02 ドバイ在留中にノンバイナリーを自認
03 幼少期から感じていた周りとの違い
04 「ハーフ」であることへの葛藤
05 「頭のいい子」だった中学時代
==================(後編)========================
06 部活に人生を捧げた高校時代
07 アメリカのコンテンツで変化した「ルーツ」の捉え方
08 両親にカミングアウトできない理由
09 憧れのアメリカへの留学と、将来のこと
10 若い世代のクィアのリプレゼンテーションになりたい
01指摘されて自認したバイセクシュアル
「海もバイセクシュアルかと思ってた」
セクシュアリティを自認したのは、大学生になってからのことだ。
「当時デートしてた人がいたんですけど、その人にめっちゃサラッと『僕、バイセクシュアルだよ』って打ち明けられたんです。そのときがLGBTQであることをオープンにしている人との初めての出会いでした」
「そんな普通にいるんだ」と驚いていたら、唐突に「海もバイセクシュアルだと思ってた」と指摘を受ける。
「何かのショーを観に行ったときにそう言われたんですけど、私の女性ダンサーを見る目が明らかに違ったらしくて(笑)」
「そう言われてみればそうかもって、そのときに思ったんです」
これまでの記憶をたどっても、腑に落ちるものがあった。
バイセクシュアルを自認しても葛藤がなかった理由
バイセクシュアルを自認する以前からLGBTQについての知識もすでにあったし、当然ながらアライだった。
「知識があったから、偏見が完全にない状態で気づくことができたので、すごいラッキーな方だったかもしれません」
「元々アライだったし、その土台があったから、自分がバイセクシュアルって気づいたときにも葛藤はまったくなかったんです。ていうか気づいたことによって『じゃ、女の子と付き合えるじゃん! イェイ!』って感じでしたね(笑)」
高校生のころからアメリカのコンテンツに触れてきたため、LGBTQ当事者の存在はしっかりと認知していた。
「そのときはまだバイセクシュアルだと自分を当てはめてはなかったんですけど、でも『この人たちの権利があるのは当たり前じゃん』ってもう理解してましたね」
振り返って気づいた昔の恋
「知識がない段階でセクシュアリティを自覚するのは、悪いことなんじゃないかって悩んじゃう人も多いと思うんですけど、偏見がある方が完全に悪いって知ってたので、苦しむことは特になかったです」
自認したあとに振り返ると、思い当たることがあった。
「今思えば好きだったなって思う女の子とかも高校生のときにいたんですけど、そのときは本当に気がつかなかったんですよね」
ただ、バイセクシュアルを自覚したあとも、自分のことはシスジェンダーの女性だと思い込んでいた。
性自認よりも性的指向の方が、自覚するのは早かった。
02ドバイ在留中にノンバイナリーを自認
「かっこいい」と言われたことが嬉しくて
ノンバイナリーを自認したのは、バイセクシュアルだと腑に落ちた数年後、2021年のことだ。
「元々ゲイに見られたい願望がすごいあって、去年くらいに髪を短く切ったんです」
「そしたら『イケメン』って周りから言われたり、知らない女の子とかに『かっこいい!』って言われるようになって、それがすごい嬉しかったんですよね(笑)」
そのときはまだシス女性を自認していたものの、「かっこいい女性」になりたいと思い始める。
3人称にtheyを採用するようになったのも、このころだ。
「インスタグラムでアメリカのLGBTQの方とかが、3人称にsheとtheyどっちも使ってるのをけっこう見かけるんですよ」
「それ私にも合いそうだなって思って、sheとtheyどっちも使い始めるようになったんです。今は、they / themだけ使ってます」
それがなぜだか、自分にはしっくりきた。
ジェンダー規範の強いドバイでの生活
「2021年10月から4月まで、半年くらいインターンシップでドバイに住んでたんです」
「コロナ禍で大学の授業がオンラインだったので、行けたんです。時差のせいで朝5時とかにテスト受けたりしてました(笑)」
イスラム教を国教とするアラブ首長国連邦に属するドバイは、男女規範が根強い。
「女性扱いされることが日本よりもすごく多くて、それがけっこう苦手ってことに気づいたんです。イスラム教の教義に基づくジェンダー規範が嫌っていうより、女性として見られることが嫌なんじゃないかなって思い始めて・・・・・・」
日本ではショートカットの女性も少なくないが、ドバイではほぼ見当たらない。
そのため私の髪型については、しばしば周囲に驚かれていた。
「怒ってとかじゃなくて、本気で『なんでそんなに髪短いの?』って聞かれたりしました(苦笑)」
私の髪型を「似合っているね」と褒めてくれる一方で、よほど疑問に思ったらしい。ショートカットの理由をたずねられることは、ドバイでは日常茶飯事だった。
自分の性別がバレていないことが楽しくて、ノンバイナリーを自認
道を歩いている子どもたちからも、しょっちゅう「あなたは男の子? 女の子?」と質問される。
「でもそれが全然気にならないっていうか、むしろすごい楽しんでる自分がいたんです」
女性か男性かをたずねられることにも、不快感をまったく覚えなかった。
むしろ自分の性別が周囲に悟られていない状態を、とても心地よく感じた。
「だからどっちでもないっていう状態が、自分に合ってるなって思ったのかもしれないですね」
印象に残っているのは、床屋での出来事だ。
「私は刈り上げたりしたいから、日本ではふだんQBカットっていうおじさんが行くようなところに通ってるんですけど、ドバイで男性用の床屋に入ろうとしたら入店を拒否されて(苦笑)」
男性が女性の髪に触れること自体がNGであるドバイでは、床屋もきっちりと男女で分かれている。
「隣に女性用の店舗があるからそっち行きなって教えてもらって、しぶしぶ行ったんですけど、すごいキラキラしてるし落ち着かないし、めちゃくちゃ居心地悪かったんです」
「おまえは女だ! って突きつけられてる感じがして・・・・・・」
「それでもう床屋に行きたくなくなって、自分で坊主にしました(笑)」
03幼少期から感じていた周りとの違い
日本人の母とネパール人の父の長子として誕生
父はネパール出身で、出稼ぎのために単身で来日していたと聞く。
「パパは本当はお金を作ったらネパールに帰るつもりだったらしいんですけど、ママと出会ったので日本に残ったみたいです」
そして結婚した両親のあいだに生まれたのが、私である。
「いちばん上の子どもだったので、常に弟や妹の世話をしてた記憶があります。3人きょうだいなんですけど、親にぜんぜんかまってもらえなくて(笑)」
4歳ずつ離れた弟と妹は可愛かったが、幼いときは長子ならではの不満も抱えていた。
「なんでいつも、私だけかまってくれないのってママに言ってたんですけど、『上の子だからしょうがないよ』みたいに流されちゃうんです」
「ママも上の子だったんですけど、『気持ちはわかるよ』って共感されちゃったり(笑)」
小学生や中学生くらいのときから、弟や妹の保育園や学童のお迎えを任されてもいた。
「もはや2人育てた感はありますね(笑)」
「でも今となっては自立した人間になれたので、いちばん上でよかったって思います」
「なんでパパは日本人じゃないんだろう」
幼いころから「ハーフ」であることへの悩みは、常につきまとっていた。
「小学生のときに絵を描く授業で私が肌色を塗ろうとしたら、他の子に『それ、おまえの肌の色じゃないよ』って言われたのがいちばん記憶に残ってます」
「あのときはまだナイーヴだったので、すごく傷つきました」
今だったら相手が完全に悪いとわかるし、言い返す言葉も持っている。
ただ当時は子どもだったために「みんなと同じがいい」という思いが強く、悲しくなった。
「なんでパパは日本人じゃないんだろうって思いましたね・・・・・・」
「泣いてたかもしれないし、笑ってごまかしていたような気もします」
日本生まれ・日本育ちであったため、自分の中身がみんなと異なっているとは思わない。それなのに、どこかやっぱり周りとの違いを感じる。
「家ではパパがネパールの料理を作ってくれることもあったし、日本にいるパパの親戚と会うと、やっぱり周りのお家とは全然違うなって思ってました」
4年に1回ほど訪れていたネパール
初めてネパールに行ったのは赤ちゃんのころだったので、覚えていない。
でも子どものころは、4年に1回ほどネパールに訪れる習慣があった。
「ネパールでの最初の記憶ってなると4歳くらいだと思うんですけど、パパの実家の周りはすごい自然豊かなところなんです」
父の実家は都市部ではなく、山と川に囲まれた綺麗な場所だ。
「ネパールで過ごした時間は、良い思い出ですね」
父の親族、主に年長の人はネパール語しか話せない。
それゆえにコミュニケーションは今もあまりスムーズではなく、ジェスチャーとフィーリングで頑張っている。
「私はネパール語は話せないので、パパに通訳してもらってました。大人になってから少し学んだんですけど、出川イングリッシュくらいのレベルです(笑)」
「今は英語が話せるので、いとことか若い人たちとは英語でやりとりしてます」
04 「ハーフ」であることへの葛藤
常に付きまとう「肌の色」へのコンプレックス
日本における「美白信仰」が、自身の肌の色へのコンプレックスを加速させた。
「小さいときとか思春期のころは、日焼けをすごい気にしてました」
「プールのときとかも、日焼けするのがすごい嫌でしたね・・・・・・。日本はやっぱり肌が白い方がいいって風潮があるから、これ以上黒くなってからかわれるのが怖かったんだと思います」
遺伝子的に「白い肌」になることは不可能なのに、周囲の目を気にして「そうならなければ」と思い込んでいた。
「振り返るとすごく無駄なエネルギーを使ってましたね。そんな努力するんじゃなくて、もっと自分を好きになる方に力を割けばよかったです(苦笑)」
ジェンダー規範を押し付けない両親
子どものころは「ハーフ」であることに対して思い悩んでいたが、その一方で性自認や性的指向については、特別に違和感を覚えた記憶はない。
「ママからもパパからも、ジェンダー規範を押し付けられたことは一度もないんです」
「女の子なんだからとか、将来はお嫁さんになるんだよとか、そういうことを一切言われずに育つことができたので、逆に自分のセクシュアリティについて気づけなかったのかもしれないですね」
かわいらしいものを身につけるのが嫌だとも思わなかったし、男の子たちのグループに混ざりたいとも思わなかった。
「子どものころは基本的に女の子たちと遊んでたんですけど、特に違和感もなかったんです」
第二次性徴の際の身体への変化に対しても、嫌悪や抵抗は感じなかった。
両親のフラットな育て方があったからこそ、悩まずに済んだのだろう。
自虐的な発言で心を守っていた
子どものころは周りの友だちとは異なるルーツが、私の心に影を落としていた。
「私は非常にプライドの高い子どもだったので、ルーツを気にしてないふりをしてましたね(苦笑)」
強がりゆえに、友だちに苦悩を打ち明けることもできずにいた。
“私ハーフなのに、英語もネパール語も話せないんだよね(笑)”
こんなふうに自虐的に話すたび、胸はきしんだ。
「ギャグみたいにして保険をかけてたんですけど、本当は嫌だったな・・・・・・」
「今考えると、子どもなのにそんなことして自分可哀想だったなあって思います」
「ハーフ」と聞いてみんなが想像するのは、「白人」との子どものようだ。
だからなのか、「ハーフっぽくないよね」などといったデリカシーに欠ける言葉をかけられることもままあった。
「目の前で同級生に『ハーフだったらよかったのに』って言われたこともあるんですけど、いやハーフに生まれても楽しくないよ・・・・・・って心の中では思ってましたね(苦笑)」
05 「頭のいい子」だった中学時代
自立した女性である母を見て
小学校から中学校までの学生生活の中で、周囲に持たれていたイメージは「頭のいい子」だった。
「スポーツは全然できなくて、どちらかといえば勉強のできる子どもでした」
「学級委員とかもやってましたね。頭のいい子って学級委員任されたりするじゃないですか。私自身もそれを悪くは思ってなかったんです」
優秀であると言われることを、誇らしく思っていた。
勉学に熱意を持って打ち込んだのは、母の影響でもある。
「ママもパパも基本的に放任主義ではあったんですけど、ママの方は『勉強しといて損はないよ』って言ってくれてたんです」
「ママは大卒で正社員で働いてるような人だったので、自立した女性のリプレゼンテーションとして身近にいてくれたのはありがたかったですね」
優秀さが心のより所だった
科目全般で成績優秀だったが、勉強が「好き」だったかどうかは今ひとつわからない。
「中学のころは『私は勉強ができて他人より優秀だ』って思っていたので、すごくプライドが高かったです(苦笑)」
部活には所属していたものの、名ばかりのゆるい活動しかしていなかった。
「絵を描くのが好きだったので、漫画系の絵を描くような部活に一応入ってました」
「でも実際は、みんなで放課後集まってただおしゃべりしてるだけの、本当に適当な部活でしたね(笑)」
<<<後編 2023/01/28/Sat>>>
INDEX
06 部活に人生を捧げた高校時代
07 アメリカのコンテンツで変化した「ルーツ」の捉え方
08 両親にカミングアウトできない理由
09 憧れのアメリカへの留学と、将来のこと
10 若い世代のクィアのリプレゼンテーションになりたい