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Writer/きのコ

「クワロマンティック」とは何か? 恋愛感情と友情を区別しない②

前回の記事では、恋愛感情と友情を区別しないクワロマンティックというあり方を紹介した。この記事では「現代思想」2021年9月号「特集=〈恋愛〉の現在――変わりゆく親密さのかたち(http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3597)」に中村香住が寄稿している「クワロマンティック宣言 『恋愛的魅力』は意味をなさない!」を参照しながら、他人に対する感情の個別性や、”好意” とはそもそも何かということについて考えていきたい。

クワロマンティックにみる、名付けない個別の関係性

恋愛感情や友情というより、好意は個別のもの

クワロマンティックとしての私の場合、同じ相手に対して「恋愛感情期」と「友情期」の間を揺れ動くような感情の変化を感じることが多い。さらに厳密に言うならば、個々人に対する ”好意” は相手によって1人ずつ異なるし、同じ人間に対する好意もその時々によって異なるものだといえよう。

他人に対して感じる魅力が恋愛的なものばかりとは限らないというのは、「クワロマンティック宣言 『恋愛的魅力』は意味をなさない!」の中でも述べられている。

この世の中には、人に関するさまざまな「魅力」があると言われている。
性的な魅力や恋愛的な魅力の他にも、たとえば、「美的、感覚的、知的、様々な
感情的な魅力」( Decker 2014゠ 2019: 46)などがあるとされる。
どのタイプの魅力であれ、もしくはどのタイプの魅力かを
カテゴライズできない/したくないと感じた場合であれ、魅力を感じた相手とは
親密になりたいと願うことが多く、実際に親密になることもある。
そして、そうした相手との関係性を簡単に分類することは難しい。

誰かを恋愛的な文脈で好きだという場合にすら、「その人のどこが好き?」と訊かれれば、「表情の豊かさ」「知的なところ」「容姿の美しさ」などさまざまな答えがあり得るだろう。細かくいうなら、それらは全て異なる個別の ”好意” のあり方なのではないだろうか。

クワロマンティックにおける、関係性を名付けないことによる不安

中村は、クワロマンティックな親密な関係性における相手への「自己投入(コミットメント)」の重要性について、以下のように述べている。

私はこの「自己投入」およびそれに基づく「信頼」は、
クワロマンティック的実践を行う上ではさらに重要だと感じている。
なぜなら、クワロマンティック的実践を行う上では、
「恋人」「友達」などの人間関係のカテゴリー的枠組みすらも消失するからだ。
(略)
相手と自分の関係性をカテゴリー名によって
規定できない/しないということは、
関係性を続けていくための外在的な力がほとんど
まったくないということである。

私としては、「外在的な力がないからこそ自由でもあり、不安でもある」と感じる。「外在的な力」は、もし自分と相手とが世界に2人ぼっちだったなら発生しないし、必要でもない力だ。

世界に「あなたと私」しかいなかったなら、その2人の間の感情が恋愛感情か友情か、2人の関係が恋人か友人かをカテゴライズすることは意味をなさない。むしろ、「恋人だから」「友人だから」どうしなければいけないとか、どうしてはいけないとかいうような外圧は、「あなたと私」という個別の関係の本質を見えづらくしてしまうものであると思う。

ただ中村も言うように、この「あなたと私」という特別な関係を第三者からも重要なものとして取り扱われたいと願う時、この外在的な力のなさは大きな不安をもたらすだろう。

「どういうご関係ですか?」と問われた時に、「恋人」とか「友人」とかいったような分かりやすい名付けを使えないことで、その関係性の重要性を認識してもらえなかったり、必要な配慮を得られなかったりする恐れもある。

だからこそ、「恋人」とか「友人」という名付けで外から規定できない関係性を独自に築こうとするには、コミットメントという決意が大切になるということだ。

「重要な他者」へのコミットメント

クワロマンティックにおける「重要な他者」へのコミットメント

中村は、自分が「自己投入(コミットメント)」する相手のことを便宜上「重要な他者」と名付け、以下のように説明している。

私にとっての「重要な他者」は、その人のことを、とくにその人がどうしたら少しでも
生きやすくなるかを毎日無意識のうちに考えているような相手だ。
これは、相手も私に同じことをしている/してほしいということを意味しない。
ただ単に私が自分の自我によって、その人のことを日々気にかけずにはいられない。
そんな相手のことである。
前節を踏まえて言い換えれば、私がとくに意識的に
「自己投入」することを決めた相手のことである。

(略)
結局のところ、私にとってのクワロマンティック実践は、信仰や祈りに近い。
その人がなるべくいつも心身ともに安寧で穏やかな生活を送れていますようにと、
遠くから毎日祈り続けるような感じだ。
その祈りが届いているのかはわからない。
そもそも届いていなくてもいいと思って祈っているところはある。

私にも「重要な他者」達がいる。私がその人達に感じる「好意」は祈りというよりは、もう少し返報性を求める働きかけといえる。それに私の想定する「重要な他者」にはもっと幅があって、既存の恋人や友人、セックスフレンドやビジネスパートナーといった概念まで含むようなものだ。

ある人とは泣き言や愚痴を言い合える関係でいたいし、ある人とは一緒に仕事をしていきたい。ある人とはプラトニックな恋愛がしたいし、ある人とは継続的にセックスがしたい。

どの人に対しても、必ずしも「恋人」になりたいとか「友人」でいたいとかいう、関係性の名付けに対する指向性を私がもっているわけではない。むしろ、相手の要望に応じて、場合によっては恋人や友人のような分かりやすい名付けを使用してもいいし、しなくてもいいと思っている。

「恋人だからこう」「友人だからこう」などとこだわる必要はあまりなくて、相手と私の関係をどう名付けるかよりも、相手と私がどういう関係でいたいかの方が重要だしより本質的だろう。

「ツレ」という名付け

関係性の名付けにおいては、私の恋人の1人がよく使う「ツレ」という表現が気に入っている。「ツレ」には恋人も友人も含まれるし、初対面の人を「ツレ」と呼んでもいいし、それこそ長年連れ添った配偶者を「ツレ」と呼んでもいい。そういう、どう使ってもいいしどう捉えてもいいような曖昧さが心地よい。

そんな風に、恋人か友人か、恋愛感情か友情かというカテゴリーに縛られることなく、もっと自由にいろんな人を好きでいたいと思っている。

あなたにとっての「重要な他者」とは、あなたにとっての「好意」とは、一体どのようなものだろうか。

 

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