02 諦めながら生きるしかない
03 歌うことが好きだからこそ
04 気持ちは受け止めてくれた
05 両親へのカミングアウト
==================(後編)========================
06 夢と現実のはざまで
07 苦悩の日々は続く
08 当事者と繋がって
09 性同一性障害と向き合う
10 遅れて来た青春のなかで
01歌って踊れる歌手になりたい
ませた遊び
東京で生まれたが、父の仕事の都合で転勤が多かった。
「父も母も『転勤が多くて、瞬には寂しい思いをさせた』『なかなか友達の輪に入れなくて、苦労したのではないか』と思っていたようです」
「けれど全然、そんなことはなかったです」
小さなころからどこか冷めた性格だった。周囲の子とは “次元が違っていた” とも思う。
「男子同士のジャングルジム遊びとか、大嫌いでした。家で好きなミュージシャンの歌詞を書き写して遊んでいました。一人で踊りながら、歌ったりもしていました」
憧れの歌手は、安室奈美恵、SPEED、浜崎あゆみ、鈴木あみ。男子目線で可愛いなぁという感慨は全くなく、ただ彼女たちのようになりたかった。
歌が好き
初めて親に買ってもらったCDもはっきり覚えている。安室奈美恵の『SWEET 19 BLUES』だ。
「誕生日プレゼントで買ってもらったんです。ジャケットが4パターンあって、私は安室ちゃんが髪の毛を掻き上げている写真のものが欲しかったんですけど、最寄りのCDショップでは売り切れていました。仕方なく、違うパターンのものを買ってもらいました」
安室奈美恵の影響からだろうか、小学生の時は髪を肩まで伸ばしていた。
「親に『切れ!』って言われるギリギリのラインを探りながら、伸ばしていました(笑)。当時から親の顔色を伺って生きるところがありましたね」
10歳のときの2分の1成人式でも、女友達と一緒に、長く伸ばした髪を振りかざしながら、安室奈美恵やSPEEDの曲で踊り、歌った。
「小学生のときも、女子とばかり一緒にいました。髪の毛の長さも含め、周囲から好奇の目に晒されても、別にいいじゃんと思って、達観して生活していたんです」
小学生のときから恋愛対象は男性だった。
特に臆さず、「○○君が好き」とも公言していた。
「セクシュアリティに関して、まだきちんと理解していなかったから言えたんでしょうね。ただ両親に聞かれたらまずいと幼いながらに感じていたのでしょうか」
「父と母の前では『男子が好き』とは言いませんでした」
男子を好きだという自分を、同級生は悪く言わなかった。
というよりは、誹謗中傷など耳には入ってこなかった、というべきか。自分は自分、人は人と思って生きていた。
大きくなったら歌って踊れる歌手になりたいという夢も変わらなかった。
02諦めながら生きるしかない
髪を切る
セクュアリティのことは引き続きよく分からない。
でも自分は憧れのシンガーのように髪を掻き上げながら、女性として生きることは叶わないんだ。
そう気づいたのが小学校6年生だった。
「上がるはずだった公立の中学校は、私の代から丸刈りでなくてもOKになりました。でも男子が肩まで髪を伸ばすことは許されていなかったんです」
「中学に上がる少し前に、親に理髪店に連れて行かれ、髪をバッサリ切られました。短髪であることを認めることができなくて、自分でも分からないまま、苦しくて泣きました」
父親にしがみついて、大粒の涙を流し続けた。
おそらく父親も、我が子がどうして泣いているのか、理解できなかっただろう。
今でも髪の短い自分が出てくる夢を見てうなされることがある。
そのたびに起きると耳のあたりを触る。髪の毛が短くないか確認してしまうのだ。
今では髪は長いから、それが夢だったと気づいて、やっと気持ちが落ち着く。
それほどまでに当時、髪を切られたことがショックだった。
「中学の校則で男子の髪の長さは決まっていたし、頭髪チェックもあった。逆らったところで、どうしようもない。諦めるしかなかったんです」
「今思えば、校則なんか破って、好きな髪型をすればよかったのかもしれません。でも真面目すぎたんです。それに、ひとりで闘えないなら仕方がない」
「もう諦めながら生きることに決めたんです」
襟詰めの学ランで通うのも嫌だった。けれど決まっていることには、従うしかなかった。
「『我慢していたら、いつかは終わるんだ』と、どこかで思っていたのかもしれません。でも苦しみがなくなることはありませんでした」
晒し者に?
短髪で学ランを着て通学する。男子中学生としては当たり前の日常。
しかしそのことで、いかに自分が苦しんでいるのか。
小学生の頃、何も考えず「男の子が好き」と周囲に漏らしていたように、悩みを口にすればよかったのかもしれない。
でも、できなかった。
「短い髪が、学ランが、どうして嫌なのか。自分でも理由が、整理して理解できなかったんです。そんな状態で他人に話しても、わかってもらえるわけがない」
「理解して欲しい気持ちはあっても、だからと言ってそうと言える次元にはいませんでした」
なおさら両親には話せないと感じていた。
「我が子の異変」に気づかれないよう、いやでも学校に通うしかない。休んだら、あれこれ理由を聞かれるからだ。
「短い髪が、学ランが嫌だと話したところで、親のエゴを見せつけられるに決まっているんです。承諾するわけがありません」
全てを諦め、我慢するしかないと思った。
「テレビのバラエティ番組の影響もありました。お笑い芸人が罰ゲームで、無理やりニューハーフとキスさせられ、周囲から嘲笑われている場面を何度も見ました」
「まだ自らのセクシュアリティについて理解できてはいなかったけれど『自分もこういうふうに、晒し者にされるしかないんだろうな』と、悲しみに打ちひしがれていました」
真っ当に生きることはできないのかもしれない。
抱いていた夢も封じ込めて毎日を送るしかなかったのだ。
03歌うことが好きだからこそ
夢が遠のく
いつまで経っても、苦しみはなくならない。むしろ深まっていくばかりだ。
「小学校高学年から始まった男女分けの体育。中学生になると、ますます嫌になりました。女子のブルマに対して、男子は短パンをはかされて。“特別感”を強調されるのが、本当に苦痛でした」
体育の授業が嫌で、休んでしまうこともあった。それを先生に指摘されて泣いたこともあった。
しかし中学生である以上、与えられた環境を飲み込むしかなかった。
「どんどん声変わりして高いキーが出なくなっていくのも、苦しかったです。女性歌手としてデビューしたかったから、同級生に『声が変わったね?』と言われるたび、夢が遠のいていく気がしました」
学校ではいつも一人。
休み時間は図書館で過ごすことが多かった。
昼休みがなくなれば早く帰れるのに。幾度となく、そう思った。
「中学校は私にとって不必要な過程。けれど耐えるしかない、と思っていました」
非リアルな友達
現実では人と積極的に関われなかった中学生時代。自分の居場所を与えてくれたのは、やはり大好きな歌だった。
「浜崎あゆみやw-inds.のファンサイトの掲示板。そこで自然とメル友ができて。心の拠り所でした」
手紙をやりとりしたり、電話で話をする友達もできた。
リアルに学校で出会う同級生より濃密な関係が構築できたのだ。
「ファンサイトで関わるようになった人の多くは東京在住者でした。何年か後に上京したときも気にかけてくれて、とても心強かったんです」
結局、中学では友達といえる人はいなかったが、ネットを介して多くの人とつながることができたのだった。
04気持ちは受け止めてくれた
正反対なふたり
高校へ進学した。
「でも学校に行って “ハコ” の中で過ごすことが、もともと得意じゃなかったから。毎日通うのが辛くなって、2年生で中退してしまいました」
今思えば、男子用の制服を着て学校に行くこともストレスの理由だっただろう。
「通信制高校に編入しました。私服で登校できるのが魅力的だったんです」
そして、初めての登校日。
ある男性と出会って恋に落ちた。
「それまでも男の子を好きになったことは何度もありました。けれど彼に抱いた気持ちは、明らかに異なる感情でした」
「今までの好きとは、まるで違いました」
教室で初めて顔を合わせたときは、なんとも思わなかった。帰りに電車に乗ったとき、奥の車両に彼を見つけた。彼も自分に気づき、目で合図を送っていた。
「彼と話していて、どんどん惹かれていく自分がいました」
「見た目はヤンキーっぽいんですけど。とにかく笑顔がいいんです。穏やかで、見ているとぽわーっと、温かな気持ちにさせてくれる。『そっか、私は安心させて欲しかったんだ』って感じたんです」
彼は “日曜日の15時” みたいな人だ、と思った。
ゆったりとした空気をまとっている。そして言葉少なな彼に、早口で話し続ける自分は、まるで高速道路みたいな人間だ、とも感じた。
何もかもが対照的なふたり。
だからこそ、惹かれたのかもしれない。
哀しい告白
彼のことをきちんと好きになれたのは、セクシュアリティの問題を整理できたことも大きかった。
「『3年B組金八先生』で上戸彩さん演じる鶴本直をみて、私も同じだと確信しました。正式に治療を受けたわけではないけれど、性同一性障害に違いないと思ったんです」
その気づきによって、思い切って気持ちを切り替えられたからこそ、彼への恋心も素直に受け入れることができた。
「当時は化粧もしてなかったし、服装もメンズでした。だから傍目には、一緒にいても、友達同士に見えたと思います」
ただ思春期の男友達との会話にありがちな、恋愛の話は一切しない。むしろ自分がつい、女性のことを悪く言ってしまう。
そんなときも彼は「女性が嫌いなんだよね」と不思議に思うでもなく、伝え返すような自然さで、ひとつの個性として受け入れてくれた。
「仲良くなるにつれて、自分の事情を知ってほしいと思うようになりました。好きだという気持ちも伝えたかった。告白することにしたんです」
もちろん彼にどう思われるか怖かった。
だが自分のことを知ってほしいという気持ちが勝ったのだ。
「『急に女って言われても、男にしか思えない』と言われました。フラれたうえに、その後、彼に彼女ができて。ダブルでショックでした」
数ヶ月後、彼も彼女にフラれ、また親友としての付き合いが再開した。
彼への恋心はまだあったから、以後も何度か気持ちを告げた。彼はその度に、優しくなだめてくれる。
思いは通じなかったけれど、気持ちは受け止めてくれたようだった。
05両親へのカミングアウト
一緒に病院へ
しかし初めて告白した彼にフラれた衝撃はあまりに大きかった。
ショックのあまり、悲しみを自分の胸だけに閉まっておくことができず、母親にカミングアウトしてしまう。
「好きな男の子に告白して、フラれて苦しい。私は性同一性障害なんだよ、って素直に言いました」
母親の第一声は「それって治るの?」だった。
トントン拍子に話が進んで、病院で診断してもらうことになる。
「ちょうどタイミングよく『私が私であるために』という、性同一性障害をテーマにしたドラマが放映され、母はGIDへの理解が、ぐっと深まったようです」
「父には母から説明があったようで、私がカミングアウトしたときには『ふーん』と言うだけでした。ちょっとふてぶてしい態度で、何か言いたげではあったけれど、父としても認めるしかない、という雰囲気でした」
とは言っても、この時点では両親も半信半疑だった。大学病院へ行ってから6ヶ月、ようやく性同一性障害の診断書が出た。
「親も認めざるを得ないという感じでした。私としては『そりゃそうでしょ』と思っただけで、病名が書かれた紙切れを見ても何の感慨もありませんでした」
「それよりカウンセリングに6ヶ月もかかるなんて、お金も時間もったいない、とやるせなさを覚えました」
病院とのやりとりにかかる労力を通して、その時は性同一性障害に対して、まだまだ社会は不寛容であると痛感した。
身近にある偏見
しかし不寛容は、もっと近くに存在した。
両親が自分の行動に口を出し始めたのだ。
「告白してフラれて以降、化粧をして、女性の服装もするようになりました。レディースの服を洗濯物に出すのに抵抗はあったけれど、両親にはカミングアウトしたし、問題ないとも思っていました」
しかし母は、隣近所の目を気にした。
外出しようとすると「その服、バッグで出ていかないで!」と口うるさく言うようになった。
「結局、子供より世間体が大切なのか、と落ち込みました」
しかし、あるとき家に帰ったら、部屋にレディースの新しい服が置いてあった。いつも同じ服を着ている自分をかわいそうに思って、母が新調してくれたのだ。
「残念だったのは、その服があまり自分の好みではなかったこと(笑)。ただ母も、心配はしてくれているんだな、と思いました」
親も子も、自我と世間体のあいだで、進むべき道を模索する日々が続いていた。
<<<後編 2016/11/22/Tue>>>
INDEX
06 夢と現実のはざまで
07 苦悩の日々は続く
08 当事者と繋がって
09 性同一性障害と向き合う
10 遅れて来た青春のなかで