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「ゲイだって知ってたよ」。カミングアウトで知った家族の絆【前編】

現在、鎌倉で暮らしていると聞いたからだろうか。海辺で暮らす人特有の、オープンマインドなたたずまいに惹かれた。「小さい頃は、人見知りで引っ込み思案な性格だったんですよ」と話す、ゲイの加納晶さん。2歳の時に中耳炎にかかり、耳が聞こえなくなった。そのせいで、中学校や高校では孤立することが多かったという。そこから、どのようにして、今のようなポジティブな雰囲気を身に付けていったのだろう。

2018/11/21/Wed
Photo : Mayumi Suzuki Text : Sui Toya
加納 晶 / Akira Kanoh

1977年、岐阜県生まれ。聴覚障害者の両親と、健聴者の姉の4人家族。高校時代からろう劇団で役者として舞台に立ち、メーカー、印刷会社での勤務を経て、30歳で上京。38歳のときにOUT IN JAPANプロジェクトに参加し、それをきっかけに、両親や会社など周囲へのカミングアウトを決めた。現在は、会社員として働きながら、自分の思い描くカフェを始めるための準備を進めている。

USERS LOVED LOVE IT! 30
INDEX
01 家族3人が聴覚障害者
02 両親との関係
03 教室での人知れぬ努力
04 いじめを受けた2年間
05 セクシュアリティの自覚
==================(後編)========================
06 自分は変じゃない
07 姉はゲイだと知っていた
08 上京の決意
09 母へのカミングアウト
10 僕らの活動は、未来のためにある

01家族3人が聴覚障害者

最初の記憶

子どもの頃の最初の記憶は、2歳か3歳の頃。

親に聴覚障害者のイベントに連れていってもらったときの光景だ。

両親とも聴覚に障害があり、僕も耳が聴こえない。

「子どもの頃は、手話サークルなど、親と一緒に聴覚障害者の活動の場所にいる時間が長かったような気がします」

「手話でコミュニケーションを取るのが当たり前。そういう環境の中で育ってきました」

家族の中で唯一、2歳上の姉だけ耳が聴こえた。

「姉はちょっとしか手話ができなかったので、身振りや空間に文字を描く『そら文字』で会話していました」

「家族4人でいるときは、僕と両親は手話で話し、その内容を声や身振りで姉に伝えていましたね」

そんな環境だったから、小さい頃、姉との違いを意識することはなかった。

なぜ姉は手話で話せないのか、聴こえるというのはどういうことか、考えることもなかった。

「頭の中で、自然にスイッチングしていたんでしょうね」

「面倒だとか、大変だと思ったことは一度もないんです」

姉の本心とサポート

姉は違ったらしい。

姉は小さい頃から祖母に預けられたり、友だちと遊ぶことが多く、対して僕は手話サークルにも連れて行かれるなど、両親にベッタリだった。

そんな家族の中で、疎外感を感じていたのだろうか。

「姉は『私も耳が聴こえないほうが良かった』と言うこともありました」

「小さい頃、姉から『あんた、甘えてるのよ』と言われたこともあります(苦笑)」

姉が、両親と僕との関係にモヤモヤしたものを感じていたのは間違いない。

しかし、同時に「弟を守らなければ」という責任のようなものも感じていたのだろう。

「小さいときは、地域の同じ歳くらいの子どもたちとみんなで一緒に遊んでいました」

「僕の耳が聴こえないことを、姉が周りの子に伝えてくれていたんです」

「一部の子からは冷たい対応をされたこともありましたが、大半の子が仲良くしてくれました」

02両親との関係

母とは似た者同士だった

昔から、母とは考え方が似ている。

「母とは、やりたいことが、不思議とリンクするんです」

「例えばショッピングのときに、行きたい店があったとしますよね」

「僕がそれを言う前に、母から『あの店に行こうか』と提案されることが多いんです」

そのため、母とは意見がぶつかることがなかった。

一方、父とはあまり仲が良くなかった。

「小さい頃、父のことは、頑固で話しにくいタイプの人だと思ってました」

「父は一人でテレビを見ていることが多くて、話しかけても『ちょっと待って』と言われてしまうんです」

「テレビを優先するような父だったんですよね」

職人としての父

父には兄弟が2人いる。男ばかりで、父は次男だ。

その3人で会社を経営していた。

「僕の地元は、刃物の町といわれていて、父たちの会社も刃物関連の仕事をしていました」

「ブランド刃物の “さや” みたいなものを作ったりしている会社でしたね」

父は37年間、その会社で職人として働いていた。

こだわりが強く、自分のこだわりを決して曲げない。

「それは、ある側面から見ると、格好いいかもしれません」

「でも、子どもとしては、もっと話を聞いてほしかったし、もっと意見を受け入れてほしかったですね」

ろう学校進学への反対

両親は2人とも、小学校から高校までろう学校に通った。

そのため、僕についても、いずれはろう学校に通わせようと考えていたと思う。

しかし、僕が小学校に上がるとき、母方の祖母がろう学校に通うことを反対した。

「祖母としては、特別な子とは見られたくない、恥ずかしいという思いがあったようです」

「その頃はまだ、障がいのある人に対して、偏見の強い時代だったんですよね」

祖母の意見を受け、両親は姉の通っていた近所の小学校に相談。

しかし、「難聴教室がある学校のほうがいい」と勧められ、結局は家から遠い小学校に通うことになった。

「小学校は、家から1時間ほどの場所にありました」

「雨でも雪でも関係なく、6年のあいだずっと、1時間歩いて通っていましたね」

03教室での人知れぬ努力

先生の話がわからない!

周りが聴こえる人ばかりという環境は初めてで、小学校に入学した当初は困惑した。

先生の口の動きを読まなければならない。
席は常に一番前だった。

それでも、先生が話していることすべてを読み取れるわけではない。

「授業後に、友だちに勉強の内容を教えてもらったり、ノートを見せてもらったりしないといけませんでした」

「自分から友だちに、積極的に聞くことが多かったですね」

「授業中に居眠りする子がいたけど、僕はどんなに眠くても、我慢して先生の口を見ていなきゃいけないんです」

「それは本当に大変でした(笑)」

ろう学校での両親の体験

ろう学校に行っても、先生の言っていることをすべて理解できないのは同じだと、後に両親に聞いた。

「今は努力して手話を覚えてくれる先生もいますけど、昔はゼロだったそうです」

「友だちと手話で話すのも禁止だったって」

「手を後ろで縛られて、手話をせずに口を読めと厳しく言われたようですね」

「手話で話しているのを見られると、手を叩かれたと聞きました」

それでも、ろう学校では休み時間や登下校中に、先生にバレないように友だちと手話で会話することができる。

「僕は、休み時間もずっと相手の口の動きに集中しなければいけませんでした」

「疲れてしまうことも多かったです」

「家に帰って、家族と手話で会話していると、何て楽なんだろうと思いました」

6年間のサポート

慣れない生活を支えてくれたのは、小学校1年生のときに出会った2人の友だちだった。

「僕の耳が聴こえないってことを理解して、仲良くしてくれる友だちがいたんです」

「6年間、友だちのサポートがあったおかげで、なんとかやりきったかなって思います」

小学生の自分を振り返ると、人見知りで、引っ込み思案な性格だったと思う。

職員室に行くときも勇気が必要だった。

「ドアをノックして、開けるまでにすごく時間がかかりました」

「20分くらい、廊下でモジモジしていましたね(笑)」

それでも、仲の良い友だちは「明るい性格だ」「一緒にいて楽しい」と言ってくれた。

休み時間は、彼らとつるんで、黒板を使って筆談したり身ぶりで会話した。

「あの2人がいなかったら、ずっと孤独だったかもしれません」

04いじめを受けた2年間

なぜろう学校に通わせてくれなかったの?

健聴者と同じ環境で過ごすのは大変だったが、聴こえない生活に不満を持つことはなかった。

しかし、中学生になり反抗期を迎えると、親に当たることもあった。

「両親はろう学校に通ったのに、なんで僕は通わせてもらえなかったんだろうと、不満が湧いてきたんですよね」

「その思いを、母に直接ぶつけたこともありました」

不満を感じたのには、理由がある。

中学校に入学して少し経ったころ、いじめが始まったからだ。

小学校は1時間以上かけて通っていたが、中学校は、姉と同じ近所の公立校に通うことになった。

「中学校は、近くの小学校から持ち上がりじゃないですか」

「新しく入って来たのは僕だけだったんです」

人間関係を一から構築しなければならなかった。

うまくいかなかった。

学年全体からの無視

「実習で班を作るときに、僕の名前がないことなんてしょっちゅうでした」

「耳が聴こえないから、クラス全体で相談するときについていけないんです」

「先生が『どこかに入らせなさい』と言っても、どの班も『えー』と言ってガヤガヤしてしまう」

「結局、先生が『晶くんはこの班に入りなさい』と決めてくれていました」

同じ中学校に通っていた姉が心配して、先生に掛け合ってくれたこともあった。

しかし、3年間、強がって見せていたせいか先生が親身にサポートしてくれることをしなかった。

その後もいじめはエスカレートしていった。

「まずは男子からハブられて、女子にも無視されるようになって・・・・・・」

「自分のクラスから広がって、学年中から仲間外れにされているような状態でしたね」

「中2くらいのときが、一番つらかったです」

中3で根比べに勝った

中学ではバレーボール部に入った。

母がバレーをやっていたから、自分もやりたいと思ったのだ。

しかし、いじめの主犯格が同じ部にいたため、部活を楽しめないと思い、1年で退部した。

「いじめられていることを、親には言えませんでした」

「家に帰って、親と会話して、テレビ見たり漫画を読んで気晴らしをする」

「そうやって、毎日を乗り切っていたような気がします」

そんな状況でも学校に通い続けたのは、もし行かなければ負けるのと同じと考えたからだ。

中3になると、ピタリといじめが止んだ。

「諦めずに通い続ける僕を見て、いじめていた側が根負けしたみたいな感じでした」

「中3になると仲良くしてくれる友だちもできて、事態が好転しましたね」

「中3では、宿泊実習などのイベントも楽しむことができました」

05セクシュアリティの自覚

男の子を目で追ってしまう

初めて性指向を自覚し始めたのは、小3のときだ。

「友だちと会話するとき、周りの男友だちは、『あの子可愛いね』と女の子のことを話すことが多かったんです」

「でも、僕は男の子のことばっかり見ちゃうんですよ」

「体育の着替えのときに、気づいたら男の子を見ているなって(笑)」

「そこで初めて自覚したんです」

好きなアイドルの話をするときも、男性アイドルの名前ばかり挙げていた。

当時絶頂期だった「光GENJI」とか「男闘呼組」とか。

しかし、初めて好きになったのは女の子だった。

自分でも不思議に思う。

初恋の本音

「中1のとき、同じクラスの女の子を好きになりました」

「ユーモアのある、面白い子だったんですよね」

「取り繕っていなくて、いい子だなって。可愛いなと思って惹かれたのを覚えてます」

「2回ほどラブレターを書いて渡しましたが、結局フラられてしまいました(笑)」

今振り返ると、置かれている状況からの「逃げ場」がほしくて、彼女のことを好きになったのかもしれない。

「たとえいじめられても、彼女ができれば勝ちだ、って思っていた部分があったのかも」

「好きな子がいたから、学校に通い続けられたのも事実です」

体育の先生への憧れ

その後、別の女の子を好きになったこともあった。

しかし、中学校の卒業が迫る頃には、「自分は男の人が好きなんだ」とはっきり自覚していた。

「自覚することになったきっかけは、体育の先生でした」

「相談しやすい先生で、悩みをとことん聞いてくれる先生だったんです」

「いろいろ相談しているうちに、この人いいなって、気持ちが目覚めたんですよね」

男性の体を目で追いかけてしまうこと。
そんな自分は、病気なのではないかということ。

今まで誰にも言えなかったことも、その先生には打ち明けることができた。

「先生からは『よくあることだよ。今はまだ思春期だから』と言われました」

「いつかはちゃんと、はっきりわかるときがくるから、って」

「遠回しな表現でしたけど、変だと言われなかったことが、僕にとっては救いだったんです」


<<<後編 2018/11/23/Fri>>>
INDEX

06 自分は変じゃない
07 姉はゲイだと知っていた
08 上京の決意
09 母へのカミングアウト
10 僕らの活動は、未来のためにある

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