02 相撲で優勝
03 チアリーディングのユニフォーム
04 鹿児島県の記録は通過点
05 自認するFTMとして過ごせる居場所
==================(後編)========================
06 FTMとしての就活
07 男として働いてみたい
08 今でも考え続けているよ
09 LGBTQ当事者として一歩目は踏み出したけれど
10 自分にできることは何か
01目立つとすぐに広まる地元
のどかな田園地帯
鹿児島県の最も北西に位置する、出水市で生まれ育つ。
「平野が広がっていて、田んぼが豊かな田舎町です」
のびのびと育ててもらえた地元が大好きで、都内を拠点に活動するようになった今でも時々帰省している。
ただ、「いいところ」ではあるけれど、LGBTQ当事者としては必ずしも生きやすい場所とは言えない、と思ったこともある。
「だれかれ構わず家に上がり込んでくる、ってほどではないですけど、近所づきあいはやっぱり、よい意味でも都会より密です(苦笑)」
「何か目立つことをすれば、すぐに近所に広まりますね」
優しくも厳しい母
3人兄弟の末娘として生まれた。二人の兄とは、それぞれ10歳、8歳、年が離れている。
「私が小学生になるときには、兄は二人とも家を出てたので、子どものときはお互いによそよそしかったです(笑)。今のほうが仲がいいですね」
母は、しつけにはとことん厳しかったが、愛のある人でもあった。
「僕が何か悪いことをしたら、ビンタを食らってました。時代ですね(苦笑)」
家事も徹底的に叩き込まれた。
でも、それは僕が「女の子だから」ではなく、いつか独り立ちするときに難なく生活できるようにと、教えられたもの。
「僕がたたんだ洗濯物が少しでもゆがんでたら、母親がぐしゃぐしゃに崩してやり直しさせられてました」
「おかげで、友だちに借りた衣服を返すときには、売り物みたいにきれいにたたまれてる! って驚かれます」
母の厳しいしつけには感謝している。
いざとなると怖い父
自動車部品の卸業を営んでいた父は仕事で忙しかったため、子どものころに一緒に遊んだ楽しい記憶はほとんどない。
でも、怒らせたら家族のなかで一番怖いと認識していた。
「僕が小さかったときに、父親が晩酌をしていて、ちょっとだけなら、ってお酒に口を付けようとしたことがあって。そうしたら『先に口つけんじゃねえ!』って酒をぶっかけられました」
雷を落とされたこともあるけれど、やっぱり待望の娘。
「兄二人に比べれば、かなり甘やかされて育てられた方だと思います(笑)」
02相撲で優勝
圧倒的な身長
両親ともに背が高く、高身長な一家だったこともあり、僕も小学生のときですでに身長が170cmに到達。
もちろん、学校内では一番背が高かった。
運動が得意だったため、地域で目立つ存在となる。
「一緒に遊ぶ相手は、基本的に男の子でした」
「女の子は好きになる対象として、からかったりすることで関わりはありましたね」
小学校6年生のときには、地域の相撲大会に出場。
「男の子の友だちから『内野も出るだろ?』って聞かれたので、『出る!!』って答えて」
「男女ともに出場OKではあったんですけど、女子で出たのは僕一人だけでした(笑)」
唯一の女子でありながら、体格を活かして見事優勝。
力ではだれにも負けなかった。
「お前、レズかよ!」
小学校高学年になると、周りは色恋に目覚め始める。
「『内野はだれが好きなの?』って男の子に聞かれたときに、周りにどう思われるか気にしないで、そのとき気になってた女の子の名前を答えたんです」
すると、相手から「お前、レズかよ!」とつっこまれた。
「でも別に責める感じでもなかったし、いじめられるわけでもありませんでした」
とはいえ、自分が女子のことを好きだと口にしてはいけない雰囲気は、何となく感じ取った。
身体を見られたくない
小さいころから自分のことを「私」ではなく「僕」「オレ」などと呼んでいた。
「鹿児島なので、自分のことを『おい』って言うときもありました。『おいどん』はさすがに普通じゃないので(笑)」
それでも、両親を含めて、だれからもとがめられることもなかった。
ただ、女性の身体を見られたくなくて、修学旅行などの集団入浴は必ず避けた。
「小6の修学旅行のとき、先生に『部屋に付いてる個室の風呂に入りたい』って直談判したんです」
理由を聞かれても「どうしても」としか答えられなかった。
当時はまだ性同一性障害(性別違和/性別不合)なども知らず、自分のモヤモヤを言語化できなかった。
「そうしたら先生から『お前、男風呂に入りたいのか?』って言われて・・・・・・」
「心のなかで『クソが!』って思いました」
でも、素直な小学生は、先生からの配慮のない冗談に対して「どちらかと言えば男風呂のほうがいい」と答えた。
「先生はさらに、男の子たちに『おい、内野が男風呂に入りたいって言ってるぞー』って言いふらして・・・・・・」
それをきっかけに、小学校にいづらくなることはなかった。
でも今になって振り返れば、先生の言動は性の多様性を理解しておらず、デリカシーもなかった。
03チアリーディングのユニフォーム
いきなり男女で分かれることに
小学校は男女の垣根なく仲のいい雰囲気だったが、中学校に上がると男女できっぱりグループが分かれるように。
制服でも、それまで身に着けなかったスカートをはかなければならなくなる。
授業も何かと男女で別れて受ける環境に、なかなか馴染めなかった。
「男の子の友だちとの接点が一気になくなってしまいました・・・・・・」
小学生のときにはアドバンテージのあった体格も、第二次性徴で男子の背が一気に伸びて筋力もつくと、差がなくなってくる。
「自分は女なんだって、現実を突き付けられたような気分でした」
中2のある日、教室に入ろうとしたときのこと。
クラスメイトが男女のいくつかのグループに分かれているのを見て「自分はどこにも入れない」と感じ、足を踏み入れることができなくなった。
しばらくの間、保健室に通うことに。
「もともと明るいほうだったので、周りからは『どうしたの?』って聞かれました。でも、言語化できないから何も答えられなくて、ますます怪しまれてしまって・・・・・・」
でも、保健室の先生だけは「何も言わなくていいから、ここにいなさい」と言ってくれた。
「何も言わなくてもいい居場所は、有り難かったです」
3カ月ほど経ち、だれかから催促を受けたわけでもないが「そろそろ戻らなきゃな」と自発的に思い立ち、教室に再び足を向けた。
好きな女の子を追いかけて
中学生のときに気になっていた女の子に合わせて、陸上部に入り、砲丸投げに打ち込む。
さらに、その女の子が通う塾にも「進学校に行きたいから」と親に頼み込んで通った。
「おかげで成績はよかったです(笑)」
部活でも塾でも一緒に過ごしたことで、女の子とは友人として仲良くなれた。
でも、告白することはなかった。
「恋仲になることは絶対にないって、諦めてました」
チアリーディングのユニフォームだけはどうしても・・・
中2からは陸上部と掛け持ちでダンス部にも入った。
「ヒップホップとか、かっこいいダンスをやりたかったのに、顧問の先生がチアリーディングに熱を入れ出して・・・・・・」
チアリーディング自体はスポーツの要素もあり、楽しめた。
問題は、大会やお披露目のときに使うユニフォーム。
「”Angels” って胸に赤いロゴの入ったトップスにスカート。それに赤いブルマ。特に赤いブルマがどうしても嫌で・・・・・・」
中3のとき、ユニフォームを着なければいけない機会が訪れる。
スカートは妥協したが、ブルマだけははきたくなくて黒いハーフタイツをはいて出向いた。
先生は大激怒。
「『ブルマは忘れました』ってウソで押し通しました。タイツがなるべく見えないようにまくって、何とか出させてもらえました」
「大人になって先生にお会いしたときに当時のことを話したら『そういう事情だったのか』って納得してもらえました」
このときも、自分のセクシュアリティやブルマをはきたくない理由をまだ説明できなかった。
でも、あとから友人に聞いた話だと、口では言えなくても僕の表情で訴えていたらしい。
「ユニフォームを着なきゃいけないときの僕の顔があまりにもつらそうで、見てられなかったそうです」
04鹿児島県の記録は通過点
体育祭の演舞
中学校では気持ちが上向かないときもあったが、高校生活は楽しかった。
「制服のスカートにも慣れて抵抗感がなくなってきてたのと、集中できるものがあったからかなと思います」
その一つが、体育祭での出し物「演舞」だ。
「体育祭で、有志で演舞を披露したんです」
「演舞」は、熊本で有名なダンスの一種。学ランを着て、応援団のような勢いのある直線的な振付で、一糸乱れぬ動きで魅せるのが特徴だ。
「みんなで衣装や振付を考えるのが楽しくて。1年生のうちから優勝して、3年間勝ちました」
やり投げに転向
高校でも引き続き陸上部に所属する。種目を砲丸投げからやり投げに変更した。
「ほかの子は幅跳びとトラック競技をやっていて、やり投げは僕一人だけでした」
「やりを持ってなかったので、親に頼んで買ってもらいました(笑)」
休日にはやり投げを指導してくれる講師のもとへ練習に行っていたが、基本的には一人で黙々と練習する日々。
「昭和の部活みたいな、朝から晩までハードな練習ってほどじゃなかったですけど、友だちと遊びに行った記憶はないですね」
「でも、部活のメンバーとは今でも地元に帰れば一緒に飲みに行ったりするくらい、深い絆ができました」
遊びもせず練習し続けた努力は、記録としてきちんと表れた。
「そもそも記録は更新されるので、現在は抜かれてしまいましたが、当時は県の記録を持ってました。全国大会にも一応出場しました」
ただ、狙っていたのはあくまで全国大会 “優勝”。
県の記録や全国大会出場は、最高目標に到達するまでの通過点にすぎなかった。
05自認するFTMとして過ごせる居場所
FTMを知って、逆に絶望
17歳のとき、ドラマ『金八先生』を見て性同一性障害の存在を知る。
「僕もさらしを巻いて胸をつぶしたりしてたので、これだろうなって思いました」
自分がFTM(トランスジェンダー男性)であろうことを否定する気持ちは湧かなかった。
でも、モヤモヤの正体がFTMゆえのことだと知り、将来が明るくなるどころか、むしろ落胆した。
「目立つことをするとすぐに広まる鹿児島の地元では、治療なんてできない。もし両親に本当のことを言ったら、あまりのショックに死んでしまうんじゃないかと本気で思ってました・・・・・・」
一番優先したいことは、両親を傷つけないこと。
セクシュアリティに向き合いたくなくて、さらにスポーツに打ち込むようになる。
不安を一人で抱えきれなくて、流れでカミングアウト
スポーツで有名な大学に進学するため、地元を離れて愛知に上京する。
全国を目指し、引き続きやり投げ競技に取り組んでいるときだった。
「1年生の冬、ウェイトトレーニング中にじん帯を断裂しました」
「スポーツまでも自分の人生から奪うのか。神様なんていないんだ、って一番落ち込みましたね」
手術立ち会いのため、母が愛知まで来てくれた。
手術前日、母との食事中「なにがあっても、あんたは私の子だからね」と母が言葉をかけてくれた。
「本当に、何があっても私の子だって言ってくれる? って返してからは、何を言ったのか覚えてなくて・・・・・・」
自分のセクシュアリティのことを、泣きながら話した。
「陸上人生の不安と、セクシュアリティの不安とが膨らんで耐えきれなかったんだと思います」
「母親は黙って話を聞いたあとに、『いつかそう言うんじゃないかって思ってた・・・・・・』とだけ答えました」
自分のメンタルも限界ではあったが、手術前で不安なのは母も同じだったはず。
今にして思えば、カミングアウトするには、いいタイミングだったとは言えない。
自分らしくいられる場所と、嫌なヤツだった大学生活
大学生のとき、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が施行された。
親元を離れていたこともあり、自分らしく生きられるかもしれないと思い踏みきることにした。
「自分と同じ人を知りたいと思って、FTMのかたと知り合いになりました」
大学生活では、女子選手として活動しなければならず、しかも故障中で競技はできない。
一方、FTMとしての第二の居場所では、男性として振る舞える。
「大学では、男として認められたい欲求が強すぎて、メンバーに厳しく当たったり、付き合いが悪かったりと、かなり嫌なヤツだったと思います(苦笑)」
「あのときのメンバーには本当に申し訳なく思ってます」
女子選手だから、男子として生活することはできない。でも、まったくのクローズドというわけでもなかった。
「当時付き合ってた女の子と街を歩いてるところを、メンバーに見られてたので、内野って女の子と付き合ってるんだな、とは思われてたはずです。でも、特に何も言われませんでした」
今振り返ると、大学での自分は勝手に一人で苦しんで、周りに迷惑をかけていたと反省している。
<<<後編 2024/04/07/Sun>>>
INDEX
06 FTMとしての就活
07 男として働いてみたい
08 今でも考え続けているよ
09 LGBTQ当事者として一歩目は踏み出したけれど
10 自分にできることは何か