INTERVIEW
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私の居場所は恋人の隣だけじゃなくて、いろんなところにあった。【前編】

小柄でふんわりとした印象の福田莉那さんだが、ひとたびインタビューが始まると、見えてきたのは現実的な考え方と冷静で落ち着いた人柄。「居場所がなかった」と振り返る10代の記憶は、先の見えないトンネルのようだったが、恋人、友だち、そして母親の愛を知ることで、自分自身を受け入れられた。だから今は、1人でも前を向ける。

2019/03/24/Sun
Photo : Tomoki Suzuki Text : Ryosuke Aritake
福田 莉那 / Rina Fukuda

1996年、群馬県生まれ。3姉妹の次女として育ち、中学生の頃に初めて同性に恋心を抱く。県立高校を卒業した後、製菓の専門学校に進み、埼玉で一人暮らしを開始。2017年4月、菓子店「パティシエ エス コヤマ」に入社するため兵庫へ。現在はお菓子教室の部署長を務めながら、シェフのアシスタントを担当している。

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INDEX
01 “世界一” になるためのステップ
02 うまく人と馴染めない子ども
03 母への想いと抑えつけた感情
04 人との接点になるかもしれない夢
05 見つけられなかった自分の居場所
==================(後編)========================
06 少しだけ自分を肯定できた瞬間
07 再び動き始めた母と娘の時間
08 きらめき始めたレズビアンの生活
09 恋人の隣だけではなかった居場所
10 何も持っていない私だからできること

01 “世界一” になるためのステップ

トップシェフのアシスタント

2017年の春、慣れ親しんだ関東の地を離れ、兵庫の菓子店に就職した。

「もともとは関東で就職しようと思ってたんです」

「だけど、就活の途中で今の会社が求人を出して、そっちに飛び移りました」

高校生の頃に、パティシエとしての将来を思い描いた。

その頃から抱いている目標は、パティシエとして世界一になり、有名になること。

実際には、どのような実績があばれ “一番” になれるのか、当時は分からなかった。

「でもその頃、トップクラスのシェフの下で働くことが目標に近づけるって思ったんです」

世界的に活躍するシェフの店を受け、見事採用。
入社して間もなく、お菓子教室の部署に配属された。

「お菓子教室は、社長であるシェフのアシスタントを主な業務とした部署なので、技術や信頼度を上げて、いずれは私もメインアシスタントになりたい、って気持ちはありましたね」

2018年6月、シェフのアシスタントを務めていた先輩が退社。

「色々な事情で、突然私のところに、アシスタントの話が降ってきたんです」

入社2年目の自分を心配する声も上がっていた。

「でも、シェフが『福田にやらせたらええねん」と、アシスタントに指名してくれた、ってあとになって退職した先輩に聞きました』

「今は、試作の手伝いをしたり、デモンストレーションの助手として海外についていったりしています」

母の教えと今の自分

2018年5月、店の研修旅行でスペインへ。

そこで、シェフのデモンストレーションのアシスタントを任された。

「デモを観る方は、現地のパティシエや製菓学校の生徒でした」

「玉露のシフォンケーキを作る工程が、スペインの国営放送でも流されたんです」

「これまでで一番大きな仕事で、すごく印象に残ってますね」

同年7月には、上海でのデモンストレーションに帯同。

「シェフの考えやお菓子の理論、味の構成を直接学ぶことができて、面白いです」

後輩も入り、お菓子教室の部署長も任されている。

「後輩の指導では、『はじめは技術や知識がなくて、何もできなくていいけど、周りにいる人を大事にしなさい』って、伝えてます」

その教えは、母に言われ続けてきたことだと気づいた。

小学生の頃、母に好成績の通知表を見せると、こう言われた。

「どんなに成績が良くても、道徳の欄に “○” がつかないとダメ」

勉強以上に、挨拶や礼儀、周囲と接し方を重視する人だった。

「母と私はすごく似てるな、って思います」

「でも、昔は厳しい母が怖かったから、気を使っていましたね」

目標に向かって歩けるようになったのは、つい最近のこと。

10代の自分は、家でも学校でも居場所を見つけられなかった。

02うまく人と馴染めない子ども

叱られがちな次女

群馬生まれ、群馬育ち。

伊香保温泉の近く、自然豊かな村で、高校生までの時間を過ごした。

「すごい田舎で、周りはコンニャクイモ畑が広がっているようなところです」

「私は3姉妹の真ん中で、姉も妹も2歳ずつ離れてます」

「ちっちゃい頃は、そんなに仲良くなかったですね(苦笑)」

3人それぞれに性格も好みも違い、交わるところがなかった。

「だから、ケンカばっかりでした。うるさかったですよ(笑)。ケンカすると、私だけ母に叱られることが多かったんです」

「自分が悪いことをしてるせいなんですけど、なんで私だけ・・・・・・って思ってましたね」

一方で、父は次女である自分を、特別かわいがってくれた。

「いくら父にかわいがってもらっても、子どもって母親が好きじゃないですか」

「それでも母は厳しくて、子どもの頃は姉と妹ばかり懐いているように見えて、複雑でしたね」

おままごとより虫捕り

「その影響かわからないですけど、すごく卑屈な子どもでしたね(苦笑)」

「表向きは毅然としてるけど、まったく自信がなかったです」

自信が持てなかった理由は、いまだによくわからない。

「小学生の時からなんとなく人と馴染まない子どもだったんですけど、それも関係してるのかも」

友だちと呼べる存在はいた。

クラスの中心的なグループに所属していた。

「だけど、自分ではそんなに仲がいいとは思ってなくて、学校で話すだけの人って感覚でしたね」

「馴染めなかったのは、私があんまり女の子っぽくなかったからかもしれないです」

常に男の子と一緒にいるわけではなかったが、女の子の遊びはほとんどしなかった。

「おままごとより、虫捕りをしてることの方が多かったです」

「女の子の間でシール集めが流行したんですけど、私はしなかったですね」

同じ遊びで盛り上がれない同級生の女の子たちとは、どこか距離があるように感じていた。

03母への想いと抑えつけた感情

子ども扱いしない母親

幼い頃、母に対して抱いたイメージは「厳しい人」。
スーパーに行っても、お菓子やおもちゃを買ってくれなかった。

「子どもが欲しがるものなんて大した値段じゃないけど、買ってくれませんでした」

「習い事をしたい」と言っても、簡単には認めてくれなかった。

「私の時代って、親の考えで、子どもを塾に通わせる家庭が多かったんですよ」

「でも、母には『責任持って最後までやれるの?』って、聞かれました」

「やってみて『やっぱり違ったから辞める』はなしだからね」と言われ、子どもながらに怯んだ。

「当時は厳しい母が怖かったから、結局何も習わなかったです(苦笑)」

母は子どもを縛りつけなかった分、子ども扱いせず各自に責任感を持たせる人だった。

自分で切り拓く人生

母が、子どもを大人と対等に扱うのは、育った環境に関係があるように感じる。

「幼い頃の母は貧乏暮らしだったみたいで、学費を自分で工面していたらしいんです」

「中卒で看護学校に通いながら、通信制の高校を卒業したって聞きました」

母は、人生を自分の手で切り拓いてきた人。

「周りの人に支えてもらってここまで来たって意識があるから、母は強いんだと思います」

「放任主義な人ですけど、自信があるからそう振る舞えるんだろうなって」

母とは、中学から専門学校にかけての7年間、ほとんど口を利かなかった。

「私がセクシュアリティで悩んだ時期と、両親が仲悪くなった時期が重なってしまったんです」

「お互いに接し方がわからなくて、必要最低限の言葉しか交わさなかったですね」

思い浮かばない好きなもの

幼い頃、母に抱いていた恐怖の感情は、他の感情にも影響していた。

「親に気を使っていたせいもあって、感情を表に出せなかったんです」

母の逆鱗に触れることを恐れたが、それでも母のことが好きだった。
だから、心配をかけるようなことはしたくなかった。

「感情を抑えて、人と距離を置くことが、自分なりの対応策だったのかもしれません」

「感情を出さないでいると、自分の好きなものもわからなくなるんですよね」

学生の頃に熱中したものや没頭した趣味は、なかったように思う。

「今でも『好きなアーティストは?』とか聞かれると、困るんですよね(苦笑)」

04人との接点になるかもしれない夢

公務員になる未来

両親はともに公務員だった。

「公務員の家って独特で、 “公務員こそ正義” みたいな考え方をするんですよ」

「だから、私も公務員になるものだと思ってました」

「なりたいんじゃなくて、そっちの道に進むんだろうな、って感じでしたね」

特に父は公務員の評価が高く、さらに「勉強こそ命」という人。
その考えに疑問を持つことはなく、自分も勉強に勤しんだ。

しかし、中学に上がった頃から、違和感を抱くようになる。

「小学校高学年から両親の仲が悪くなっていって、中学の時が一番荒れていたんです」

「家庭がうまくいかなくなると、仕事もうまくいかなかったんでしょうね」

「仕事は嫌だけど、お金は必要だし」と、仕方なく働きに出る両親の姿を見るようになった。

「1日8時間、生活の1/3を、お金のためだけに使うのは嫌だな、って思ったんです」

「両親のような働き方はできない、って思っちゃって、公務員の道に進むか迷い始めました」

別の道としてピンと来たのは、唯一熱中できたお菓子作り。

ギャンブルかもしれない道

小学校3年生の頃から、両親の帰りが遅くなり、自分が家族の食事を作る機会が増えた。

「その経験で、料理を覚えたんです」

小学5年生の頃、叔母がお菓子作りの本を、大量に持ってきてくれたことがある。

「引っ越しか何かで荷物をまとめてて、譲ってくれたんだと思います。その本を読んでいて、作ってみたいと思ったんですよね」

「当時、我が家ではおやつを食べたり、日常的にジュースを飲むような習慣が、ほとんどなかったんです」

「それが普通なんだと思ってました」

だから、なぜお菓子に魅かれたのか、その理由は定かではない。

「初めて作ったお菓子は、プリンでした」

「ちゃんと卵と牛乳を混ぜて、蒸し器で仕上げたんです」

「母は甘いものをあまり食べないんですけど、気を使って食べてくれました(笑)」

お菓子作りが楽しくなり、作った分は学校に持っていき、友だちに配った。

「お菓子だけが、人とつながれる手段でしたね」

このコミュニケーションツールを仕事にすれば、社会から孤立しないで済むと思った。

「公務員を考え直した中学生の頃から、パティシエという目標は見えていました」

しかし、親が言うように公務員以外の道はギャンブルなのではないか、という不安がよぎった。

自分の中でもパティシエに対して、踏ん切りがつかない時期は長く続く。

「親に『パティシエになる』って話せたのは、高校2年生ぐらいでしたね」

05見つけられなかった自分の居場所

隠しきれなかった恋心

小学5年生の時、1歳上の先輩が気になった。

「女の子の先輩だったんですけど、今思えば初恋だったんだろうな。やたら気になったんですよね」

「他に仲のいい先輩がいたんですけど、その人から気になる先輩の話を聞けるのが、うれしかったんです」

しかし、当時は恋愛対象として意識していたわけではない。

「ちゃんと好きな子ができたのは、中学1年生の時ですね」

女の子に恋心を抱き、その気持ちは隠せていなかったと思う。

「オープンにしたいわけじゃないけど、我慢もしきれないみたいな感じでしたね」

「その頃は親とうまくいっていないから家に居場所がなくて、好きな子のそばにいたかったんです」

聞きたくなかったウワサ話

いつしか「福田は女の子が好きらしい」というウワサが立った。

「普段仲良くしてる子も、裏でコソコソ話してるのを、見たり聞いたりするようになったんです」

「面白半分で、放課後に尾行されたこともありました」

人間不信に陥り、学校にも居場所がないと感じるようになっていく。

同じ頃、社会の授業で憲法を学び、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」という一文が出てきた。

「そこで、社会の先生が私に話を振ってきたんですよ」

「『福田が女の子と結婚したいと思ったら、この憲法をどうにかしないといけないんだな』って・・・・・・」

衝撃的すぎるひと言だった。

「ウワサは学校中に回っていたから、先生も聞いていたのかもしれないです」

「意図的かどうかはわからないですけど、周りもざわつくから、何も言えなかったです」

誰にも言えない気持ち

女の子に恋愛感情を抱くことには、抵抗があった。

「自己否定の気持ちも強かったし、自分を認められなかったです」

「好きになった相手がたまたま女の子だっただけで、いずれは男の子を好きになる、って思ってました」

インターネットで同性愛について調べ、「レズビアン」という言葉を知る。

「田舎だったし、少数派でいることが怖かったですね」

地元でウワサが立てば、町内のすべての人の耳に入る可能性が高いことは知っていた。

「父の影響で、世間体を気にする子どもでもあったので、誰にも相談できなかったです」

相談しようにも、仲の悪い両親にも、ウワサ話をしている友だちにも言えるわけがなかった。

「どこにも居場所がなくて、孤独でしたね・・・・・・」

 

<<<後編 2019/03/26/Tue>>>
INDEX

06 少しだけ自分を肯定できた瞬間
07 再び動き始めた母と娘の時間
08 きらめき始めたレズビアンの生活
09 恋人の隣だけではなかった居場所
10 何も持っていない私だからできること

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