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Writer/チカゼ

クィアな子どもだったぼくと母の「スカート戦争」

「女の子」を望んでいた母親が幼いころぼくにあてがっていた服は、それはそれはひどい少女趣味なデザインなものばかりだった。昔の写真に写るぼくはいつだって、ピンクのふりふりぴらぴらに包まれて口をへの字に曲げている。そんな幼き日の自分にも、そして理想の娘が手に入らなかった母にも、今のぼくは同情を寄せずにいられない。

娘の「スカート嫌い」を受け入れられない母

ぼくは何の因果か弟と一緒に同じ子宮に着床してしまった、“男女の二卵性双生児” である。男の子と女の子を同時にその身に宿したからか、母は弟には「男の子らしさ」を、ぼくには「女の子らしさ」を、過剰に当てがおうと躍起になっていた。

ピンクハウスの虜になっていた母の不運

母にとって不運だったのは、「女の子らしさ」を当てがおうとした方のぼくが、尋常じゃないほどのスカート嫌いな子どもだったことだろう。無理に着せようものなら泣いてわめいて嫌がったと、大きくなってからため息まじりに散々聞かされた。

というのも母には、ある壮大な夢があったのだ。

ぼくが生まれた当時、ピンクハウスというピンクピンクピンクなふりふりぴらぴらブランドがめちゃくちゃ流行ったらしくて、どうもそこの服が彼女のツボに入ったらしい。「もしもお腹の子が女の子だったなら、ピンクハウスを絶対に着せたい!」と意気込んだ母は、性別がわかった病院からの帰り道、鼻息荒くピンクハウスの洋服やら小物やらを買い込んだ。

幼稚園用のハンカチまでピンクハウスのピンクの刺繍が施されたものばっかり持たされて、幼心にめちゃくちゃ恥ずかしかったのを覚えている。たしか意地でも園ではポケットからそれを取り出すことはしなかった。

ところでもうこの時点で「ピンク」の文字がゲシュタルト崩壊を起こしてきている。最後まで書き切れるかいささか不安だが、とりあえず進もう。

登園後にスカートからズボンへ履き替える作戦

ぼくのスカート嫌いのエピソードで、いちばん強烈に覚えているものを紹介したい。幼稚園の制服のスカートが嫌で嫌で、でも抵抗したって仕方ないことはわかっていたから、とりあえず大人しく履いて家を出る。

そして幼稚園に着いた瞬間、体操着のズボンに履き替えるのだ。帰る間際にまた履き直せば、母にバレることはない。しばらくはそれで誤魔化せていたんだけど、しょせん幼児の考えることだ。詰めが甘かった。

廊下に展示された園内で撮影された写真に、「下だけ体操服」というへんてこな格好をしたぼくががっつり写り込んでいたのだ。それを見つけた母は激昂し、ぼくをボコボコにした。「園で体操服に履き替え作戦」は、あえなく失敗に終わった。

『小公女セーラ』ではなく、『怪盗ルパン』

小学校に入ると髪を短くし始めたぼくは(美容院で施術しているあいだ母は買い物をしながら外で待っているため、そのすきを突いて美容師さんに「もっと短く!」とお願いしたりしていた)、第二次性徴が始まる前まではしょっちゅう男の子に間違われるようになった。

生まれてくる娘には、ピンクのふりふりを身にまとい、ピンクの天蓋付きベッド(これは誇張ではなく当時の母の真剣な願いである)で眠り、休日にはお菓子を一緒に焼き、『小公女セーラ』を好む、そんな心優しい女の子に育ってほしい。

そんな願いとは裏腹に、娘はピンクのふりふりも天蓋付きベッドも断固拒否し、小学校高学年でロックバンド・Queenにハマり、『怪盗ルパン』シリーズを読みふける、謎の生き物に育ってしまった。

母も母で苦しかったろう、それには同情する。自分から生まれてきたはずの娘が、自分とは似ても似つかない到底理解し得ないエイリアンに成長していく様は、恐怖でしかなかったと思う。

クィアの自分と母の愛、究極の二択の狭間で

母とぼくの気持ちは相容れないものだったけど、一方、母の期待に背くことを、ぼくもまた恐ろしく思っていた。あのときもっとも強く感じていたのは、負い目でも申し訳なさでもなく、母から見放されるのではないかという恐怖だった。

スカートに抱く「生理的な嫌悪」

性別違和への自覚は、何度も書いてきたように比較的早い方だった。物心つくころにはすでに自分が「女の子ではない」と明確に知っていたし、それこそ幼稚園くらいのときは弟と同じペニスがほしいとすら思っていた。もちろん、知っていたとてどうすればいいのかも、そもそも自分が「何」なのかもわからなかったけれど。

自分の望む容姿は、母の希望と真逆だ。このままいけば、いつか母の愛を失うかもしれない。けれども、スカートもピンクもふりふりも、ぼくはどうしても受け入れられない。それはもはや、生理的な嫌悪だった。初潮を迎え、胸が膨らむと、その感覚はよりくっきりとしたものになっていった。「ああ、スカートが嫌な理由はこれと同じだ」と、そのうちすとんと理解した。

こういうことを書くと、「スコットランドの民族衣装はスカートじゃねえか」なんていうわけのわかんない批判をまたぶつけられかねないので、一応述べておく。ぼくだって、今はスカートがけっして「女性のもの」ではないことくらい知っている。

でも現在この社会では、スカートは「女性の衣服」と見なされている。そのイメージがつきまとう以上、ぼくがスカートに生理的嫌悪を催すのは当然と言えよう。この社会においてスカートに「女性」のイメージが染み付いてさえいなければ、ぼくだってここまでスカートを拒否しなかったはずだ。

クィアの自分を捨て去るか、母の愛を失うか

社会的な女性性と結びつきの強い「スカート」を履くことは、当時のぼくにとっては性別違和と同義だった。あれを履いたら、自分は「女の子」であると認めることになってしまう。アイデンティティの崩壊と、母の愛と。子どもにとってこれ以上残酷な二択など、この世に存在しうるだろうか。

クィアに対してしばしば寄せられる愚問の一つに、「自分たちの生きづらさを社会のせいにするな」というものがある。実際、ぼくも何度もそのようなクソリプをTwitter上でぶつけられた。そうだよ、あんたたちみたいな人間がいる社会のせいで、ぼくらは生きづらいんだ。そう答えてやりたい。

スカート=「女性のもの」という意味づけを行なっているのは間違いなく社会であって、ぼく個人じゃない。その前提の上で、昔のぼくに──幼いクィアの子どもに、迫るのか。「クィア自身が衣服を性別で分けるなんておかしい」「矛盾している」と。

あのころぼくは、究極の二択の前に立ち尽くしていた。自分のアイデンティティを捨て去るか、母の愛を失うか。その恐怖が当時のぼくが抱える生きづらさに繋がっていたことは、もはや自明だ。

あの手この手でスカートを着せようとする母

ぼくが通っていたのは指定制服のない中高一貫校だったために、10代のうちはほぼスカートを避けて生きることができた。普段はスウェットやTシャツにデニム、式典のときはブレザーにチェックのショートパンツというような、自分なりに納得のいくジェンダーレスな服装で学校生活を楽しんでいた。しかしそのあいだも、母の「スカート履きなさい」攻撃は止まなかった。

正月や盆の親族の集まりなんかでは、ピンクハウスのふりふりぴらぴらなワンピースを強制させられ、屈辱に震えたこともある。校則に髪色の規定はなかったため、そのときのぼくは短く切った髪をブリーチしていたのだけど、その派手な頭と少女趣味な服の取り合わせはあまりに滑稽だった。

「お願いやから普通にして」
「普通の女の子やったら、こういう場ではワンピースを着るものなんやで」
「こういう日くらい、ママに可愛らしい格好見せて?」

あるときは引っ叩き、あるときは怒鳴りつけ、あるときは諭し、あるときは泣きつく。あの手この手でスカートを強いる母に、最終的には「たまになら・・・・・・」と折れてしまっていた。

自分のアイデンティティを犠牲にせねば母の愛を獲得できなかったこと、その傷は今でもかさぶたの下でじくじくと膿んでいる。

ジェンダーレスな服装を捨て去ろうとあがいたけど

母とぼくのスカート戦争は思春期──成人するまで続いたが、両者とも深い傷を負った。裏切られた母と、理解されないぼく。そしてそれは、意外な形で終焉を迎える。

ジェンダーレスな服装を捨てなければ、社会で生きていけない

LGBTだとかそういう言葉を知ったのは、たしか高校生のころだ。それらに自分が当てはまるかどうかまでは確信が持てなかったものの、限りなく近い存在だということだけは理解していた。そして同時に、「そういう人間」としてこの社会を生き抜く勇気は持てなかった。

そもそもぼくは日本と韓国とロシアのミックスルーツを持つ、人種マイノリティでもある。この属性が日本社会においてどれだけ不利かは骨身に染みていたため、これ以上マイノリティの要素を背負うのはごめんだったのだ。

ノンバイナリーの自分にふさわしいジェンダーレスな服装が許されるのは、せいぜい20歳までだろう。「ボーイッシュ」の隠れみのが機能するのは、「少女」の時代までだと知っていた。だから大学進学とともに、ぼくは決意する。

いずれ「女性」として社会に出ていかねばならぬのなら、まずは普通の「女の子」にならなければ。そのためには髪を伸ばし、ジェンダーレスな服装を捨て、スカートを履かなければ。

そうすれば、幼少期から10代にかけての母への裏切りもゆるされるはずだ。事実、大学生になりスカートを自ら選ぶようになったぼくを見て、母は「やっぱり女の子やなあ」と目を細めてくれた。

堂々とメンズ服を着る同級生への妬み

大学時代、セクシュアリティを「捨てる」なんて不可能だということを、ぼくはまだ知らなかった。

努力次第で「女性」になれるはずだと、どこかで思い込んでいたのだ。あるいは「女性」のふりをして生きることは、クィアとして生きるよりも楽だと勘違いしていたのか。今となってはわからない。

そして大学入学後、FTMの同級生と出会うことで、そんな生き方はぼくには土台無理だと悟った。彼とはさほど親しくもなく、友だちと呼べる距離感ですらなかった。だから彼について知っていることなんてほんのわずかなはずなのに、ぼくはなぜだか彼のことが嫌いだった。

その理由は、今ならはっきりとわかる。あれは明確な嫉妬だった。自身のセクシュアリティを堂々とオープンにし、メンズ服を着てキャンパスを闊歩する。その姿が眩しくて妬ましくてかっこよくて、似合わないスカートを履いた自分がたまらなくみじめに思えたのだ。

結局、ジェンダーレスな服装に舞い戻ってしまった

10代のころは毎月バイト代をかき集めて古着を買い漁るほど、服が大好きだった。しかしそのころから、自分が何を着たらいいのかまったくわからなくなっていった。あんなに大好きだったファッションは楽しめない。スカートを履く自分の姿を鏡で見るのが苦痛で、母の好きなピンク色はきつい顔立ちにはおそろしいほど似合わない。

鬱屈した気持ちが弾けるときは、突然やってきた。

大学3年生のある日の帰宅途中、渋谷駅で山手線に乗り換えて原宿駅で降りると、衝動的に昔通っていた古着屋に向かった。かつて捨て去ったメンズ服、ラルフローレンやリーバイス501、チャンピオンを着た自分を試着室の全身鏡で見た途端、「ああ、これが自分だ」と脱力した。結局ぼくは、クィアを“辞める” ことも、女性になり切ることも、できなかったのだ。

子がクィアであることを悲観しないで

「思春期特有の性の揺れ」から抜け出した娘が、わずか数年で元に戻ってしまうだなんて。母の絶望はどれほどか想像すると胸が痛まないでもないが、ただぼくはこの生き方を選んだことに後悔はない。

スカート=「女性のもの」の犠牲者には、母も含まれる

スカートにべったり貼り付けられた女性性、この犠牲者はぼくのようなクィアに留まらない。

母もまた、このラベリングに振り回された1人だ。こんな価値観さえなければ、母だってスカートを拒むぼくに対して、あそこまで激昂したり悲しんだりはしなかったろう。「私の望む女の子像とは違うのね」と残念に思ったかもしれないが、少なくとも危機感を抱いたり絶望したりはしなかったはずだ。

当時の母はぼくを「クィアなのでは」とまでは感じなかったろうが、「この子はどこかおかしいんじゃないか」と怯えてはいた。スカートは女性のものであり、たいていの女の子はスカートを拒まないはずだ。

もちろん好みはあるだろうが、これほどまでに嫌がるのはいくらなんでもおかしすぎる。──こんな具合に思い詰めることもなければ、その焦燥をぼくへぶつけることもなかったろうに。

母とのスカート戦争を通じて、想うこと

出生時に割り当てられた性別とは異なる性表現を好む子どもに対し、親たちが戸惑うのはわかる。だけどそれを「矯正」しようとするのだけは、どうかやめてほしい。ぼくの母も、耳にタコができるほど言っていた。「あんたのためを思って言ってるんやで」「いつまでもそんな格好してたら、笑われんで」と。

でもそれは果たして、本当に「子を想うゆえ」の助言だろうか。自分の理想を押し付け、自分の不安を解消したいだけのエゴではないのか。

割り当てられた性別どおりに生きさせることが、真に子の幸せに──ひいては健全な親子関係に繋がるだろうか。ぼくと母は、少なくとも違った。長い長いスカート戦争でぼくと彼女に残ったのは、生涯いえぬ傷と埋めようのない深い溝、それのみだ。彼女は永遠にぼくを理解できないし、ぼくもまた永遠に彼女を母として慕えない。

そして親の顔色をうかがい、自分の好む服装を諦めたり、あるいは貫き通すことに迷いを覚えているクィアの子どもに、願う。どうかあなたが、あなたの素敵だと思うものを選び取り、身にまとい、のびのびと生きることができますように。それはきっとあなたの人生のいしずえとなり、あなたの道しるべになるだろう。

母への申し訳なさを抱えつつも自分の好みを優先したぼくは、ジェンダーレスな服装で駆け抜けた幼少期から10代を、今はそれなりに愛しく想っている。

 

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