INTERVIEW
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父親として、生涯のパートナーとして、家族を守りながら、女性として生きていく。【前編】

「着付け教室のグループレッスンで、『元男性と一緒なのは抵抗があります』と言うてきはった生徒さんがひとりいたそうです。そこで先生が私に提案したのはプライベートレッスン。結果として、私も、その生徒さんも、お稽古を続けることができました。LGBTに関する問題はね、おそらく多数決では決められないと思うんです」。自身の経験を社会問題に置き換えて、一つひとつ分析していくように語る今西千尋さん。57歳のいま、ときに苦しみながらも家族とともに歩んできた道を振り返る。

2023/11/25/Sat
Photo : Miho Eguchi Text : Kei Yoshida
今西 千尋 / Chihiro Imanishi

1965年、京都府生まれ。幼い頃、家族に隠れて姉の服を着て以来、女性として装うことを密かに続けていたが、周りの誰にも言えないまま、大学卒業後に実家の鉄工所を継いだのちに28歳で結婚、子ども2人を授かる。36歳のときにTVドラマを観て性同一性障害の存在を知り、自分もそうであると確信。38歳で妻にカミングアウトし、別居、離婚を経て、49歳のときに性別適合手術を受け、名前を「千尋」に変える。現在は元妻と養子縁組し、別居を続けながらも4人家族としての生活を送る。56歳のときに放送された自身のドキュメンタリー番組が大きな話題となった。

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INDEX
01 押し入れの隅で姉の服を
02 ラグビーと競技スキーに励んだ高校時代
03 女装クラブとは対極にある現実
04 単なる女装趣味ではなく性同一性障害
05 妻へのカミングアウト
==================(後編)========================
06 仕事は実績か、それとも世間体か?
07 家族を養っていくという責任
08 埋没せずトランス女性として生きる
09 真面目に生きていたら、きっと理解が
10 自分の経験は必ず誰かの助けになる

01押し入れの隅で姉の服を

人には言えないような秘密

「実家があるのは、京都のJR二条駅前なんですよ。私が生まれた頃はね、いまみたいに商業施設なんてなくて、貨物の操車場があったんです」

「練炭や石炭の燃料問屋の長男として生まれたんですけど、その後のエネルギー転換に合わせて業態を変えられなくてね、店を畳むことになって」

「私が小学6年生くらいになるまで大きな借金が残っていて・・・・・・。父だけでなく母も働きに出てましたから、子どもの頃の母との思い出っていうのは写真があるだけで、記憶には残ってないんですよ」

学校から帰宅しても、いつも母はいない。

家には1歳上の姉と6歳下の弟だけ。
そのきょうだいとともに育っていくなかで、誰にも言えない秘密があった。

「5歳くらいからかな・・・・・・。実家の離れにある大きな押し入れの隅に、姉の服を持ってきて、こっそり着てみたりしてたんです」

「その頃はLGBTとか性同一性障害(性別違和/性別不合)とか、そんな言葉は存在しませんし、“性別に対する違和感” という意識もありませんでした」

「ただ、自分がしていることが人に言えないようなことなんやっていうのは、おぼろげながらわかってたから、家族に知られないようにしてました」

いつかカルーセル麻紀さんのように

そして思春期の頃、テレビで “ニューハーフタレント” として活動するカルーセル麻紀さんの存在を知る。

「モロッコで性別適合手術をした話とかを聞いて、『あぁ、こういう人もいるんや』って衝撃でした。でも、私はまだ中学生でしたし、手術は当時何百万もしましたし・・・・・・それこそ天文学的な数字に感じました」

「だから、いつか自分もカルーセル麻紀さんみたいに、って心のどこかで思ってはいても、そこまでのプロセスが見えない。公務員になるとか、会社員になるとかだったら、ある程度のプロセスは見えるんやけど」

「そんな悶々とした気持ちを抱えながら、男性として生きてきたんですよ・・・・・・」

通信販売で服や下着を購入することが一般的ではなかった時代。
姉や母のものを密かに拝借するしかなかった。

02ラグビーと競技スキーに励んだ高校時代

いきなりインターハイ出場

幼い頃はボーイスカウトに所属し、高校生になるとラグビー部に入部。
習いごとや部活動もいわゆる男性的なことを選んできた。

「本当はバドミントン部に入ろうと思って部室に行こうとしたら、手前にラグビー部の部室があって、そこで先に捕まってしもたっていう(笑)」

「でも、いま思うと、自分のそのセクシュアリティとか、『女性として生きたい』という気持ちとかを覆い隠そうとしてたんでしょうね」

ラグビー部でのポジションはフッカー。
スクラムの際に最前列の真ん中でプレーし、ボールを味方へ送る役割だ。

「まぁ、でも1年の夏頃には辞めたから、ラグビーでフッカーをやってたっていうても、そんな偉そうなことはなかったんですけど(笑)」

ラグビー部を辞めたあとは競技スキー部に入った。

部員が5〜6人だけだったこともあり、のんびりと気楽にスキーを楽しむつもりだった。

「でもね、中学で全国一位だった子が入部してきたんですよ」

京都府の高校で競技スキー部は、北部にあるにはあるが、珍しい。

「選手層も厚くなかったから、私がキャプテンをしてて(笑)」

「その子はクラブチームで練習してたんですけど、大会だけは一緒に出場したんです。そしたらいきなりインターハイ出場ですよ」

「うちの高校、サッカーとか野球、柔道とか、全国レベルの選手が結構いてね、全国大会に出場する部のキャプテンはスピーチするんですけど、全校集会で私が呼ばれたときは、友だちみんなびっくりしてました(笑)」

「そんなふうに、一応、男性としてずっと過ごしてたんですよ・・・・・・」

女装専門雑誌の広告で

大学は立命館大学経営学部に進学。
その頃には実家は事業を立て直し、鉄工所を経営していた。

「大学は夜間に通ってました。実家の鉄工所を継ぐためには技術を学ばなあかんから、昼間はフルタイムで働いてたんです」

「卒業するには単位をひとつも落とせなくて、夏季集中講座とかオマケの講座とかにも出席して、なんとか4年で卒業しました」

大学生ともなると、情報収集の手段も広がってくる。
通信販売で女性用の下着を購入できるようにもなってきた。

そして、幼い頃から密かに続けていた女装に関しても、自分のほかにも同じように人知れず行っている人たちがいることを知る。

「そういう専門雑誌があることもわかって、女装ができるスタジオみたいなんが大阪にあるって広告を見つけて・・・・・・」

「電話番号を暗記して、すぐ『行きたいんですけど』って電話しました」

03女装クラブとは対極にある現実

「おにいちゃん、若いコいるで!」

実家の押し入れの隅で姉の服を着た。
男性用の服の下に女性用の下着をつけるときもあった。

それは絶対に誰にも知られてはいけないこと。

しかし、堂々と行える場所を見つけた。
それが女装クラブだった。

「まだ大学生やったし、メイクの仕方もわからへんかったけど、店でフルメイクまでしてもらえて、下着だけ買えば、店にある女性用の服をどれでも着ることができてね。そういう店があったんですよ」

「そこで何時間か過ごして、そのときは高揚感があるんやけど、お店を出るときの虚しさは、やっぱり忘れられへん・・・・・・」

「シンデレラじゃないけど、魔法が解けるみたいな・・・・・・」

雑誌の広告で見つけた女装クラブは、江戸時代には遊郭、昭和には赤線地帯があった、いわゆる歓楽街と呼ばれるような地域にあった。

昼間に店へ行って女性の姿になり、また男性の姿に戻って店を出る夕方には、風俗店も開店し始める。

「店の入り口んとこに女の子が座ってて、引き込みのおばちゃんが『おにいちゃん、若いコいるで! 安くしとくし!』って声かけてくるんです」

「当然ながらね、おばちゃんに男性として認識されているわけですよ」

「その現実とのギャップが、なんかね・・・・・・、いまでも忘れられないですねぇ・・・・・・」

女装は単なる趣味ではない

店を出たときの虚しさに耐えながら、ひとりで何度も女装クラブに通った。

「友だちなんか、誘えるもんじゃあないですよ。飲みに行くとか、普通のクラブに行くとか、それこそ風俗に行くんやったら誘えるけど」

「女装クラブに行くんやけど、なんて言ったら『え、今西、そんな趣味あったん!?』って “趣味” で片付けられるからね」

女装趣味という言葉が表すように、男性が女性の格好をすることは、からかうようなニュアンスを込めて “趣味” と言われることがあった。

「自分としては、単なる趣味でもないなとは思ってたんです・・・・・・」

「バックパッカーとしてひとりで海外旅行に出かけたり、スキーしたりするのも好きやったけど、それと同列ではない、明らかに違うなって」

“趣味”というより “生き方” という言葉に近かった。

「やっぱり、テレビを通して出会ったカルーセル麻紀さんのイメージを、ずっと引きずってましたからね。ああいう生き方、いつかはできるのかなって。まだまだ自分には遠い存在でしたけど」

インターネットがそれほど普及していなかった時代。
情報ソースはテレビか新聞か、雑誌くらいだった。

性同一性障害のことなんて、存在すら知らない。

男性として、長男として、家業の後継者として、敷かれたレールを進んでいく生き方しか知らなかった。

04単なる女装趣味ではなく性同一性障害

結婚して子どももいるトランスジェンダー

大学卒業後は実家の鉄工所を継ぎ、知り合いの紹介で出会った女性、博子さんと28歳のときに結婚する。

「まだその頃は、性同一性障害とかトランスジェンダーとかいう言葉もないし、LGBTの概念も社会に浸透していなかったし、“女装趣味” 以外に自分のことを表現する言葉がなかったんですよ」

「だからもう、それは今後も誰にも話さないまま、自分の中のパンドラの箱に押し込めて、結婚したつもりでした・・・・・・」

思春期の頃から、女性を好きになることも男性を好きになることもあった。

「好きになった人がたまたま男性やった、女性やったってだけのことで、相手のことはただ、ひとりの人間として見てたと思うんですよ」

いまでも自分の半生を描いたネット記事などでは、「どうして結婚したのか」と批判的なコメントが書かれることがある。

「どうして・・・・・・って言われても、説明する言葉もないですよね。そらそうなんやから(苦笑)」

「私らの世代のトランスジェンダーで、結婚して子どもが生まれたあとにトランスする人が多いのは、みんな同じようなことなんやろうなって思うんですよ」

トランクにはお守りのように女性用の服を

心と体の性が一致しないという、性同一性障害なんてものがあることさえ知らない。

ましてや自分がそうだなんて考えることはない。

女性の服を着て、女性として生きたいという気持ちは、誰にも言わないまま、父親や周りの男性と同じように、家庭を築き、守っていこう・・・・・・そう考えて生きていくほかなかった。

「それに自分の場合は、父のあとを継いで社長になって、結婚して子どももできて、って恵まれた立ち位置にいて、将来が約束されてた」

「だから、自分自身と向き合うこともなかったんです」

それでも心のどこかで、いつかは女性として生きたいという気持ちがあったのだと思う。

息子が生まれたときも、自家用車のトランクには、お守りのように女性用の服が入っていた。

着ることがなくても、持っているだけで安心感が得られた。

「父親になったっていう喜びと同時に、どこか女性としての自分も保っていたいという・・・・・・そんな感じやったんやと思います」

性同一性障害という言葉を知ったのはTVドラマ『3年B組金八先生』で上戸彩が演じた鶴本直から。36歳のときだった。

「その頃にはインターネットでいろいろ情報を得られるようになっていて、おんなじように悩んでる当事者の人たちとつながって、自分も性同一性障害かもしれへんっていうのが、だんだん確信になっていったんです」

「私は単なる女装趣味じゃない、と」

05妻へのカミングアウト

ホルモン剤の副作用で精神が不安定に

インターネットの普及により、性同一性障害のことを詳しく知ることができた。

同時に、性同一性障害の診断を受けずとも、周りに知られないまま、海外から女性ホルモン剤が入手できると知った。

そこで、自分でホルモン治療を始めてしまう。

「ホルモン剤の量には個人差があってね、どのくらいの量でどのくらいの効き目があるとか、自分ではわからへんから、自己判断でホルモン剤を使っていると体を壊してしまったりするんです」

「私も実際に、体を壊していく当事者を何人も見てきました」

「それでも、体を壊してしまっても、女性ホルモン剤が “女性になれる魔法の薬” ではないのをわかっていても、やっぱり手を出してしまうんですよ・・・・・・それは私も同じでした」

「それで同時に、男性ホルモンを抑制する薬を飲んで・・・・・・。そしたら、精神状態が整わなくなって。それで余計に、早く女性になりたいもんやから、薬の量を増やしたりしてしまうんです」

「私も精神状態がおかしくなって、自分で首を括って自殺しようといたこともありました。ちょうどそのときに博子さんから電話があって、なんとか助かりましたけど・・・・・・」

「女性ホルモンによる変化なんて、乳房が大きくなるとか、ほんまちょっとだけ。それより、もう体への負担がものすごく大きいんですよ」

「なんで私をだましたの!?」

ある日、娘が生まれ、家族4人で旅行へ出かけようとしているとき、博子さんが自分のものではない女性の下着を発見。

初めて事情を話した。
自分は性同一性障害である、と。

「博子さん、黙ってました」

「下着を見つけたときは浮気を疑ってたみたいで・・・・・・。その頃には私もいっぱいいっぱいやったし、もうこれ以上は隠すこともできひんし」

「初めは黙ってた博子さんも、日が経つにつれて悲しみからだんだん怒りに変わってきて。それから、大変でしたね・・・・・・」

「私もどうしていいかわからないし、なにより娘を産んだあとすぐで、産後の肥立ちも良くなかったこともあって、博子さんの精神的な負担が大きくて・・・・・・」

「『なんで私をだましたの!?』って言われたこともありました」

「『ちゃんと両親に話してほしい』って言われて、実家でもカミングアウトして、『ちょっとラクになった』とは言ってくれましたけど、でも、博子さんの精神的負担は、ずーっと続いてますからね・・・・・・」

カミングアウトのあとも、子どもたちが小さかったこともあり、離婚をすることはなく、別居したのもしばらく経ってからだった。

ただ、自分のものではない女性用の服や下着が、暮らしている空間にあるのが耐えられないという博子さんの言葉を受けて、鉄工所と自宅の中間の位置に小さなアパートを借り、クローゼットのように使う。

そして数ヶ月後、生計は一緒のまま、家族とは離れて、そのアパートでひとり暮らしを始めた。

 

<<<後編 2023/12/02/Sat>>>

INDEX
06 仕事は実績か、それとも世間体か?
07 家族を養っていくという責任
08 埋没せずトランス女性として生きる
09 真面目に生きていたら、きっと理解が
10 自分の経験は必ず誰かの助けになる

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