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Writer/雁屋優

LGBTである、という診断

セクシュアリティについて悩んだとき、診断をキーワードに検索したことのある方も多いでしょう。セクシュアリティを誰かに決めてほしいと、ネットの力に頼ったこともあると思います。もしかしたら、診断を求めてこの記事にたどり着いた方もいらっしゃるかもしれません。私もかつてそうでした。でも、そもそもセクシュアリティって診断されるものなのでしょうか。

宙ぶらりんから早く解放されたかった

自分自身のセクシュアリティを問われて、答えることができる人は実は少ないのかもしれません。自身のセクシュアリティを、何となくマジョリティ側だと思っている、でも何だかしっくり来ないなと首を傾げている人もいることでしょう。

自分がわからない、暗中模索の日

いつも、何かが違うと感じていました。女児向けのアニメに夢中になって遊んでいても、そのグッズを手に入れても、私は、どこか遠くにいました。アニメで映される “女の子” にはなりきれない自分に、心のどこかで気づいていました。

周囲のこうあるべきという空気に流されて、バレンタインに優しい男の子にチョコを押しつけてしまったこともありました。優しさを利用したとも言えるその行為を思い返す度、恥ずかしいです。

女子用の制服に身を包んでも、恋の話を聞かされても、少女漫画を読んでも、何一つ、私のリアルにはなりませんでした。私はいったい、何なのだろう。そう思いはしても、どこに答えを求めればいいのか、そもそも自分が何にもやもやさせられているのか、わからないままでした。

どこにも収まらないから、逃げたくて

だからと言って、男の子の遊びや流行りものを楽しめたかと言えば、全然そんなことはありませんでした。男の子の熱狂する戦隊ヒーローをはじめとする特撮を観てみましたが、特に何も響くものはなく、よくわからないなと思っただけでした。

男の子向け、女の子向けという区分が、割とどのジャンルにもありました。そのなかでも、性別に関係なく楽しめそうなものを選んで、アニメや本に没頭していきました。そのことを考えている間は、しっくりこない自分自身のことではなく、登場するキャラクターたちのことをあれこれ考えていられたのです。

逃避そのものでした。

ですが、私は確かにその逃避に救われたのです。それでも、ふと我に返ると、しっくりこないあの違和感に襲われて、これは何なのか、説明してほしいと願っていました。

LGBTの概念を知り始めた

そんな私の前に、LGBTという言葉が現れます。自分が何なのか、ただ、“違う” ことしか自覚していなかった私にとって、言葉は強力でした。

LGBTの概念にふれて

LGBTの概念を知った私は、世のなかには異性愛以外にもさまざまなセクシュアリティや愛の形があることを知りました。ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字からLGBTとされていますが、最近はLGBTQ+などとしたり、セクシュアルマイノリティとしたりするようです。

異性愛者でなくても、シスジェンダー(心の性と体の性が一致している状態)でなくてもいいんだと思えたことは、その頃の私にとって、何かに許された気がして、ほっとしたのを覚えています。許してもらう必要なんか、なかったのですけど。

診断は、必要?

それでも、セクシュアリティはたくさんありすぎて、自分が何に該当するのかはしばらくわからないままでした。いっそ、遺伝子検査でもして、遺伝子を調べてしまえばセクシュアリティがこれだ、と判明すればいいのに、と思ったこともあります。もちろん、性自認の診断は、遺伝子だけで確定するものではありませんが。

あなたのセクシュアリティはこれで、これはこんな風に感じるセクシュアリティで、と説明書きのようなものをもらえたら、どれほど楽だったでしょう。でも、セクシュアリティとはそういうものではありませんでした。

「自分の感じ方を大事に、自分で探していくものなんだよ」

そう言われても、探すことに疲れきってしまって、考える余裕はありませんでした。だからこそ、「診断」という、さも生涯変わることのないような名前、確からしい何かが欲しかったのでしょう。権威ある存在である医師に「あなたはこうだ」と決めてほしかったのです。自分で何かを探し続けるのには、疲れ果てていました。

なぜ自分だけが、こんなに考えなければならないのだろう。セクシュアリティなんか、もうどうだっていい。そんな気にもなってきました。一方で、自分が何を欲しているのか、知らないままでいることに恐怖もありました。知らねばならない。だけど、その探求はひどく疲れるし、正直もうやめてしまいたかったのです。

ネットで見かける診断テストにも手を伸ばしかけていました。

関係性を選び取ることを知った

診断をもらって救われたがっていた私にも、変化のときが訪れます。それは、ポリアモリー(複数愛)という関係性を知ったときでした。

ポリアモリーを知った

ポリアモリーとは複数の人と合意の上で恋愛関係を結ぶ、関係性の名前です。ライフスタイルの一つとも言われます。セクシュアリティに迷い、診断に手を出しかけていた私にとって、衝撃だったのは、ポリアモリーのありかたそのものではなく、関係性を自ら選び取っていることでした。

人は睡眠や食事を取らなければ死にますが、恋愛をしなくても、別に死にません。私が人間であってよかったと思う理由の一つでもあります。恋愛をしなくても、セックスをしなくても、人は死にません。生きていくことが可能です。

恋愛関係を経験したことないのですが、恋愛関係を維持するのは、本当に大変です。行動に気を遣い、時間を使い、お金も使うのです。それを複数と聞いて、私は、自分には無理だなと思いました。一人を気遣うのすらできないくらい、私は自分のことで手一杯ですし。

それでも、この人たちはポリアモリーなる関係性を選び取っているのです。従来の形の恋愛よりはるかに大変とおもうそれを、選び取って、実践しています。その事実に、私は驚きました。

最初は、何でそんなに大変そうなことを自分からやるのだろうと混乱もしました。

関係性は、自らつくるもの

なぜそんな難しく大変なことをやるのか、ポリアモリーの人に聞いてみたことはありません。ただ、ポリアモリーの方の書籍や発信を見ているうちに気づきました。それは彼ら、彼女ら自身が、その関係性を望んでいるからに他ならないのだと。

たしかにポリアモリーは大変そうです。一人とお付き合いするのも大変ですが、二人とお付き合いすると単純に考えてその気苦労は二倍になります。書いていて、私はやっぱり目を疑います。自分にはこんなことできない、無理、と思います。

でもポリアモリーを選択した人たちは、自らの意思で自分が生きやすい道を選び取ったのです。自分が何を求めているかを知り、行動にうつしているのです。これはすごいことです。

とはいえ、関係性やセクシュアリティを自分で選び取りましょう、と言われても難しいですよね。そもそも、何があるのかも知らないのですから。

性自認もセクシュアリティも、まずどんなものがあるのか知るところからです。

私は、私を定義する

LGBTの概念を知り、誰かに示されることはできないのだと知り、自分で自分のありようを決めるしかないと気づきました。それでも、それは簡単なことではありませんでした。

私を定義するのは、私自身

診断にすがることはできないとわかっても、それでもやはり、自分が何者なのかという疑問への答え探しをあきらめられず、手はセクシュアリティ診断を検索しています。今も、Twitterで人気のセクシュアリティ診断がありますね。あれをやってみよう、いや、やらずにおこうと今でも揺れ動きます。それほど、セクシュアリティの問いとその答えを求める誘惑を絶つのは難しかったのです。

それでも自分を定義するのは自分自身しかいません。他人は話を聞いて状況を整理してくれたり、自分の知らないセクシュアリティの概念を教えてくれたりします。でも、自分がこうである、と決めるのは自分しかいません。つらいし面倒だし手間もかかるけど、自分でやるしかないのです。

カウンセラーや医師であっても、セクシュアリティを本人以外が決めるわけにはいかないのです。自分で、自分を何と定義するのが一番生きやすいか、を模索するほかありません。

私は、どうありたいか

私は、どうありたいのでしょうか。

何が好きで、何が嫌で、どういう状態を心地よく感じるのでしょうか。

完全に「女性」であり続けるのは嫌みたいです。男性から女性としてみられるのを嫌います。恋愛対象に見られたくありません。女性でも男性でもなく、性別を明かさず、もしくは性別を重要視せず交流できる場が好きです。

男の人を好きになりません。女の人も好きになりません。きっと、誰のことも恋愛の意味では好きになりません。親愛の情はあります。親愛の情は人より濃いくらいです。

FTXでアセクシュアルである。それが今まで学んできた知識と総合して考えると、最も私に近いものに思えます。

ここにたどり着くまで、大変でした。

将来、しっかりした診断が可能になったら、私はきっと、「あんなに苦労したのに」と愚痴のひとつも零すのでしょう。私のことだから、言います。間違いなく、言います。楽になりたい、便利に生きたいと日々思っているのが私なのですから。

それでも、現状は私が自分で調べて、知って、自分でしっくりくるものを見つけたり、なければ新たに言葉をつくったりしなくては、違和感は解決しないのです。セクシュアリティから逃避したこともありました。しかし、そのなかでも、違和感に悩まされ続けました。

セクシュアリティや性自認は多様で、変わっていくものでもあります。自身の気持ちにしっかり向き合い、自分のありようについて答えを出す必要があります。完全に救ってくれる言葉など、ないのです。

何て果てしない道のりだ、と思う方もいるかもしれません。私もそう思います。投げ出したいと思ったことは一度や二度ではありません。けれど、自分で見つける以外に方法はありません。

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