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Writer/酉野たまご

「バイセクシュアル」は違う? 異性も同性も好きになる私がたどり着いた答え

ずいぶん長い間、私は自分のセクシュアリティに迷いを感じていた。恋愛対象は、異性と同性の両方。しかし「私はバイセクシュアルなのか?」と自分に問うと、どうもしっくりこない。年齢を重ねていく中で、さまざまなメディアを通して自分のアイデンティティにぴったりの言葉を探してきた。

異性と同性を交互に好きになる自分

男の子を好きになるのが当たり前だと思っていた少女時代

中学校に上がるまでは、特に恋愛について思い悩むことはなかったと思う。

そもそも恋愛感情というものがよくわかっていなかったのもあるけれど、多くの本やアニメで見てきたように、自分もいつか男の子と恋愛をするのだと信じ込んでいた。

人恋しい性格からか、ちょっとでも優しくしてくれた男の子を次々好きになり、意地悪を言われたら好きではなくなる・・・というように、恋愛未満の感情を繰り返し、遊び半分で男の子に告白をしたこともあった。

ただ、当時は告白のその先まで考えが及ぶことはなく、「付き合うってどういうことだろう」「自分が誰かと結婚するなんて想像がつかない」などと未来に思いを馳せるようになったのは、中学生以降のことだった。

はじめて女性を好きになり、困惑した中学生時代

中学生になった私は、突然、同性の先輩たちに強烈な憧れを抱くようになった。

部活動で出会った先輩たちを慕い、その姿をいつも目で追いかけていた。部活の時間だけでなく、全校集会や教室移動の時でさえ、先輩たちとすれ違いはしないかとそわそわしていた。

きれいで、優しくて、可愛くて格好いい先輩たちと会えることだけが学校生活の楽しみだった。

ちょっと前まで興味関心の対象だったはずの男の子には目もくれず、ただ同性の先輩たちを追い掛けるだけで満足する日々が続く。

そのうち、自分はちょっとおかしいのかもしれない、と思うようになった。異性ならともかく、同性の先輩にばかり強い関心を抱くのは不自然ではないかと感じたのだ。

私が中学生だった頃はLGBTQ+に関する知識もさほど広まっておらず、参考にできそうな身近なコンテンツにも出会えていなかった。

思いきって母親に相談してみると、「それは疑似恋愛といって、思春期の女の子にはよくあることなの。一過性の感情なんだから早く忘れなさい」とばっさり斬り捨てられた。

それ以来、同性を好きになるのは不健全なことなのだと思い込むようになる。

先輩たちのことは相変わらず大好きで、特に親しくなりたい、ずっと一緒にいたいと思える先輩もいたのだけれど、だんだんと自分の感情にフタをすることが増えていった。

この感情は一過性のものだから、いつかは終わらせなければいけないのだからと、自分の想いについて友達や他の大人に相談することもなく、やがて先輩たちは卒業していった。

男性を好きになる時期と、女性を好きになる時期がある?

憧れの先輩たちがいなくなって、同性への興味は一瞬途切れたかのように思えた。

しかしながら、高校では後輩の女の子に好意を持ち、その想いをあきらめた一年後に同級生の女の子を好きになった。このあたりで、さすがに自分の気持ちを認めざるを得なくなった。

ああ、やっぱり自分は同性に恋愛感情を抱く人間なのだ。

抑えていた気持ちを受け容れたことで、今まで感じていた重荷が少し軽くなったような気がした。

それでも、すべてが腑に落ちたわけではない。

高校生になってから、同性を好きになる合間に、私は何度も異性に恋をしていたのだ。同級生や後輩の男の子を好きになる時期と、女の子を好きになる時期が、ほとんど交互に訪れるようになっていた。

不思議なもので、20代前半までこの傾向は続いた。

「やっぱり同性を好きというのは気のせいだったのか?」「いやいや、やっぱり異性より同性のほうが好きかもしれない」と、そのたびに心は揺れ動き、私は迷いの森に突入していった。

バイセクシュアルか、バイロマンティックか。

「バイセクシュアル」の定義に振り回された大学生時代

大学生になり、インターネットでセクシュアルマイノリティについて検索した私は「そうか、自分はバイセクシュアルなのだ!」と思いいたる。

異性にも同性にも恋愛感情を抱く=バイセクシュアル、というシンプルな図式はわかりやすく、自分の恋愛感情を素直に認める助けになった。

ただ、ここでもまたすんなり呑み込めない点が出てきた。

女性の身体には強く惹かれるものの、男性の身体にはあまり惹かれない。むしろ、男性的すぎる体つきは苦手だと感じることのほうが多かったのだ。

思い返してみると、今まで好きになった男性たちはどこか中性的で、雄々しさをあまり感じさせない人たちだった。

男性の身体が苦手でも男性とお付き合いすることはできるのか?
そもそも、雄々しい男性を苦手だと感じる私は本当にバイセクシュアルだといえるのか?

自分の性的指向がわからなくなってしまった私は、誰かを好きになっても自分の感情に自信が持てず、なかなか恋愛に踏み出せない大学生時代を過ごす。

自分はバイセクシュアルではなく、「バイロマンティック」なのかもしれない

時は過ぎて20代前半のある日、「バイロマンティック」という言葉に出会った。たしか、牧村朝子さんの著書『ハッピーエンドに殺されない』を読んでいた時だったと思う。

「異性・同性の両方に恋愛感情を抱く」が、その感情の中に「性的な欲求は含まない」というのがバイロマンティックの定義だという。

バイセクシュアルを自認していたはずの私は、その言葉に出会って、さあーっと視界が晴れていくような感覚をおぼえた。恋愛感情と性的な欲求は切り離して考えてもいいのだと、初めて気が付いたのだ。

私の場合、同性には性的な魅力を感じるものの、恋愛感情は異性にも同性にも抱くので「ホモセクシュアル・バイロマンティック」と言い表すことができる。

妙に長いその言葉を呪文のように唱えながら、ようやくこれで自分のセクシュアリティを説明できるようになるかもしれない、と安堵した。

「ポリセクシュアル」という言葉を知り、再び迷いの森へ。

恋愛対象となり得るのは「異性」と「同性」だけではない

それから数年後、私はさらに「ポリセクシュアル」という言葉と出会うことになる。

異性と同性という括りに限らず、複数のセクシュアリティを好きになることを指す言葉だ。

私はまたもや自分の性的指向に迷いを感じはじめた。女性も男性も好きになるのが自分だ、と考えていたけれど、そこにトランスジェンダーやノンバイナリーの人も含まれる可能性があるのではないか?

自分は「男性には恋愛感情、女性には恋愛感情と性的欲求を抱く」と認識していたけれど、その定義に当てはまらない恋愛もあり得るのだ。

自分の考えが浅かったことに気付いてしまった私は、困惑すると同時に少し落ち込んだ。

「少なくとも、パンセクシュアルではない」と思った理由

ポリセクシュアルと混同されがちな言葉として、「パンセクシュアル」が挙げられる。
「セクシュアリティに関わらず、すべての人を好きになり得る」という意味の言葉である。

完全に迷いの森に入り込んでしまった私も、パンセクシュアルに関しては「自分には当てはまらない」とはっきり感じた。

なぜなら、私は誰かを好きになる時、その人のセクシュアリティも含めて好きになるからだ。

ヘテロセクシュアルの男性であろうと、レズビアンの女性であろうと、バイセクシュアルやノンバイナリーの人、トランスジェンダーの人であろうと、その人のアイデンティティの一部としてセクシュアリティを知りたいと思うし、「どんなセクシュアリティであっても好きになる」とは決して言いきれない。

「好きになるのにセクシュアリティは関係ない」というのは素敵な響きだけれど、自分の場合はセクシュアリティを意識して恋愛をする傾向にあった。

パンセクシュアルではないにしても、果たして自分はポリセクシュアルなのか? バイロマンティックなのか? あるいは、ちょっと男性にも興味があるだけのレズビアンなのか?

自らの性的指向に関する疑問は更に増え、深まるばかりだった。

既存の言葉ではなく、自分の心に従って恋愛ができるように。

そもそも性的指向は、はっきりと決めつけられるものではない

結局、私自身の性的指向を表現する言葉は何なのか。未だに正解は見つかっていない。というより、正解と言えるものは存在しないのでは? と最近では考えている。

ヘテロセクシュアルを自認している人から「同性の○○さんを好きになった」という話を聞くことも、ずっと同性が恋愛対象だったという人から「自分はバイセクシュアルではないけど、結婚したいと思える異性と出会った」と言われることもある。

一概に「自分はこのセクシュアリティだから、こういう人しか好きにならないはず」と決めつけることはできないのだ。

言葉に縛られず、自由な心で恋愛ができる未来を想って

タレントのりゅうちぇる氏が以前TVで話していて、印象に残った言葉がある。

それは、「僕は自分を “キャンディボーイ” だと思っている」という内容だった。キャンディボーイというのはりゅうちぇる氏の造語で、可愛いものが好きな男の子、という意味なのだそうだ。

「ゲイ」や「トランスジェンダー」といった既存の単語ではなく、自分にとってしっくりくる表現を作り出したという意味で、「僕はキャンディボーイ」という言葉は私にとって忘れられないものとなった。

ジェンダーアイデンティティはもちろん、性的指向だって、既存の言葉にとらわれなくていいはずだ。

もちろん、自分の性的指向を表す言葉がなければ、恋人探しの際に不都合が生じることもある。お互いに効率よく相手とマッチングするため、「同性で、こういう雰囲気の人が好き」「このセクシュアリティの人はNG」という言い方が必要な場面もあるだろう。

それでも、こう思うのだ。

「メガネをかけた人が好き」「スポーツが趣味の人が好き」といった好みのタイプと同じように、誰もが自由に、気軽に、自分の性的指向をとらえられるようになったらいい。

好みは時間が経てば移り変わるものだし、自分でも思ってもみなかったタイプの人を好きになることは、誰しもあり得るはずだ。

マジョリティであろうとマイノリティであろうと、自分や他人を言葉で縛ることなく、多種多様な人間のひとりとして向き合えるようになれば、以前の私のような悩みを抱く人はきっと減っていくだろう。

ずっとずっと先の未来、「LGBTQ+」という括りすらなくなった世界で、自分の心に素直に従えるようになった人々の恋愛模様を、ふと想像してみたくなった。

 

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