複数の人と同時にそれぞれが合意の上で性愛関係を築くライフスタイル「ポリアモリー」。ネット記事などでポリアモリーが取り上げられることが増えてきたなかで、ポリアモリー当事者の私は「ポリアモリーには何の制約も束縛もない」という説明に違和感を覚える。今回は、このような世間の認識のズレとポリアモリーの規範について解説していきたい。
ポリアモリーは自由恋愛?
ポリアモリーですべての常識をぶっ壊す?
今回は、ポリアモリーと規範について考えてみたい。
世の中に少しずつポリアモリーについての発信が増えてきた。それは嬉しいのだが、ネット記事などでよく見かけるのが「ポリアモリーは自由恋愛!」「何の制約も束縛もない!」といった喧伝の仕方。一見カッコいいようだが、私はこういった説明にはちょっと違和感を覚える。
以前、私の主催するポリアモリーのイベントに来て「ポリアモリー最高! すべての常識をぶっ壊したい!」と息巻いていた人がいたが、私は正直「すべての常識をぶっ壊しちゃったら、それはそれで不自由なんじゃないのかな・・・・・・」と首をかしげたくなった。
規範とは無意識下に刷り込まれるもの
そもそも、常識にせよ規範にせよ、生まれた時から世間で育ってゆく中で無意識下に刷り込まれるものなので、自分の中に根付いている常識や規範をぶっ壊す以前に、すべて自覚することすらままならないはず。
むしろ、何の常識も規範ももっていない人とコミュニケーションしたり、関係性を築いてゆくこと自体、非常に難しいのではないだろうか。
「合意を重んじる」というポリアモリーの規範
「我慢」という規範
ときたまポリアモリーに対して、「合意があれば何でもアリか!」というような批判をぶつけられてびっくりすることがある。「合意があっても複数人と恋愛するなんてダメ」「我慢しなければならない」という意見を見ると、「我慢する」ことがいかに強い規範として人々の意識に刷り込まれているかを実感する。
「当事者達の合意があってもダメなものはダメ」って、一体どういうことなのだろう・・・・・・。つまり、どうもその根底には「当事者達の合意よりも優先するべき価値がある」という考え方があるらしいのだ。
高瀬舟のエピソード
たとえば森鷗外の小説「高瀬舟」に出てくる兄が弟の自殺を助けるエピソードは、そのような考え方を問うものと言えるかもしれない。自殺しようとしたけれど死にきれなかった弟と、その自殺を助けてやった兄。当事者達の合意の上のことだ。でも、兄は法律上は殺人の罪に問われ、島流しの刑に処されてしまう。
高瀬舟のエピソードについては、「当事者達の合意があるならいいじゃないか」「合意があっても殺人はダメだ」両方の議論があるだろう。ポリアモリーも、まさにそのような議論に晒されているのだと思う。
「合意を重んじる」という規範
とはいえなんだか勘違いされがちなのだが、ポリアモリーは基本的に「あらゆる規範は不要」などと主張するものではないし、無秩序状態や無法地帯を推奨するものでもない。
当事者達の合意を何より重んじるという、いわば ”合意至上主義” みたいな特徴を備えた概念だとは思う。
ただ、あらゆる規範を無視するわけではなく、「合意を重んじる」という独自の規範なのだ。だから、ポリアモリーか否かに関わらず、規範と「合意を重んじる」こととは、上下関係にも対立関係にもならない。
合意を重んじることそれ自体が、ポリアモリーにとっては規範のひとつなのだから。
規範とは ”思考のショートカット”
合意が完璧とは限らない
人間は間違ったことに合意したり、合意した後に後悔したりする存在だ。だから、合意を最上位の価値とする社会であっても、それがいつも完璧な結果を生みだすとは限らない。
合意を重んじることにも、それ以外の規範を重んじることにも、それぞれのメリットとデメリットがあり、各個人の向き不向きもあるだろう。私が「ポリアモリーは誰にでもできる」「誰もがポリアモリーを営むべきだ」などと言わない理由がそこにある。
ただ、合意を得るという営みに限界があるからといって、「だからポリアモリーよりモノガミーの方がいい」と言えるものでもない。合意を得るという規範が完璧なものだとは思わないけれど、数ある規範の中でも ”マシなもの” であるとは言えるだろう。
規範とは ”思考のショートカット”
規範とはある意味 ”思考のショートカット” なので、もし自分の価値観に合っていて自分を生き易くする既存の規範があれば利用すればよいし、そういった規範がなければ自分のために新しい規範を作ってもよい、と私は考えている。
どんな社会であろうと、それぞれの時代や地域や属する集団によって生まれる規範は異なるのだから、私達は必要に応じてさまざまな規範を取捨選択していけばいいと思う。
規範のための人間ではなく、人間のための規範
規範に ”乗る” か否かを決める
ポリアモリーは何も、世の中のあらゆる規範に抵抗するレジスタンスというわけではない。
すべての規範が悪ではないし、すべての規範が善でもない。私は、人は誰しも自分を生きづらくする規範に従う必要はないし、自分を生きやすくする規範なら利用すればいいと思う。
大切なのは、どのような規範があるかを認識すること、そしてその規範に ”乗る” か否かを自分の頭で考えて決めることだと思うのだ。
人間のための規範
規範は ”思考のショートカット” としては効率的で便利なものだが、既存の規範ばかり利用していると思考停止を招く危険性もある。批判的な態度で規範を見ることや、必要に応じて規範を使ったり、規範と戦ったり、規範を改善したりしてゆくことが大切だろう。
規範のために人間がいるのではなく、人間のために規範があるのだ。自分が生きやすくなる規範があれば使えばいいし、生きづらくなる規範であれば使う必要はない。また、他人に規範を押し付ける必要もない。
規範に主体的であること
規範を軽視することと同じく、規範に対してなんら批判せず思考停止して唯々諾々と従うことも、やはり社会の荒廃を招くと考えている。
「合意を得ること」を含めて特定の規範を使うにせよ使わないにせよ、私達は規範に対して主体的であることが重要ではないだろうか。