先日、京都府亀岡市は「性的」という言葉が性犯罪を連想するなどの理由で、差別的語感があるとし「性的マイノリティ(性的少数者)」を行政として今後使用しない方針を決定した。これにより、ネット上では多くの性的マイノリティが批判の声を上げている。LGBTQ当事者として、本当に性犯罪を連想させる言葉であるのか考えた。
亀岡市「性的マイノリティ」という言葉の削除
LGBTQカップルをパートナーとして公認する「パートナーシップ宣誓制度」を2021年から導入予定の京都府亀岡市。第五次総合計画の「基本計画案」でも使用されていた「性的マイノリティ」を「多種多様な人たち」という表現に変更する修正案を提出した。それにともない、直に施行されるパートナーシップ宣誓制度に関する要綱の文言の大幅な変更が予測される。
「性的マイノリティ」と「LGBT」
まず、ここで問題提起されている「性的マイノリティ」の意味について考えていきたい。Weblio辞典によると「マイノリティ」とは少数派を意味し「マジョリティ(多数派)」に対しての言葉である。性的マイノリティは、一般的に生まれた時のからだの性と性自認が一致している人や異性愛者以外の人を総称し、「LGBT」もまた同趣旨な言葉として使われることが多い。
では、性的マイノリティとはLGBTと同じなのか。個人的にはNOだと考える。LGBTは、L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシュアル、T=トランスジェンダーの略であるが、使い方は人によって異なるように感じる。LGBT含むさまざまな性的マイノリティをLGBTと使う人もいれば、LGBT以外のセクシュアリティは含まないと認識する人もいる。
withnewsの記事では「LGBT=性的マイノリティ」とすることで、LGBT以外の当事者を排除してしまう可能性があるという問題点があげられていた。この問題点を踏まえると、性的マイノリティという言葉は、さまざまな性のあり方を表現できるインクルーシブで便利な言葉であるように感じる。
亀岡市がいう「多種多様な人たち」
亀岡市では修正案として、既に「性的マイノリティの人権と個性が尊重され」から「多種多様な人たちの人権と個性が尊重され」への変更が可決されている。私は「性的マイノリティ」の文言が消去され、代わりに「多種多様な人たち」と呼ぶことについて違和感を感じる。確かに、性的マイノリティはさまざまな性のあり方を持つ人たちのことを指すため、多種多様と言えるかもしれない。しかし、性的マイノリティだけに多種多様という言葉を向けることについて再考すべきだと思う。
計画案にも記載された「性的マイノリティを尊重する」という考えは「性的マイノリティの人権や個性が、マジョリティと同じように尊重されるべきだ」という「平等」の意味を持つはずだ。だとすれば「異性愛者含めた全ての性のあり方が、多種多様である」という文脈の方がしっくりくる。
多種多様な人たちをマイノリティのみに限定することで「異性愛=社会の中心、性的マイノリティ=その他」と上下構造を生む可能性がある。マイノリティの存在が明白に認識されつつも、人がもつ性のあり方はそもそもみな異なり、異性愛者含めた全ての人が「性の当事者」として認識される社会が望ましい。
性犯罪を連想させる語感
「性的という言葉が日本では性犯罪を連想させる」。これを理由とし、亀岡市は性的マイノリティの用語を一掃することを発表。性的マイノリティ当事者である私は、セクシュアルマイノリティの略語「セクマイ」や「性的マイノリティ」といった言葉を普段から使っているため、性犯罪を連想させるという指摘に驚きを隠せなかった。ここでは「性的」という言葉の概念と、そこから派生する問題や課題について述べる。
「性的」とは
日本国語辞典によると、性的とは「性または性欲に関するさま」となっている。確かに「性」という言葉の概念は幅広く、文脈や使い方によってはニュアンスが異なる。しかし「性的マイノリティ」とは、性別・性的指向・性自認などを意味する「性」であり、人の性欲を刺激する表現ではない。
先述した、性の広義性が問題を生んだ可能性がある。ただ、エロティックな「性」から人の生まれ持つ性質的な「性」を混合して述べることの見直しは行われるべきだと思う。「性的マイノリティ」「性的指向」「性的魅力」など、必ずしも「性的」を含む用語がすべて同じニュアンスや意味合いで使われるとは限らないのだ。
「性犯罪を連想」の背景
では、なぜ「性的マイノリティ」の単語が性犯罪を連想させるという認識が起こるのだろうか。先述したとおり、行政が言葉の本質を理解できていないことも原因であるが、私が思うもう一つの理由は、日本の教育システムだ。性教育が明らかに不十分なのである。
私は学生時代、性について大っぴらに語ってはいけないと思っていた。男女別で行われる保健の授業では、女子教室の黒板に書かれた生理に関する内容を、男子生徒が来る前に急いで消すようにと先生から言われたこともある。その頃から、性は秘めておくべきものだと認識していたのかもしれない。
このような教育環境で育てば、性について公で語る機会が失われるのも当然。また「性=セックス(性行為)」と思う人も多いのではないか。そのため「セックス=恥ずかしい行為」と認識してしまうことにより、今回のような誤認識が生まれ、結果的に文言自体を抹消してしまう事態が起こると思えてならない。
しかし、性とはセックス以外にも、心身の成長や発達、妊娠・出産や避妊、性行為の同意の取り方や断り方、性的指向、性別についてなど、人間の命や尊厳に関わることがたくさん含まれている。さまざまな性について学ぶ場として、学校での性教育を展開すべきである。
今回の問題点
京都府亀岡市の発表を受けて、SNS上では様々な批判の声があがっている。その中でも、性的マイノリティが性犯罪を連想させる単語であるという認識の誤り。そして誤った認識により、用語を一掃させてしまうことへの指摘が目立つ。方針決定に至るまで、問題視する人はいなかったのだろうか。今回のニュースはさまざまな問題点を浮き彫りにした。そして方針が可決されてしまった今、社会は性的マイノリティの存在をどのように捉えるだろうか。
シスヘテ特権者による決断
パートナーシップ制度が施行されるなど、昔に比べると性的マイノリティは受け入れられてきているのかもしれない。しかし、いまだに無知による差別や偏見の声は多く見受けられる。2020年9月の東京都足立区議会本会議では、白石議員が「L(レズビアン)やG(ゲイ)だって法律で守られているというような話になっては、足立区は滅んでしまう」などと発言し、大きな問題となった。
亀岡市の「性的という言葉が犯罪を連想させる」発言を、委員会は問題視することなく容認してしまったことも残念である。社会を決める特権的な立場にいる人から、このような言葉が出てきてしまう時代なのだ。
指摘した市議会は、当事者の声を聞いていたのだろうか。実際、ニュースを見て多くの性的マイノリティが反対の声を上げているということは、行政が当事者の声を十分に聞かずに可決した可能性が考えられる。非当事者であるシスヘテの特権者が、十分な理解なしに「多様性」というムーブメントに乗っかって方針を出したのであれば、恐るべき事実だ。
性的マイノリティの不可視化
性的マイノリティにとって非抑圧的な社会を願うなら「不可視化」が解決されなければならない。渋谷区のパートナーシップ証明について、区長は2015年の渋谷区議会で「証明自体が性的少数者の存在を可視化し、区民や事業者の意識改革の契機となる」と述べた。同様に「性的マイノリティ」という言葉をあえて使うことは、現代社会で当事者の存在を示す可視化の働きを持つ。
亀岡市の方針は、可視化を促す渋谷区議長の発言とは真逆であるように感じる。亀岡市のパートナーシップ宣誓制度に向けて行われた意見交換会では、LGBTという言葉が属性を強調するため「マーブル」「レインボー」「セクシュアルフリー」と表現する案が出された。
パートナーシップ宣誓制度の導入に関して、一見すると個々の性のあり方を尊重しているようだが、LGBTや性的マイノリティの言葉を一掃することで、当事者の存在自体をなかったことにしてしまう。差別をなくすための制度なのに、性的マイノリティを不可視化することは、現状の問題を見過ごすことと同じではないだろうか。可視化していくためにも「性的マイノリティ」や「LGBT」はむしろ使うべき言葉だと私は思う。
平等な社会に向けて
問題を直視せず覆い隠すことで、性的マイノリティ=隠すべき存在としての認識、差別や偏見を生成するサイクルが生まれる。誤認識から派生する解決策は危険である。差別を解消するために、まず認識を正すことから始めるべきだ。そして当事者の意見にも耳を傾けて欲しい。
段階を踏んで考える
差別することが悪だと分かっていても、不適切なアプローチ方法を取れば解決されない。性的マイノリティに対する差別を考える余地があるのなら、その人たちが抑圧されない社会を作るのが行政の仕事である。
性的マイノリティはマジョリティと同じように結婚ができない現状で、特権者が「みんなが同じ人間であり、LGBTや性的マイノリティは差別的語感があるから使うのをやめよう」と発言することは、本当に差別をなくすことにつながるのか。
これはすべての人が100%平等に尊重され、差別がなくなった段階で発する言葉だと思う。当事者がカミングアウトしづらい世の中で、「性的マイノリティ」の言葉を消し去ろうとすれば、さらに公に存在を示すことが難しくなる。現状を理解した上での解決策が必要だ。
アライになること
アライ(支援者・応援者)になることは、単に「性的マイノリティをサポートしています」と言うことではない。様々な価値観を受け入れ、理解することが根底にある。例えば、ゲイの友達をサポートしていると言っていても「ホモ」と差別的発言をすれば相手を不快にさせる。逆に「ホモ」ではなく「ゲイ」、「レズ」ではなく「レズビアン」と発言するだけでアライとしての行動になる。
個々の性のあり方を受け入れることを表明するだけでなく、その後どのような態度や行動をとっていくのかが重要だ。今回の性的マイノリティの用語の取り消しについては、「性的マイノリティ」という言葉の正しい認識がされないことが大きな原因であるように感じる。またこの問題は、亀岡市だけでなく国内での「性的マイノリティ」の言葉の捉え方を大きく左右するだろう。誤った認識による修正案を承諾することが本当に意味あることなのか、再思考するべきではないだろうか。