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Writer/Jitian

足立区議の差別発言から考える。LGBTQは必ず身近にいる

先日、東京都足立区議会で、某議員がLGBTQ当事者への差別発言をし、全国的なニュースになりました。これは皆さんも記憶に新しいと思います。今回は、足立区議の発言と私の実体験を通して「LGBTQ当事者に会ったことがない」と言う人たちについて考えます。

足立区議の「LGBTQ当事者に会ったことがない」発言

足立区議の発言は有り得ない

足立区議の発言内容は、LGBTQ当事者だけでなく、子どもを産まない、育てない人たちなど様々な人の人権を踏みにじるものでした。そんな議員が、区民や国民に「子どもを産み、育てる大切さを伝えたい」という意図の中で、LGBTQをやり玉にあげた理由の一つが、議員本人が今までLGBTQ当事者に会ったことがないと考えていることだと、私は思っています。

残念ながら「当事者に会ったことがない」という発言をした議員は、足立区議が初めてではありません。今までも、同性パートナーシップ制度を導入するという話が持ち上がった市町村で同じような発言が聞かれたことがあります。

足立区議はその後、批判や追及を受けてもしばらく発言撤回や謝罪を否定していましたが、数日後に結局撤回と謝罪をする運びとなりました。

LGBTQは自分の周りにいる

まず、はっきり言って「LGBTQ当事者に会ったことがない」ということは有り得ません。
これは、学校や仕事などで社会的に生きている人なら誰でも「絶対に有り得ない」と言い切って間違いないでしょう。

ある統計調査では、LGBTQ当事者の割合は左利きと同じくらいで、10人に一人とも言われています。「左利きの人に会ったことがない」と言っている人がいたら、何をおかしなことを言っているのかと、誰もが思うのではないでしょうか。

ただ、左利きの人は食事や仕事のときに左手を使っていることで認知できます。しかし、LGBTQ当事者の大半はセクシュアリティをオープンにしません。しかも、否定されたり馬鹿にされたりすることを懸念してシスヘテに話を合わせることも多いので、なかなか気付きづらいです。
すなわち、気付いていないだけで、今までの知人、友人のなかに当事者がいるということです。

今まで私が体験した「LGBTQ当事者がいない」状況

自分の周りにLGBTQ当事者がいないと思っている人は少なくないと、実体験を通しても感じています。この章では、今まで私が当事者と思われていないが故に起こった過去の出来事を振り返ります。当事者ならきっと誰しも1回は似た経験をお持ちではないかと思うので、皆さんも過去を振り返りながら読んでください。

「男だったら好きだったのに」

これは、高校生のとき、当時好きだった同級生の友人(女性)に言われた一言です。また、実はこの台詞を言われたのは一回だけでなく、大学生のときにも同じサークルに所属する女性の友人(この人のことも当時好きでした)にも言われました。

これを言われたときは「やっぱり相手が男じゃなきゃ恋愛対象として見てくれないのか」と、ショックでした。だからと言って男性になりたいとは思いませんでしたが、自分がシスジェンダーの男性に生まれていたら、どうなっていたのだろうと考えてしまいました。
これは、自分がLGBTQ当事者としてショックを受けたというより、甘酸っぱくてしょっぱい思い出という側面が大きいです。

しかし、いずれにしろ当事者でないとこういった気持ちにはなりませんし、記憶にも残らなかったと思うので、取り上げさせてもらいました。これで高校生、大学生のときの切なかった自分も成仏できると思います。南無南無。

「生理的に同性愛が無理。気持ち悪い」

これは、大学生のとき、ときどき行動を共にしていた同級生が口にした一言です。

文脈としては、一緒にいた同級生がBL好きで、その人がBLを語っていたときにこの発言を聞きました。しかも一回だけでなく、何回も聞きました。

その人は、実際のものでも、フィクションでも、同性愛が受け付けないそうです。「そういう生き方をする人を真っ向から否定する気はないけど、例えば手をつなぐといったスキンシップは気持ち悪くて見たくないから、家など人目のつかないところでやってほしい」とも言っていました。

BLが好きだという人の前で発言する勇気もなかなかですが、まさかもう一人がパンセクシュアル当事者とも思わなかったのでしょうね・・・・・・。

ちなみに、私はわざわざそう言う人にセクシュアリティをカミングアウトする勇気はありませんでした。また、その人にカミングアウトすると、サークルなど別のコミュニティでアウティングする可能性があったので、特に何も言わず毎回受け流しました。ですが、当時「へえ、そうなんだ。まあ私、ざっくり言えばバイセクシュアルだけど」と言っていたらどういう空気になったのだろうか、ということは非常に気になります(笑)。

人権として内面の自由(心の中ではどう思ったり何を想像したりしようが、その人の勝手)というものが保証されていますので、同性愛が苦手だというその感覚自体を否定するつもりはありません。感覚そのものはどうしようもありませんし、私にも似たようなものはあります。

ですが、あるマイノリティを否定する発言をするとき、実は周りにLGBTQ当事者や当事者に近い存在がいるかもしれない、ということを常に頭の片隅に置いておきたいと、このとき強く思いました。

「お前、これじゃないよな」

これは、NHK Eテレ「ハートネットTV」のセクシュアルマイノリティ特集が、なぜか実家のリビングのテレビで流れていたときに、父親から言われた一言です。深刻なトーンではなく、画面を指さしながら、冗談のように私に質問を投げかけてきたのです。

いや、私それなんですが・・・・・・(笑)。
とも言えず、「ああ」などとあいまいな返事をしました。

そのほかにも記憶に残っているもの、いないもの、今まで家族から色々なことを言われてきましたが、これが一番ショックでした。当時も家族や親戚にカミングアウトしようとはまったく考えていませんでしたが、このとき決定的に「父親には一生カミングアウトしない」と決めました。

こういう考えを親に対して抱くのは悲しいですが、LGBTQを変なもの扱いして笑いの対象とする考え方で半世紀ほど生きてきた人に、今更考えを変えてもらうのは厳しいと思うからです。

前述の足立区議会議員も、発言撤回・謝罪前に、ある取材で子どもや孫が当事者だった場合どうするのかと問われて「悲しいと思うような人生を選んだんだからしょうがない」と答えていました。

セクシュアリティは好んで選ぶものではないのに、LGBTQ当事者はあえて自ら悲惨な人生を進んでいるという考え方をもっている人に、当事者がカミングアウトするのは非常に難しいでしょう。

 LGBTQ当事者がいるという想像力

LGBTQを差別する発言をする際に、なぜ接する相手が当事者だと気付かないのか、またなぜ今まで当事者に会ったことがないと思い込めるのか、その原因や抑止力について考えます。

マイノリティを踏んでいることにすら気付いていない

前章の3つの発言に当てはまること、それはマジョリティが「マイノリティだと気付かずに踏んでいる」ことだと思います。

例えば・・・・・・
一つ目の「男だったら好きだったのに」という発言の裏には、みんな異性愛であるという前提が隠れています。

二つ目の「同性愛が気持ち悪い」という発言、特に同性愛者は異性愛者と同じように振る舞ってほしくないという考えは、同性愛者には異性愛者と同じ人権はないと考えているに等しいです。

三つ目の、相手がシスヘテ前提でのLGBTQ当事者を揶揄した質問は、その場にいる人が全員シスヘテで、かつLGBTQ当事者を下に見ていないと「冗談」として成立しません。

こういった発言をしないための抑止力は、二つあると考えています。当事者がその場にいる、ということを知っているかということ。そして、当事者が自分の周りにいるかもしれないという想像力をもつことです。

差別発言の抑止力

当事者がその場にいるかどうかということは、当事者からカミングアウトされないと分からないので、発言者本人がどうこうできることではありません(アウティングで間接的に知るという場合も考えられますが、いずれにしろ誰かから教えてもらわないと分かりません)。

そして、当事者が自分の周りにいるかもしれないという想像力をもてるかどうかは、個人的には結局、身近に当事者がいることを知っているかどうかにかかっていると思います。

LGBTQ当事者自身でも、自分の身の回りにいないと考えている人は少なくありませんが、LGBTQそのものがこの世に存在しないと思っている人は、ほとんどいないでしょう。ですが、自分の知っている範囲に当事者がいない(と思い込む)と、つい「別世界の話」と思いがちです。

では、自分の家族や親戚、友人、同僚に当事者がいるとしたら、どうでしょうか。やっぱり、身近にいるといないとでは、想像力の働き方が大きく変わってくると思うのです。

カミングアウトは日々のコミュニケーションが土台に

LGBTQ当事者を認知できるかどうかは、すでに述べた通り、当事者からのカミングアウトに至る前までのコミュニケーションにかかっています。しかし、ここが難しいところ。では、どのような人がカミングアウトされづらいのでしょうか。

信頼がない

セクシュアリティを完全にオープンにしている人は一部で、カミングアウトは多くの当事者からすれば、かなり勇気の要ることと思います。

まず、相手から否定されれば傷つきます。受け入れられたとしても、その後の関係性が変わってしまう不安も生まれます。また、アウティングにもつながりかねません(実際、知人がアウティングされているのを知ってしまったこともあります)。

どちらにしても、カミングアウトする相手とはかなり深い関係性でないと難しいですし、信頼している人にしかできないと思います(その場だけの閉じた関係だからセクシュアリティを伝えるということもありますが、個人的にはそれは「カミングアウト」とは言わないと考えています)。

つまり、関係が浅かったり、受け入れてもらえそうにない発言を繰り返していたり、普段から口が軽い人は信頼に足らないので、そういった人にはカミングアウトしようとは考えづらいです。

理解してほしいとすら思われていない

しかし、受け入れられない可能性が高いと分かっていても、カミングアウトする場合もあります。

理解してもらえなくて絶縁状態になるかもしれない。
頭が固いから受け入れてもらえる可能性は低いだろう。

このような不安より、それでも伝えたい、理解してもらいたいという期待の方が勝るからカミングアウトすることもあるということです。このようなことは、相手が好きな人や家族の場合に多いのではないでしょうか。

逆を言えば、例えば私のように家族であっても「否定されるかもしれないけど、伝えたい」という思いが湧かなければ、カミングアウトしようとは思わないのです。

■カミングアウトしてもらえる人になれるように

今回はLGBTQ当事者がいないと考えるその人の心理や原因について考えてみました。

しかし、散々偉そうなことを言ってきましたが、この問題はそっくりそのまま自分自身にも当てはまります。例えば「この人、結構歳いってるのにパートナーいないのか?」とつい考えてしまいがちですが「いやもしかしたら同性愛者かも」ということは、よくあります(同性愛者でも、異性愛者でも、アセクシュアルでも、パートナーがいないのは個人の自由なのですが)。

もしかしたら、普段の私自身の発言などから「この人には言いたくない」と思われていることがあるかもしれません。いや、むしろそう考えるのが自然でしょう。普段隠していることを明かすことが、関係性を深めるために絶対に必要とは思いませんが、明かされない理由が信頼されていないことだとすれば、非常に残念です。

今回のような出来事が起こるたびに、我が身を振り返るようにしたいものです。

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