派遣会社から、(今はお仕事を探していない旨を伝えていたにもかかわらず)このあいだ仕事の紹介の連絡が来た。「韓国語の翻訳のお仕事です!」という概要から始まったそのメールは、画面をスクロールするとやはり条件の欄に「韓国語の読み書きができる方」と記載されていて、ぼくは盛大なため息をついた。

ぼくは日韓露のミックスで、国籍は去年まで韓国だった。昨年の暮れに帰化申請が通り現在は日本国籍だが、つまりはその派遣会社に登録した当時は韓国籍だったのだ。その方はクライアントに「韓国語の読み書きができる方を探してください」と依頼を受け、データベースからそれっぽい人──韓国籍であるぼくを探し出し、仕事を紹介した。それだけだ。ただ自分の仕事をこなしただけで、そこにきっと善意も悪意もなかった。

でも、ぼくは日本で生まれ日本で育ったため、母国語の日本語と、あとはせいぜい旅行でなんとか生きて帰って来ることができるレベルのしょぼい英語しか話せない。要するに韓国語もロシア語も、己の名前すら読むことも書くこともできないのだ。

外国籍=その国の言語をネイティヴレベルで話せる、とは限らない。在日外国人の二世目以降は、得てしてその傾向が強い。生まれも育ちも日本だと言っているのにもかかわらず、そう思い込まれてしまうことはわりによくある。その国の国籍を有していたり、ルーツがあるからといって、自動的に言語を習得などできるわけがないのに。これがきっと、ぼくに仕事を割り振った方のうちに潜むアンコンシャス・バイアスである。

「若い女性なら泣いちゃうかな」というアンコンシャス・バイアス

きっと今までなら、無視していた。でもこうやってマイノリティとして、ものを書いて食えるようになって、ぼくの中でも少しずつ意識が変わってきた。返信しよう、と決意して、ぼくはiPhoneのメモ帳を開いた。

外国籍の人間がその国の言語能力を有しているとは限らないこと、それは無意識の偏見に繋がること、傷ついてしまう人がいるかもしれないこと、でもあなたに悪気がなかったこともわかっているし、責めるつもりはないこと。できるだけ言葉を選んで、何度も何度も推敲して、隣にいた夫にも読んでもらって、その文面を送信した。伝わりますように、と祈りながら。

返事は思いの外、すぐに来た。とてもとても丁寧で真摯な謝罪の言葉が綴られていて、ぼくは思わず最初イラッとしてしまったことに罪悪感を覚えた。その方の名前を見る限り、女性だった。もしかしたらぼくよりも若い、新卒の子だろうか。ショックを受けて、帰りの電車の中でマスクの下でぼろぼろと泣いちゃったりしてないだろうか。

アンコンシャス・バイアスは、ぼくの胸のうちにも潜んでいた

そこまで考えて、これもアンコンシャス・バイアスだと気が付いて愕然とした。名前で「女性」と決めつけることも、(今風の名前だったから余計に)「若い女性は泣く」と推測することも、ぜんぶぜんぶ、ぼくの中に巣食う無意識の偏見だ。ゆゆしいアンコンシャス・バイアスは、ぼくの胸のうちにだって確実に潜んでいると、はっきりと思い知った。

アンコンシャス・バイアスに気づけない理由

どうして人は、自身のアンコンシャス・バイアスに無自覚なのだろう。己のうちの「無意識の偏見」を、こんなにもあっさりと見逃してしまうのだろう。

自分に自信があるほど、自分の中のアンコンシャス・バイアスが見えなくなる

DaiGo氏がどんな思想や信念を持っているかは知らないけど、自分のことを「教養のある人間だ」と自負している人ほど、「偏見や差別はない」と言い切ってしまう気がする。実はこういうタイプの人を、ぼくはよく知っている。ぼくを幼少期から激しい暴力で虐待し続けた、実父だ。

父は人権派で有名な弁護士で、それこそ己のマイノリティ性を活かして活躍している人だ。実家には小難しそうな本が廊下にまでずらりと並び、これみよがしな六法全書まで玄関近くの目立つ棚に置かれている。しかしその実態は、女性蔑視思想を根底に抱く毒親だ。メダルかじりの名古屋市長や東京オリンピック・パラリンピック開幕前の森喜朗氏の発言に、それっぽい言葉で「あれはあかん」などと眉をしかめていたと伝え聞いたのだが、親父が昔からビールを注ぐことを命じるのは、双子の弟ではなくぼくに限られていた。

DaiGo氏に限らず、どんな人にもアンコンシャス・バイアスはある

繰り返しになるけれど、ぼくはDaiGo氏のことは何も知らない。彼が自身のことを「教養のある人間」だと自負しているかどうかも知らないし、テレビに露出していたときにちらりと見たことがあるくらいだ。

あとはたびたび炎上するから、「またこの人かぁ」と思う程度の認識しかない。だからそれこそ知った口は聞きたくないし、人間性を否定したくはない。ぼくはあくまで同氏の発言について批判しているだけで、彼自身に対して嫌いとか憎いとか、そんな感情は特に持ち併せていない(ということにしておく)。

ただひとつ言えるのは、この「LGBTQはただのバカ」という動画内の発言は、そしてホームレスおよび生活保護受給者の方々に対するヘイトスピーチは、DaiGo氏の中のアンコンシャス・バイアスに基づくものだということだけ。だいたい彼は「レズ」なんていう差別用語を、思いっきり使っちゃってるし。

その点に関しては、謙虚さが足りなかったんじゃないかと言わざるを得ない。自分の知っていることの真偽を精査せず、思い込みだと疑うことをせず、(これらの物事に対する)己の教養を過信しすぎた結果、引き起こされたものなんじゃないか。

DaiGo氏も? アンコンシャス・バイアスとどう向き合うべきか

DaiGo氏だけではなく、ぼくたちも自分自身の中に根を張っているアンコンシャス・バイアスと、いったいどう向き合っていくべきなのか、考えたい。気が付かないから「無意識の偏見」なわけで、それならどうやって自覚すればいいのだろう。

「自分は大丈夫」と過信しないことが、アンコンシャス・バイアスの自覚を促す

繰り返しになるけれど、だれの中にもアンコンシャス・バイアスは必ず存在する。ぼくも、あなたも、それは絶対に保有しているものなのだ。「心」を持って生まれた生命体である以上、それはもう避けられない宿命なのだ。

だからこそ、自分自身の知識や教養を過信しちゃいけないな、と改めて強く思った。自分の見聞きしたことがこの世のすべてじゃないし、むしろきっと2割くらいだろうし、それが絶対に正しいなんてことはあり得ない。指摘された瞬間はむっとしちゃうし、落ち込むかもしれないけれど、常に自分の思想をアップデートしていかなきゃならない。それがきっと、社会で生きていく人間の義務なのだ。

DaiGo氏の発言で傷ついた人たちへ

DaiGo氏の発言で傷ついた人たちへ、最後に。

ぼくは基本的に、ぼくとLGBTQ当事者とはみんな無条件で仲良くなれるなんて思っていない。似たようなセクシュアリティの人たちと必ず親密になれるわけじゃないし、なんならぶっちゃけ気に食わねえやつもいる。

ただ、それでもぼくたちが同じカテゴリを名乗って集団を形成するのは、「心が弱い」からじゃない。ぼくたちの存在を見えざるものから見えるものに変換し、多様性を証明する必要があるからだ。差別や偏見がある限り「議論すべきこと」であり、違いを認め合いたいからこそ自分の在り方を手っ取り早く示さねばならないからだ。

カテゴリの名前を名乗る勇気が削れてしまった人、心が損なわれてしまった人、どうか自分のことを「心が弱い」「バカ」だなんて思わないでほしい。自分のセクシュアリティを発信すること、それはむしろ、勇気のある行動だ。マイノリティであることをカムアウトするその気持ちに、ぼくは敬意を表したい。

そしてこれはLGBTとは離れてしまうけれど、ホームレス及び生活保護受給者の方たちへ。

みなさんが生活保護を受給することや支援を受けることは、みなさんの権利です。ぼくはそのために、税金を納めています。だからどうか、胸を張って受け取ってください。そうしないと、もしぼくやぼくの近しい人が同じ状況になったときにこの制度が使えなくなっちゃうかもしれないから。これは、異なるマイノリティに所属するぼくからのエールです。あと、もしこれを目にしてたら、ぼくたちLGBTQ当事者が困ってるときに助けてくれると嬉しいな。

どうか、あなたが、DaiGo氏のようなヘイトスピーチを真に受けて、己を責めさいなんで、そして取り返しのつかない行動を取ったりしませんように。

ぼくもあなたも、明日も生きようね。

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