NOISE ライター投稿型 LGBT情報発信サイト
HOMEすべての記事 中山可穂の小説『猫背の王子』に支えられて―小劇場演劇とレズビアンの恋愛

Writer/酉野たまご

中山可穂の小説『猫背の王子』に支えられて―小劇場演劇とレズビアンの恋愛

「人生を変えた本」という言い回しがあるが、人生を変えるほどの力を持った本に出会える機会は少ない。人生を変えるというより、私の人生に大きな影響を与え、心の支えとなってくれた一冊の本がある。一人のレズビアンとして、また小劇場演劇に携わる人間として、心の深い部分に刺さり続ける小説。それが中山可穂『猫背の王子』である。

性自認と、小劇場演劇との出会い

ほぼ同時に出会った、自分のセクシュアリティと小劇場演劇の世界

私は高校から大学へ進学する際、ほとんど時を同じくして、自分のセクシュアリティ、そして小劇場演劇と出会った。

自分のセクシュアリティに気づくきっかけとなったのは、高校3年生の終わり頃、女性への恋心を自覚したことだ。

男性にも女性にも、恋と言えるかどうかわからないようなふわふわとした気持ちしか抱いたことのなかった私にとって、同性に対する初めての強い恋愛感情は衝撃的だった。

「これが初恋なのかもしれない」と思うと、気持ちが高まってくる。

まるで新しい自分に出会えたかのような、わくわくするような気持ちも手伝って、来る日も来る日も好きな女性のことを考え、日記に思いのたけをぶちまけてはその日の感情を反芻していた。

そして、小劇場演劇との出会いは、当時好きだった女性と会うはずだった日に訪れた。

確か、天候か交通機関の都合で、当日になって会う予定がキャンセルになってしまったのだ。すでに集合場所へ向かっていた私は、彼女から連絡を受けてやや気落ちした。

このまま帰るのもなんだかなあ、と思いながらぶらぶら歩いていたそのとき、書店の店先に並べられたチラシが目に入った。

色とりどりのチラシの中で、特に目を惹いた一枚を手に取る。それは、小さな会場で演劇作品を上演するという内容のチラシだった。

なにげなく裏返して日付を確かめると、ちょうど数十分後に最後の上演が始まるらしい。チラシを眺めているうちに、突然「観に行ってみよう」という気持ちが湧いてきた。

書店を離れて会場まで走り、開演ギリギリに駆け込んで当日券を買い求めた。
そこで初めて体験した、小劇場演劇の熱量と興奮は忘れられない。

小さなブラックボックスが声と音と熱で満たされ、俳優の躍動する肉体が目の前に迫ってくる。日常生活では目にすることのない独特の台詞回しや激しい表情の変化も、舞台上で巻き起こる物語に一層の深みを与えていた。

私は客席の隅っこで静かに涙を流しながら、大学に入ったら演劇をやるんだ、と心に決めた。

高校生活もまもなく終わりを告げる、ある春の日のことだった。

母親の期待を裏切ったとしても、没頭していたかった

ほとんど同時期に二つの衝撃的な出会いを果たし、私は大学で演劇サークルに入ったこと、そして自分はレズビアンかもしれないということを続けざまに母親に報告する形になった。

当時、私の母親は、どちらの事実も受け入れがたいという態度を見せた。

教育の仕事をしている母親にとって、大学で勉強に没頭することなく、アングラな創作活動に時間を使おうとする娘の態度は期待を裏切るものであったらしい。実際、私は大学の授業や課題を疎かにしてしまうほど、小劇場演劇の世界にのめり込んでいった。

演劇の稽古や準備にもっと打ち込んでいたくて、母親から言い渡された「22時までに必ず帰宅すること」という門限が窮屈だった。

少し門限を緩くしてもらえないか、と交渉したところ、母親は頑として首を縦に振らず、話し合いは難航。

最終的に、全く脈絡のないタイミングで「あなたが同性愛者だと言ってきたことも気に食わない」と私のセクシュアリティにまで話が及び、交渉は決裂した。

大学に入学すると同時に、私は母親にとって「こんなふうに育てるはずじゃなかったのに」と思わせる存在になってしまったのだ。私はその事実を噛みしめて、ただ受け入れることしかできなかった。

「家族と精神的に距離を置こう」とひそかに誓った私は、自分の心の拠り所である小劇場演劇と、レズビアンとしての恋愛にどんどん没頭していった。

中山可穂の小説『猫背の王子』と私

レズビアンであり演劇人でもあるキャラクター「王寺ミチル」

レズビアンとしての恋愛と小劇場演劇の世界を自分の居場所のように感じていた私にとって、中山可穂氏の小説『猫背の王子』はまさにバイブルとなる作品だった。

『猫背の王子』の主人公・王寺ミチルは、小劇団を主宰している女性。女たらしと呼ばれるレズビアンで、日毎に違う女性とベッドを共にしながら、愛しているのに結ばれることがない一人の女性への片想いと、演劇への情熱を募らせている。

一行目の書き出しからあふれ出るアングラな気配と、女性同士の情事の描写に圧倒され、言葉巧みに女性を口説くミチルのキャラクターに心惹かれ、むさぼるように読み進めたことを覚えている。

何度も読み返したし、好きな箇所はページを戻って繰り返し眺めた。

今では販売されておらず、手に入れることが難しい紙の本をなんとか入手できたときは、表紙の絵を見ただけで胸が詰まるような感動に襲われた。

「芝居がしたい」と訴え、愛する人と結ばれないやるせなさを噛みしめるミチルの生き様は、大学生だった頃の私の感情と強くリンクした。

ここにも私のような人がいた、という安堵感を、今でも忘れることができない。

中山可穂作品から受けた衝撃と感動

中山可穂の作品に出合うまで、同性愛を題材にした代表的な小説といえば、三島由紀夫の『仮面の告白』くらいしか私は知らなかった。

まれに海外文学を読んでいて同性愛的な表現に出会っても、男性同士の関係を描いたものであることが多かったため、中山可穂作品を通して「女性同士の恋愛を描いた小説がある」と知った私は、新たな扉が開いたような感覚をおぼえた。

自分が憧れ、欲している関係性や感情が、文章で事細かに描写されることの、驚きと興奮。いわゆる「百合」と呼ばれるジャンルにはあまり縁がなかった私にも、中山可穂作品はしっくりと心に馴染んだ。
甘い恋愛模様ではなく、アングラな空気の中、痛みや激しさを伴って同性を愛する女性が描かれていたことが、当時の私にとってはとても重要なことだった。

そして、特に『猫背の王子』は、私にとって小劇場演劇とレズビアンとしての恋愛は切っても切れない、近しい関係にある存在なのだと実感していくきっかけとなった小説でもあるのだ。

小劇場演劇とレズビアンの共通点

演劇人、レズビアンとして生きることは母の期待に背くこと

『猫背の王子』に登場する王寺ミチルは、母親から猫背を何度もたしなめられた思い出から、劇団の名前を「カイロプラクティック」と付ける。脊椎矯正、という意味だ。

母親に疎まれ、猫背が直らないのは心が曲がっているからだと言われ続けたミチルは、母親に愛されなかったがゆえの複雑な思いを抱えて生きている。

私自身も、ずっと母親から猫背を指摘されて育った。母親はそれを心のせいにすることはなかったけれど、母親の期待に応えられていない、完璧な娘になれていないというプレッシャーを、私は背中越しにひしひしと感じ続けてきた。

姿勢も、勉強も、演劇も、恋愛対象についても、私は母親の思い通りにはなれなかった。そのせいもあってか、次第に私は、演劇やレズビアンであることを隠して生きるべきだと思い込んでしまうようになった。

演劇人、レズビアンであることは「世間に対して胸を張れない」という頑なな思い込み

気の置けない仲間内では言えても、親や大学の教授や初対面の人に対して、好きな人のことや演劇を「好きだ」と堂々と語れないという感覚。

演劇を好きだと言って「よくわからない人だ」と思われるのが怖い。
「でも、将来ずっと続けていくわけじゃないんでしょ?」と当たり前のように言われたくない。
女性を好きだと言って、馬鹿にされたりからかわれたりするのは嫌だ。
母親のように拒絶されたら、と思うと、親しい人相手でもうかつに口に出せない。

本当は、どちらも自分を構成する大事な要素だ。
胸を張って、「私は好きなんだ」と堂々と言いたい。

そんな思いとは裏腹に、「自分は世間一般から外れた生き方をしている」「演劇もレズビアンとしての恋愛も、ひっそりと隠れて楽しむしかない」という意識に、私は長い間悩まされることになった。

一冊の本が、心の支えとなってくれた。

変化のきっかけは「時間の経過」

不安や悩みはその後、大きく変化した。

演劇もレズビアンであることも、日陰の存在ではなく、もっとオープンに扱えるものだと思えるようになったのだ。頑なだった思い込みは、時間の経過とともにゆっくりとほぐれていった。

親元を離れて一人暮らしを始めたこと、初めて同性のパートナーと付き合ったこと、そして世間の風潮が徐々に変化してきたことも、私の意識が変わる大きな要因となった。

家族と物理的に距離をとったことで、お互いに相手の意思を尊重し合えるようになり、強い思い込みとプレッシャーは徐々に消えていった。

また、初めてのパートナーができたことで、同性への恋愛感情は自分にとって秘匿すべきものではなく、ただの事実であり、私の人生になくてはならない要素だと思えるようになった。

さらに、学校の授業で演劇が取り入れられたり、アイドルや芸能人が小劇場演劇の作品に挑戦したりという流れも生まれ、演劇に対する世間の見方も徐々に変わってきたように思う。

そして、LGBT関連の認知が世間に広まっていくにつれ、レズビアンであると他人に公表することにも、以前より抵抗がなくなった。

大学生の頃は絶対に抜け出せないと思っていたマイナスの感情の波から、今はある程度自由になれているという実感がある。

好きなものを途中で手放すことなく、好きでい続けることができて本当に良かったと、今ではそう思えている。

主人公・レズビアンの王寺ミチルに寄せる、感謝の思い

小劇場演劇と、レズビアンとしての恋愛。

私にとって重要な存在であったこれらの世界を、世間の目に負けずに心の中で守り抜くことができたのは、「同じような思いを抱えている人が他にもいる」ことが励みになっていたからだ。

中山可穂の小説『猫背の王子』は、世間の目に怯えていた頃の私の心を支え、励ましてくれた一冊なのだ。

最近の中山可穂作品は、レズビアンの恋愛が主題となった小説だけでなく、ノワールやコメディなど、さまざまなジャンルへと幅が広がっている。

それらを楽しく読みながらも、ふいに思い出すことがある。
『猫背の王子』を始めて読んだときの、体の奥が疼くような興奮を。

今でも本を手に取るだけで、変わらない感動が蘇ってくる。ざわざわ、わくわくと心を駆り立てるような、演劇と、自分のセクシュアリティへの思い。

その熱く、甘苦い余韻を思い出させてくれる、私にとって唯一無二の小説である。

 

RELATED

関連記事

ロゴ:LGBTER 関連記事

TOP