02 うまくできなかった人との関わり
03 自ら距離を取っていた “恋愛”
04 「応援団長」というマスク
05 親の考えと子どもの気持ち
==================(後編)========================
06 生活の基盤となっている仕事
07 自分が「恋愛しない」理由
08 アロマンティックとクワロマンティック
09 自分を表現するためのラベル
10 今の自分だからできること
01 “感情” を経験できなかった幼少期
内向的な子ども
「小さい頃の記憶が、ほとんどないんですよね。なんとなく情景が浮かぶくらいで」
幼い頃から、「いい子」「真面目」と、評価されてきた。
「幼稚園とか小学校の頃から、すごく孤独でした。心を許せる相手がいなかったんです」
「誰かと一緒に遊ぶということがどうもできなくて、1人で黙々と何かをしているタイプでした(苦笑)」
「スポーツをやるような熱量のある人にはなれないな、って自覚は、当時からあったと思います」
車や電車より、ぬいぐるみが好きだった。ボール遊びも、あまり得意ではなかった。
「“男子” と一緒にいるのは、楽しくなかったんですよね。だけど、女子の輪に入ることもできなかったんです」
「誰かと一緒に遊びたい、って欲望すらないような、すごく内向的な性格だったんだと思います」
「幼稚園児の頃から、真面目じゃないとダメだ、みたいに思ってましたね」
その反面、何かに熱狂するほどのめりこむ人の姿に、憧れを抱いていた。
「感情的になれる人に、すごく憧れがあるんですよ」
「ゲームとかもやってましたけど、何もしないより楽しいというだけで、ゲームによって感情が大きく揺れ動くような感覚はありませんでした」
「思いっきり泣いたり、喜びを表現して人と分かち合ったり、そういった経験がなかったんですよね」
“いい子であれ” という呪縛
なぜ、真面目であることを自分自身に強いていたのかは、わからない。
「親のしつけはあると思います。どちらかというと、厳しかったですね」
「暴力を振るわれるとか暴言を吐かれるようなことはなかったですが、マナーには特に厳しかったと思います」
元軍人の祖父に育てられた母は、厳格なタイプだったように思う。
「勉強に関しては、『絶対に100点を取りなさい』といったことを、言われた経験はないんです」
「でも、自分の中で、母親の期待に応えよう、という気持ちがあったのかもしれません」
「常に進級試験を受けているような感覚で、 “いい子であれ” という呪縛にとらわれていたんです」
いい子でいるのも、テストでいい点数を取るのも、何かを楽しむのも、すべては母のため、という意識があった。
自分の意思で何かを決める、何かを楽しむ、ということはほとんどなかった。
「母をはじめとする周りの人にどう評価されるか、ということばかり考えてました」
「でも、決して家族仲が悪かったわけではないんですよ」
「両親は仲が良かったし、家族旅行もよく行っていたし、理想的な家族だったと思います」
02うまくできなかった人との関わり
「○○長」というポジション
小中学生の頃も “真面目ないい子” で、程よく自分の意見を発信できるタイプだった。
「ちょうどいいバランスの子どもで、先生からの信頼も厚かったと思います。だから、学級委員長とか科学部の部長とか、『○○長』をよくやってました」
決して目立ちたかったわけではない。むしろ、逆の理由から、そのポジションを選んだ。
「人づき合いがあまりうまくなかったので、そのポジションに就くことで、自分を守っていたところがあります」
委員長や部長を務めれば、周りから一目置かれ、いじめのターゲットから外される。
「勉強ができて真面目で、まとめ役になれば、人に嫌われることはないというルートを、自分の中で確立してたんです」
勉強に励む理由
勉強に励み、積極的に委員長や部長を務めたのは、内申点も意識してのこと。
「“人と違って何かに秀でていないといけない” というような呪縛も、自分にかけてたんです。勉強は好きではなかったけど、勉強しなくてもいいや、という選択肢はなかったんです」
「八方美人なところもあったから、みんなの意見を尊重する学級委員長だったと思います(苦笑)」
「ガキ大将とも寡黙な優等生とも、うまい具合に話せる性格だったのが、良かったのかもしれません」
人からの評価を重んじるあまり、勉強以外のことには懐疑的だった。
「当時の私は、スポーツも恋愛も、勉強の邪魔になるものとして見ていたんです」
「スポーツや恋愛を楽しめたらラクなんだろうな、という思いを抱く一方で、自分はそうなれなかったし、それらのものを敵対視してました」
知らず知らずのうちに、「勉強しておかないと、社会に出て後悔するぞ」という誰かからの教えに、影響されていたのだろう。
損得で判断しない関係
「中学生の頃、友だちと呼べるような人たちもいたんです」
1年生の頃から通っていた私塾の仲間とは、友情と呼べる関係を築けていた。
「進学校に進むため、2年生で私塾から大手の塾に移ることになったんです」
「せっかく築けた友人関係が絶たれてしまって、すごく悲しかったことを覚えてます」
私塾の友だちとの関係は例外的なもので、そのほかの人間関係は、当時すべて損得で成り立っていたと振り返る。
「何かしらでプラスにならないと、人と関わらない。そういう考え方が、自分のベースになってしまっていました」
「だから、高校や大学で人から遊びに誘われても、うまく乗れずに断ってしまうんですよね」
「そこで一緒に遊びに行っていたら、違う人生だったんですかね(苦笑)」
03自ら距離を取っていた “恋愛”
憧れと好意
中学時代、一緒に学級委員長になった女の子に、憧れの感情を抱いたことがある。
「その子は颯爽としててクールで、スポーツができて、意見もバシッと言えて、かっこよかったんですよ」
「私もその子みたいな振る舞い方がしたいな、っていう思いがあったんです」
2年間、共に学級委員長を務めている間、その感情に変化はなかった。
「ただ、これはあくまで憧れであって、恋愛的な感情ではなかったと思うんですよね」
関係のない話題
中学生にもなると、同級生が恋愛の話で盛り上がる場面に遭遇することがある。
「私は、男子と女子のそういう感じとは、距離を置いていました」
「恋愛は勉強の邪魔だと思っていたし、まだ私には関係ないだろう、という思いもあったからです」
ホワイトデーの時期に、同級生から「気になる子にお菓子を渡してみたら?」と、提案される。
その提案の通り、女の子にお菓子を渡してみたこともある。
「バレンタインデーにチョコをもらったこともありました。でも、そういうキャラじゃないんですよ(苦笑)」
「真面目で硬派な学級委員長だから、それ以上の進展を求められないというか・・・・・」
「私自身もそういう話題に触れないようにしていたし、学級委員長という鎧に閉じこもっていたんですよね」
いずれ経験すること
恋愛と距離を取ってはいたが、いずれ自分も経験するのだろう、とどこかで感じていた。
「映画などの作品やメディアから取り入れた情報から、 “恋愛” というものがあることはわかっていました」
「その情報のせいかわかりませんが、恋愛をするということは、大人になることだ、と思ってたんです」
「そして、私は自分が大人になることに、ストップをかけていたのかもしれません・・・・・・」
自分としては、大人になるということは、親と距離を置くことだと考えていた。
恋愛をしたら、距離を置くために両親に話さなければいけない。しかし、どう説明すればいいのか、わからなかった。
「そう考えると、なんだか怖かったんです。恋愛をしたら、親からどう見られるのかなって」
「体の成長がそれぞれ異なるように、恋愛に関しても私は遅れてるだけなんだ、という認識もあった気がします」
04 「応援団長」というマスク
「男らしくあれ」という教え
元軍人の祖父は、 “男は強くあれ” という方針の人だった。
「決して暴力的な人ではなかったんですが、散々『俊哉は男らしくない』と言われて、怖かったですね(笑)」
自分は内向的な性格で、「男らしい」と評されるようなタイプではなかった。
「男性的な世界は好きじゃなかったんですが、祖父の言葉に対する負い目はありました。だから、自分を鍛えるためにも、高校は男子校に行くしかないぞ! と」
偶然にも、県内トップクラスの進学校が男子校だった。
その高校への進学を決め、 “男らしさ” と向き合っていく。
性に合わない部活
小学から始めていた水泳を、高校でも続けようと考える。
「でも、高校の水泳部は、全国大会に出るような本気の部活で、ついていけなさそうだったんです」
水泳部の顧問に部活選びの相談をした時、「応援団があるよ」と、言われた。
そして、応援団に所属する。
「“男らしくあれ” の世界の頂点のような部活ですよね。そこなら自分を鍛えられる、と当時は思ったのかもしれません」
団員は演舞の時だけでなく、日々の学校生活でもドカンと呼ばれる太いズボンをはき、長ラン(丈の長い学ラン)を羽織る。
周囲からも一目置かれるような “男の中の男” という出で立ちを求められる。
応援団には先輩が数人いたが、同期は自分ともう1人だけ。その1人は、途中で退団してしまった。
「私の性には合わない部活でしたよ。でも、学年に1人の私が辞めてしまったら、応援団が途絶えてしまうから、辞められなかったです」
「長ランを着ていれば、自然と応援団員であることが周囲に知られて、自分のキャラが確立される。それが私の居場所になっていた部分もあります」
学年が上がると必然的に団長を任せられ、十数人の後輩をまとめる立場となった。
硬派な一匹狼
男気にあふれる硬派な応援団にとって、恋愛はご法度。
長ランを羽織った武骨な姿から、いじめの対象になることもなかった。
「自ら離れるというよりは、周りが私から距離を取っている感じでした。・・・・・・単純に、長ランで通ってる同級生がいたら、怖いですよね(笑)」
毎年、文化祭では、体育館のステージで演舞を披露する。生徒も教師も、保護者たちも見に来て、盛況だったことを覚えている。
「『かっこいい』と、言ってくれる人が多かったので、自分のせいでかっこ悪く見せてはいけない、という責任感もありました」
「思い返してみると、硬派な団長として一匹狼でいることで、自分を守っていたんでしょうね」
自然と人と距離を取れるポジションにいれば、特定の誰かと深く接する必要がないから。
05親の考えと子どもの気持ち
敷かれたレール
高校3年の夏、野球部の全国高校野球選手権大会敗退とともに、応援団を引退した。
「長ランを脱いだ時から、ずっと変な感じでした」
「団長という鎧を外し、生身の自分でいなきゃいけないような感覚で、おどおどしてたんです」
それでもなんとか自分を奮い立たせたが、大学には受からず、浪人生となる。
「高校を卒業して、同級生とのつながりがなくなり、物理的な孤独を感じましたね」
「漠然と、自己嫌悪の感情が高まっていった時期でした」
親からはずっと “トップ” であることを求められてた。だから当時は、弁護士になるというレールに乗るしかない、と思っていた。
「でも、ぎゅうぎゅう詰めの予備校で勉強していると、ツラくなってしまって・・・・・・」
「だけど、センター試験で合格した大学で親が勝手に入学手続きをしていたんです。『行ってみないとわからないぞ』って」
「学歴コンプレックスのある父は、私に自分と同じようになってほしくなかったんだと思います」
「就職のためにも、大学は行っておいた方がいい」という父の言葉を信じ、大学に進む。
自分がしたいこと
大学生になってから、自己嫌悪の感情は消えるどころか、増していった。
「本当に弁護士になりたいのか、自分はどんなものが好きなのか、何もわからなかったんです」
「ただ両親の価値観に縛られて生きてきただけなんじゃないか、って気づいてしまいました」
このままではいけない、と思い、大学を辞めることを両親に告げたが、父から「絶対に辞めさせない」と、言われてしまう。
「大学に退学届けを出しても、受理してもらうには両親のサインが必要なんですよね。だから、『国家資格を取ったら辞めてもいいか』と交渉して、両親に納得してもらいました」
宣言通り、在学中に行政書士の資格を取り、大学を中退した。
両親の思い
「大学生の頃は、両親に対する憎悪の感情が強くて、卑屈になっていました」
「親なのに何もわかってくれない、なんで子どもの考えをないがしろにするんだ、って思ってましたね」
今なら、両親なりの考えがあったのだとわかる。
「両親の言動や教えは、決して悪意によるものではなかったと思うんです。『子どもに苦労させたくない』という気持ちで、出たものなんですよね」
ただ、当時の自分にはもっと大事なものがあるような気がしていた。
やりたいことが見つかったわけではなかったが、レールから外れることが新たなスタートになると思ったのだ。
<<<後編 2022/08/13/Sat>>>
INDEX
06 生活の基盤となっている仕事
07 自分が「恋愛しない」理由
08 アロマンティックとクワロマンティック
09 自分を表現するためのラベル
10 今の自分だからできること