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Writer/古怒田望人

日本のLGBTsポリティクス ー杉田水脈問題に対するデモを違った視点から考えるー

「彼ら彼女らは(LGBT)は子供を作らない、つまり「生産性」がない」と、『新潮45』の8月号で杉田水脈衆議院議員が差別的発言をしたのを発端として、LGBTsコミュニティによる自民党への反発が強まり、自民党本部前での約5000人にも及ぶ大規模なデモが生じたのは記憶に新しい。

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このデモに対して様々な意見が飛び交った。

杉田氏の「生産性」という言葉の使い方に対して異論を唱え、LGBTsも経済的な面などから「生産性」を持つといった声。LGBTsも新たな仕方で子供をもち、家族を作ることができるといった声。そもそも「生産性」を持つことを人間性の条件としていることが、差別的であるといった声。

LGBTsによるデモとポリティクス

今回のデモは日本のLGBTsの歴史の中でももっとも大きなもののひとつと見なしてよいだろうし、このデモそのものは日本にLGBTsが存在することを示す大きなキッカケになっただろう。

LGBTsの政治的責任


LGBTsの存在が世間に周知されるということは、様々な責任をも背負うことでもある。

特に、自民党本部を前にして杉田氏の辞職を要求したことは、自民党支持者や保守的な傾向のある人々からは明確にLGBTsは「パブリックエネミー」つまり、「公共の敵」であると認知されることになった。実際、デモ後のネット上ではLGBTsへの差別的発言が散見された。

この事態は明確にLGBTsコミュニティが日本でも政治的な存在、ポリティクスに参入する存在であることを示した現象である。

これまで「あたらずさわらず」で基本的に世間に通されてきたLGBTsの人々は、政治的責任や連帯を負うことになった。

政治化に対する発信

私はこの事態に反対したいわけではない。

フェミニズムが「個人的なことは政治的なこと」、つまり性の問題は政治と密接に関わっているのだということをスローガンとしつつ、抵抗運動や思想を作り上げてきたことを考えれば、LGBTsが日本で大きく政治化したことは重要な転換である(特に来るべき2020年東京オリンピック以降のLGBTsをめぐる状況を考えたときにはより重要な転換である)。

欧米では、セクシュアルマイノリティであることは、何よりも政治的な存在であることを引き受けることだと多くの場合認知されている。現在興行化しつつある、レインボープライドも、日本においても、政治的な抵抗運動だった。

問題なのはこのLGBTsの政治化に対してLGBTsのひとびとがどのように発信できるかだ。そして、そこには幾つかの課題があるように思われる。

日本のLGBTsのリテラシー問題

日本はLGBTsの人々にとってある面では平和な国だった。

もちろんLGBTsに対する、いじめや差別が存在しなかったわけではない(府中青年の家事件、新木場事件や一ツ橋大学事件などを想起されたい)が、アメリカのように日常茶飯事に殺傷事件が起こるほど差別が横行している国ではなかった。

LGBTsをめぐるアカデミズムの問題

LGBTsにとって平和な国、日本。だから、私は女装姿で繁華街をあるくこともできるし、普通に店で食事をすることもできる。

だけれど、平和であることは危機管理のためのリテラシーを引き下げることにも繋がったように思う。

LGBTsの人々のいったいどれだけが、フェミニズムにおける基本的な問題や思想を共有しているだろうか(ここでフェミニズムを「女性だけの問題」と理解するのならばその時点でこの国の性をめぐるリテラシーは著しく低いといえる)。

ただ、このLGBTsのリテラシーの低さの問題はリテラシーを提供すべきアカデミズムの問題でもあると考える。

アメリカではガイル・サラモンという哲学者が『ラティーシャ・キングの生と死』(The life and death of Latisha King,New York University Press,2018)という実際のトランスジェンダーの少女の殺害事件を哲学的に分析した著作を出版する等、当事者とアカデミズムを結びつける動きが進んでいる。

ひるがえって日本では、こういった欧米の著作がほとんど翻訳されていない。LGBTsをめぐる運動と思想の流れは外国語を理解することのできるアカデミズムに属する学者だけのものになってしまっている(確かにこの30年ほどでまったく業績がなかったわけではない。けれども90年代のゲイ・レズビアン運動の時代にくらべて性をめぐるアカデミズムの影響力が落ちているのは事実であると思われる。また欧米と較べて、日本には「トランスジェンダー・スタディーズ」のような確立した学問領域が不在であることも問題である)。

ジェンダーとLGBTsポリティクス

さて、ではリテラシーの低下はどんな問題をはらんでいるのだろうか。

ここでは「ジェンダー」という言葉に絞って考えてみたい。というのも、「ジェンダー」という言葉はLGBTsとポリティクスとの関係性を考えるうえで欠かせない言葉だからである。

ポリティクスをはらんだ文化的、社会的な現象としての「ジェンダー」

哲学者のシモーヌ・ド・ボーヴォワールが「ひとは女に生まれるのではない、女になるのだ。」と主著である『第二の性』(1949)で記した。

性とは生得的に決定されるものではなく、社会的、文化的な条件によって決定されたり、形成されたりしてゆくものである(例えば、トランスジェンダーが、自らが生きている社会や文化とのかかわりで性別に違和を持つようになることを考えてみればよいだろう)。

そして、その社会的、文化的な条件を定める重要な要因がポリティクス(例えば、戸籍の性別の変更は法制度によって決まっていることを想起されたい)である以上、性はポリティクスと切り離すことができない現象である。

このような性のありようを意味するのが「ジェンダー」である。「ジェンダー」とは性が生得的なものではなく、ポリティクスを中心として形成される社会的、文化的な現象であることを意味しているのだ。

多様な「差異」を含む「ジェンダー」

LGBTsが政治化することにとって、「ジェンダー」という言葉はどのような重要性をもっているのだろうか。

それはLGBTsコミュニティが一枚岩ではないことを示し、LGBTsの政治運動が差異を認め合いつつ行われることが重要だということを示すために「ジェンダー」という言葉は重要なのである。

例えば、今アメリカで大きな論点となっているのが白人のトランスジェンダーと有色人種のトランスジェンダーとの格差問題である。

このようなことが問題となるのは、FTMトランスジェンダーで哲学者のエフライム・ダス・ヤンソンのジェンダー解釈を参照するのであれば、ドイツ語で「ジェンダー」に相当する「ゲシュレヒトGeschlecht 」という言葉は「生物学的なセックスをかこむ社会的ないろいろな期待」だけではなく「階級、人種、社会経済的なポジション、肌の色、さらに体型や性的な魅力」をも意味しているからである(cf.E.D.Janssen, Phenomenal Gender-What Transgender Experience Discloses-,Indiana University Press,2017,p.9)。

つまり、「ジェンダー」には様々な格差という「差異」の問題が含まれているのである。

LGBTsのありようが「ジェンダー」と切り離せないものである以上、LGBTsコミュニティならびにその運動や思想は多様な差異を含まざるをえない。

けれども、このような「ジェンダー」という言葉の意味をどれだけの人々が理解しているのだろうか。

かき消されるLGBTsの差異とその問題

さて、ここで冒頭のデモの議論に立ち返ってみよう。今回のデモは、LGBTsの人々だけではない様々な人々を巻き込んだものとなった。

メディアによる単一化とその問題

杉田氏の「生産性」発言は障害者活動家や団体からも多くの批判を受けている。けれども、「LGBTの人々が自民党本部前でデモ」と短いニュースでメディアが報道した時、このような広がりは見えなくなってしまう。

あくまでも「LGBT」というひとつの集合体に還元されてしまい、今回の差別的発言をめぐる問題が含む差異や複数性はかき消されてしまう。

そうして、「LGBT」という単一の「パブリックエネミー」が誕生する。
メディアが「ジェンダー」という言葉が含む多様な差異をかき消してしまうのだ。

この問題はLGBTsそのものの問題に繋がる。それは、今回のデモが一単位としての「LGBT」に還元されてしまうことで、LGBTs内での差異、そしてそれを超えた差異が見えなくなってしまうということだ。

そうすると一方で、マジョリティにおいて今回の杉田氏の発言とデモが、「LGBT」という自分たちとは無関係な、一単位の集合体の問題に過ぎないという「他人事」としてLGBTsの問題への認知が広まっていってしまう。

他方で、今後運動や思想を、パブリックエネミーとして認知された以上高めていかなければいけないLGBTsの人々にとって、自分たちが互いに対して持っている差異を見出すことが難しくなり、連帯が生まれづらくなる。

このようにマジョリティにとっても、マイノリティにとっても、メディアが生み出す「LGBT」という単一化は、それぞれを排他的な集団にすることに繋がってしまう。

「複数のわたしたち」とヨコの連帯へ

これまで見てきたように、杉田氏の差別的発言を発端としたデモはさまざまな責任を喚起するものともなっている。

数形の「わたしたち」

特に、「ジェンダー」という言葉を理解し、「わたしたちLGBTs」と名のることの必然的な排他性を人々は負う必要がある。「わたしたち」と名乗ることは、つねに、「わたしたちではない」人や集団を排除している。

例えば「わたしたちLGBTs」と私が名のれば、こうして記事を書くことができない、つまり電子メディアをとおして、自分の声を伝えることのできない人々を排除している。

だからといって、すべてを包括するような「わたしたち」は存在しない。「わたしたち」とは常に複数形なのだ。

だから「ジェンダー」という言葉が教えてくれる性をめぐる様々な社会的、文化的に造られる差異に気づき、それぞれが常に他の「わたしたち」と隣り合わせであることを自覚する必要がある。

そうでなければ、メディアと同じくLGBTsを一つの単位としてしまい、無自覚に排他的な運動を行うことに繋がってしまう。

「複数のわたしたち」がどのような場面でも存在することを自覚しなければならない。

「ヨコの連帯」のなかでの「応答責任」

他方で、今回のデモは大きなチャンスでもあるのは事実だ。

それは、杉田氏の発言に対してこれまでLGBTsとは無関係な存在とみなされてきた人々からも、批判の声が上がっていることである。メディアは、LGBTsの問題として今回のデモをまとめ上げようとしているが、現実では「複数のわたしたち」がまさに立ち上がりつつある。

LGBTsという単位にまとめる必要のない「ヨコの連帯」が、大きな意味での「運動」が起こりつつあるのだ。

こうした機運の中で、LGBTsはパブリックエネミーとなった現状と、リテラシーの低さを理解し、自分たち自身を変えてゆく必要があるだろう。

今回のデモでLGBTsははっきりと「行動」をした。そしてどんな「行動」にも「責任」が伴う。「責任」とは欧米の言葉を参照するのならば「レスポンシビリティーresponsibility」、「応答できることresponse-ability」を意味する。つまり、「応答責任」が要請されるのだ。

だから、もうただ虹色の旗をかざしているだけでは不十分なのだ。LGBTsが行動を起こした以上、その行動から起こった出来事に「応答」することのできる力を身につけなければならない。

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