NOISE ライター投稿型 LGBT情報発信サイト
HOMEすべての記事 アセクシュアルとノンセクシュアルを揺れ動く

Writer/雁屋優

アセクシュアルとノンセクシュアルを揺れ動く

異性愛者が大多数を占めているこの社会でも、「レズビアン」や「ゲイ」などの異性ではない人を愛するセクシュアリティについては、知られるようになってきました。しかし、他者に性的欲求も恋愛感情も抱かないアセクシュアルや恋愛感情は抱くけれど、他者に対して性的欲求を抱かないノンセクシュアルなどのセクシュアルマイノリティは、まだまだ認知されていない、といった現状です。

そんななか、私はアセクシュアルとノンセクシュアルを揺れ動いているという結論に現状ではなっています。どういうことなのか、見ていきましょう。

自分は何なのだろうという問いが常にあった

思い返せば、幼児期の頃から異性愛が当然であるかのように刷りこまれてきた記憶があります。私は、性自認がふわふわしていますが体の性は女性なので、女性として育てられました。そのことにあまり強烈な疑問は抱いていませんでした。ある一点を除いては。

男の子を好きにならなければいけない?

保育園や小学校で女の子が口にする、「お嫁さんになりたい」や親や先生の言う「そんなことしてたらお嫁に行けないよ」に、「お嫁さんになるってそんなに大事なことだろうか」と反発を抱く、そんな子どもでした。「お嫁さんになる」のは何だか大変そうだから、「一人で生きていきたい」と思うようになっていきました。

将来やりたいことを聞かれて、「一人暮らし!」と元気に答える子どもでしたから、このときには既に「自分は人と暮らしていくのが苦手だ」という意識が、無意識ながらもあったのかもしれません。実際その通りなのですから、我がことながら慧眼と言ってもいいでしょう。

それにしても、保育園や小学校の先生、親の刷りこみとは恐ろしいものです。親も当然異性愛者のカップルですし、周りの子ども達の親も当然のように異性愛者です。そしてそれを当然と思っている周りの子ども達も、私を取り巻く異性愛者包囲網に加わり始めるのです。

自分は何者?

百合と呼ばれる女性同士の恋愛を書いた作品や、BL、つまりは男性同士の恋愛を描いた作品に触れるようになると、今度は自分のことをレズビアンなのではないか、と疑うようになります。作品に描き出されるかわいい女の子が大好きだったからです。作品のなかの、かわいい女の子達のきれいな恋愛に胸をときめかせたのを、今でも覚えています。

男性同士の恋愛を描いたBL作品にもときめいていました。作品のなかの男性に感情移入してときめくことも、少ないながらありました。性自認がふわふわとし始めていた時期だったのもあり、作品の中の男性に男性としてひかれているのかもしれない、と考えてみることもしました。しかし、男性になりたいかと言われると、それもまた違ったのです。

こうして、自分がどういったセクシュアリティをもっているのか、女性であるのか、男性として見られたいのか、日々悩むことになります。

「お嫁さん」にはなりたくない。
「男」にもなりたくない。

まだ性の多様性が語られ始めていない頃のことでした。

迷走を重ねた少女時代

バレンタインデーといえば、日本では誰もが知っているあのイベントですよね。学生時代には女の子は誰に渡すか、男の子は貰えるのか、ドキドキそわそわしながら過ごす日。新たな出会いや恋愛が生まれるのも、この日です。流れてくるCMは当然のごとく、女性が男性にチョコを渡したり、女性同士でチョコを渡したりするもの。後者はいわゆる友チョコという文化です。

バレンタインにチョコを渡さなければいけないと思いこんでいた

大人になれば、会社の女性社員でバレンタインデーの義理チョコの相談をしたりするというからそれもそれで大変です。しかし、女性から男性へ、普段お世話になっているお礼や愛をこめて、チョコレートなどのお菓子を贈る日は、現実の男性にときめいたことのない私にはきついものでした。

それでも容赦なく襲いかかってくる異性愛者包囲網は、攻撃の手を緩めません。クリスマスデート、バレンタインのチョコレート、告白。当然のように男性を想定した好きな人の話。私も、異性愛以外を知らなかった頃はこれがどうして嫌なのか、まるでわかりませんでした。今は恋も愛もよくわからないけれど、異性愛にいずれ目覚めるものだと思っていたからです。

そんな空気に負けて、バレンタインデーには異性にチョコレートを上げるべきなのだと思いこみ、行動してしまったことがあります。優しい男の子に数年バレンタインチョコレートを持って行ったのです。あの頃のことを思い出すと、恥ずかしさで消えてしまいたくなります。たしかに私は優しい彼が好きでした。誰にでも優しく、私にも優しい彼が、いい人だなあと本気で思えたのです。

でもそれは、甘酸っぱい恋などではありませんでした。私は私に優しくしてくれる人だから、彼が好きだったのです。それ以外の彼の要素なんかどうだってよかったし、私のバレンタインデーを消費するための存在でしかなかったのです。その “好き” はライクでもラブでもありませんでした。バレンタインデーに、異性にチョコレートをあげた。その事実のために、彼を利用したと言っても何もおかしくありません。

それでも、優しい彼は、その数年の間、受け取ってくれて、ホワイトデーにはお返しをくれました。今になって思うと、私の “バレンタインデーごっこ” につきあわせてしまって申し訳なくて、何より “好き” の種類にも気づかず恋愛ごっこをしていた私の不誠実さに恥ずかしくて、消えてしまいたくなります。

だから私は、今でもバレンタインデーが苦手です。女性同士でいわゆる友チョコのやり取りをするのはいいのですが、女性から男性にチョコレートを贈るとなると、その場から逃げ出します。女性社員が男性社員への義理チョコについて相談するような職場にいたことはありませんが、今後そういうところに行ったら間違いなく拒否するでしょう。

何度目かもわからない謝罪を、私の恋愛ごっこに巻きこんでしまった彼に向けてしておきます。今は連絡すら取りあっていないので、ここを見てくれている可能性も少ないのですが、あの頃のことを書いたなら当然のように謝罪が出てくるのです。本当に申し訳ないことをしました。彼にとっては、女の子からの嬉しいプレゼントの一つだったかもしれません。それなのに、気持ちの不純物が混ざりこんだ私のチョコレートがそこにあったなんて、本当に、どう謝罪していいかわからなくなります。

少しずつ呪いは解けていく

大人になっていくにつれ、異性愛でなければいけないという呪いは少しずつ解けていきます。高校の倫理か政治経済の教科書に同性愛者のことが載っていたこと、前述の百合やBLと呼ばれる作品群のおかげです。百合やBL作品には功罪両方の面がありました。私にとって、毒にも薬にもなったのです。

百合やBL作品を読んで私が受け取ったメッセージは、異性愛じゃなくてもいいこと、人は誰かを好きになるものだということでした。異性愛じゃなくてもいいというメッセージは私を安心させ、誰かを好きになるものだというメッセージは私を焦らせ、不安にさせてしまったのでした。だって私は誰のことも、そういう意味で好きじゃない。高校生の私は必死にその事実から逃れようとしました。

ここでもまた迷走してしまい、周りの女の子達や先輩にとても迷惑をかけるのですが、その頃のことは正直あまり記憶にありません。何かをしてしまったのだろうなということはわかりますが、何をしてしまったのか、覚えていません。まだ向きあえない記憶なのかもしれません。

アセクシュアルとノンセクシュアルを知る

そんな迷走した少女時代を送っていた私も、大学に入学して、恋愛に関してはもういいか、と半ば諦めに近い気持ちを抱くようになります。恋愛には向いていないし、異性も同性も愛せない。だったらもう、どうしようもないじゃないか。諦めがついたとも投げやりともいえる、自棄に近いものでした。

アセクシュアルとノンセクシュアルって何?

教養の講義である女の子と知り合い、友人になったことで、そんな私の意識は変わります。彼女はセクシュアルマイノリティについて研究していました。そんな彼女と一緒に過ごすうちに、私は恋愛感情なんか一度も抱いたことがない、ということに気づいていくのです。

そのことを自覚したとき、私は何か変なのだろうか、という思いにかられ、彼女に相談せずにはいられませんでした。相談を聞いた彼女から、アセクシュアルとノンセクシュアルという単語を教えてもらうまで、私の日々は恋愛という分野だけ真っ黒に塗りつぶされた世界でできていました。

アセクシュアルは、他者に対して性愛感情を抱かないセクシュアリティで、ノンセクシュアルは他者に対して恋愛感情は抱くけれど、性的欲求は抱かないというセクシュアリティです。その言葉すらも知らなかった私は言葉を知って、ひどく安心しました。言葉があるということは、それは自分だけではないのです。数は少なくても自分以外にも自分と同じ人がいる。それは安心できる事実でした。

恋愛という分野は、私の世界から消してもいいのだ、と知ることができ、私は真っ黒に塗りつぶされた恋愛の分野を自分の世界から安心して消去しました。こうして私はアセクシュアルを自認するに至ったのです。

性には多様性がある

性には多様性があるということも、彼女に出会って初めて知りました。高校時代の国語の授業で「男を説明しなさい」という設問がありました。それに私は「Y染色体を持っている人間」と答えました。ところがそこには、「幼稚園児でもわかるように」という条件があったのです。それがクリアできなくて、周りの人と思い悩み、答えは出ませんでした。そこに与えられた答えは「女でないもの」でした。その頃の私は世には男と女しかいない、と思っていたので、そうか、そうすればよかったのかと納得してしまいました。

性は男か女かだけでもないし、セクシュアリティは異性愛だけでもありません。そういったことに、私は彼女と話してようやく気づいたのです。

揺れ動くセクシュアリティ

しばらくアセクシュアルを自認していた私ですが、ある日、大好きなアニメを観ていて、好きなキャラクターに恋愛感情のようなものを抱いていることに気づきます。これは時折起こりました。アセクシュアルであると自覚したはずなのに、何故? となりましたが、彼女の「セクシュアリティは変わることもあるし、流動的なものでもある」という言葉に再び安心を取り戻しました。

私の場合は自慰行為などもなく、本当に性愛感情と無縁な時もあれば、創作されたキャラクターに恋愛感情を抱く時もあります。

アセクシュアル、ノンセクシュアルの説明は、狭義・広義と諸説ありますが、私はこうしてノンセクシュアルとアセクシュアルを揺れ動いている、というセクシュアリティの自認に至ったのです。

RELATED

関連記事

ロゴ:LGBTER 関連記事

TOP