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「在日台湾人」で「ゲイ」という二重のマイノリティ、それでも日本で生きていく【前編】

台湾で生まれ育ち、現在は兵庫県・神戸に暮らす劉さん。関西弁が身にしみついているそうで、「がんばって標準語でしゃべりますね!」と笑顔を見せつつも、時折ポロっと出てしまう関西弁がとてもチャーミングだった。カラリと陽気に振る舞う劉さんだが、「在日外国人」「LGBT」という、二重のマイノリティ問題と常に隣り合わせで生きている。日本人にはほとんど知られていない、日本社会が抱える問題。劉さんの目には、我々の社会がいったいどのように映っているのだろう?

2017/07/20/Thu
Photo : Taku Katayama  Text : Mana Kono
劉 靈均 / Ariel Ling-chun Liu

1985年、台湾生まれ。高校生の時に自身がゲイだということに気づく。27歳までを台北市で過ごし、国立台湾大学日本語文学系修士課程を修了後、高校と大学での非常勤講師を経て、2013年に日本へ渡る。現在は、神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程に在籍。専門は台湾セクシュアル・マイノリティ文学や植民地文学。関西とアジアのLGBTを繋げる団体「関西同志聯盟」共同代表。

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INDEX
01 小さい頃から「ジャパオタ」だった
02 絵に描いたような文学少年
03 自分はゲイなんだ
04 いじめられっ子から一転して、学生のリーダーへ
05 大学院生と非常勤講師の二重生活
==================(後編)========================
06 日本への留学を決意
07 在日外国人として生きること
08 日本と台湾で、LGBT問題はどう違う?
09 マイノリティだからこそ見える社会
10 人種で差別され、セクシュアリティでも差別される

01小さい頃から「ジャパオタ」だった

日本のゲームに熱中!

台湾に生まれ、27歳までは台北で暮らしていた。

日本の大学院に留学することになって、神戸で生活をはじめてから今年で5年目となる。

日本に興味を持ったのは、小学生くらいの頃。

『スーパーロボット大戦』という、日本のテレビゲームがきっかけだったのを覚えている。

ゲーム中の文章は、中国語翻訳されていなくて日本語のまま。だから、どうにか自力で意味を読み解くしかなかった。

最初は、中国語で書かれている攻略本を読みながら、武器や技の意味を調べていた。

「でも、攻略本にはストーリーのネタバレまで全部書いてあるんですよ。それじゃつまらんわ!と思って、独学で日本語の勉強をするようになりました」

ゲームでは、キャラクターや武器の名前がカタカナ表記になっているものが多い。

「だから、普通に日本語を勉強しようとしたら平仮名から覚えるんでしょうけど、私はカタカナから入ったんです」

10歳頃から、コツコツと勉強を重ねていった。

「ちゃんと文章を書けるようになったのは大学に入ってからですけど、それまでにある程度の日本語は読めるようになっていました」

日本文化が大好きな「哈日族(ハーリーズー)」

中学生になってからも、ゲームにどっぷりの生活。

それと、J-POPも好きだった。

現在でいうところの韓流ブームと同じように、台湾でも日本カルチャーがブームだったのだ。

「当時は、宇多田ヒカルと浜崎あゆみがすごく流行ってる時期でしたね。B’zも大好きでしたよ」

「でも、一番好きだったのは愛内里菜とGARNET CROW!残念ながら、どちらももうあまり見なくなりましたけどね・・・・・・」

日本のアニメやファッション、ドラマなども、台湾では広く人気があった。

「そうやって日本文化にハマる人を、『哈日族(ハーリーズー)』と呼んだりもするんですよ」

02絵に描いたような文学少年

日本文学への興味

高校生になってからは、日本文学にも興味を持ちはじめた。

「翻訳本ですけど、はじめて読んですごいなと思ったのは、村上春樹の『1973年のピンボール』でした」

日本文学は、台湾の文学と比べて性表現に寛容なことにも驚いた。

「村上春樹もですけど、山田詠美を読んだ時はあまりに刺激的で、『日本人すげーな!』と思いましたね(笑)」

「台湾や中国には昔から政治的な圧迫があったので、今でも性的な言説は避けられがちなんです」

出版物に限らず、性に対する話題自体、ある種タブーのようになっている。

「私の時代には、学校での性教育もほとんどないに等しいくらいでした。今はそれほどでもないみたいですけどね」

自分で小説を書くこともあって、絵に描いたような文学少年だった。

嫌いだった父のこと

教育熱心だった教師の母には、幼い頃から「医者になってほしい」と言われて育った。だから、小学校の時には理系の特殊クラスに入っていた。

「数学は好きなんですけど、それ以外の理系科目が苦手で。特に生物学。血が出るのが怖いんです・・・・・・」

そうして結局文学の道へと進んだのは、詩人で編集者だった父の影響もあるのかもしれない。

「私の『靈均』という名前も、父がつけてくれたものです。中国の古い詩人の名前が由来なんですよ」

才能ある父だったが、人間関係全般は不得手。

さらに経済的になかなか安定しない部分もあって、両親は小学生の時に離婚している。

「私は、父にDVもされていたんです。だから父のことは嫌いでしたね」

離婚後は、もちろん母についていくことになった。

03自分はゲイなんだ

男子と女子から同時に告白されて

高校生になるまで、自分のセクシュアリティに疑問を抱いたことは一度もなかった。

「中学生くらいまでは、恋愛にすごく疎かったんです。だから、男女の性的魅力とか、そういうこともあんまりわかっていませんでした」

自分が「ゲイ」だと気付いたきっかけは、同性から告白されたこと。

「その男の子に告白された翌日、たまたま女の子からも告白されたんです」

ひとまず返事は保留にしたものの、突然訪れたモテ期に自分でも面食らってしまった。

当時はクラスでそれほど目立たないタイプだったし、外見にもまったく自信がなかったからだ。

「今でこそ、ジムに通って身なりにも気を遣っていますけど、当時はすごくダサかったんですよ」

そんな自分のことを、どうして好きになったんだろう。

モヤモヤと思いを巡らせているうちに、最初に告白してくれた男子のことが好きだとハッと気付いた。

「でも、男の子よりはやっぱり女の子と付き合った方がいいだろうと思いました。それで結局、女の子と交際をはじめたんです」

16歳で、はじめて彼女ができた。

「でも、ダメだったんです・・・・・・彼女とはキスもしたくなかった」

交際は1年ほど続いたが、結局彼女の思いに応えられず、別れることに。

だからといって、最初に告白してくれた男子とその後付き合うということもなかった。

苦い苦い、初恋の記憶。

知識があったから受け入れられた

「自分は同性が好きなんだ」と気付いたからといって、それほど戸惑うこともなかった。

LGBTに関する本は過去に読んだことがあって、「ゲイ」や「同性愛」といった言葉も知っていたからだ。

「もともと知識があったから、自分がゲイだとわかってもそれほど動じなかったんだと思います。拒否感もこれといってありませんでした」

その後、数少ない親友たちにも「男子が好き」だとカミングアウトした。

親友たちから返ってきたのは、「別にいいんじゃない?」というあっけない反応。

というのも、通っていたのが男子校だったこともあって、ゲイの存在はさほど珍しくもなかったのだ。

「クラスの3分の1くらいはゲイだったんじゃないかと思うくらい、周囲にもゲイが多かったんです」

だからといって差別がゼロだったわけではないが、比較的ゲイに対して寛容な学校だったと思う。

04いじめられっ子から一転して、学生のリーダーへ

満を持しての大学デビュー

高校を卒業後、名門の台湾大学に進学した。

それまでは友達が少なく、クラスの中でも目立たない存在だったが、環境が変わるタイミングで新たな自分に生まれ変わろうと思い立った。

「実は、中高ではずっといじめられていたんです。“ゲイだから” というより、その場の空気が読めないことが原因でした」

「いわゆる “KY” ってやつですね。もはや死語ですけど(笑)」

学生たちのリーダー的な存在になれば、きっといじめられないだろう。

そんな思いから、大学に入学して学生運動に活発に参加するようになった。2年生になって、学生議会で議長を務めたこともある。

「とはいっても、そもそも『いじめられないように』と思ってはじめたことだし、リーダーになる性分だったというわけでもなかったんですよね」

それでも、とにかくがむしゃらだったのだ。

「今思えば、『そんなにがんばる必要はないよ』と、当時の自分に言ってあげたいくらいです」

大学でのカミングアウト

学生議会の選挙は人気投票のようなもの。

幅広い層から票を得るためには、自分がゲイだということを隠しておく必要があった。

「台湾大学で学生議会のトップというのは特別で、その後政治界に入るための登竜門のようなものだったんです」

だから、選挙での競争は熾烈なものだったのだ。

ライバルの揚げ足をとるために、根も葉もないような噂が立つこともしばしば。

そうした争いにうんざりするのと同時に、学生活動にもだんだんと飽きが生じていった。

「学生の政治はもうええわって思ったし、正直、その後政界入りすることにも興味がなかったんです」

今後選挙で争うことがないのであれば、自分のセクシュアリティを隠しておく必要もないだろう。

そうして、はじめて公にカミングアウトすることを決意した。

「学生たちが頻繁に利用している学内のネットの掲示板に、書き込みをしたんです」

“私はゲイです。これまで嘘をついていたわけではないけれど、同じ学生の皆さんにはずっと正直に言いたいと思っていました” と。

「その前にお酒をちょっと飲んで、勢いで言っちゃった部分はありますけどね(笑)」

周囲からは、予想していた以上にあたたかい反応で受け入れてもらえた。

これまで自分のことを「女々しい」と冗談半分でからかってきていた友人から、「あの時は申し訳なかった」と真面目に謝罪されたくらいだ。

学生運動を引退後、社会貢献をしたいという思いから、ゲイサークルに参加。新たな活動をスタートさせた。

また、それまでは学生運動や勉強に熱を入れすぎていたせいで、恋愛をする余裕もほとんどなかった。

「だから、高校生の時に付き合った彼女と別れてからは、大学4年生になるまでずっと恋人がいませんでした」

05大学院生と非常勤講師の二重生活

異性愛者の感覚がわからない

大学卒業後は、そのまま4年間の修士過程へと進んだ。

現在では主に台湾のLGBT文学を中心に研究しているが、最初は研究対象を何にするか悩んでいた。

当時特に好きだった作家は、村上春樹と吉本ばなな、そして川端康成の3人。

しかし、その頃台湾の日本文学研究には、「存命中の作家研究はしない」という暗黙のルールがあった。

「そうすると、村上春樹と吉本ばななはアウト。だからといって、川端康成もすでに研究している人が多い。それで、安西冬衛という男性詩人の研究をすることにしたんです」

だが、彼の作品を読み込んでいて違和感を覚えることがあった。

「レイプされている女性のことを、美的に表現しているような箇所があったんです」

「たとえばアダルトビデオにしても、女性がレイプされているような作品は多いし、それに興奮する男性も多いですよね。でも、私はその感覚が全然わからなかったんです」

世の男性たちは、乱暴されている女性を見てどうして興奮するのだろう?

暴力や乱暴に嫌悪感があるのは、自分が過去にDVを受けていたことが影響しているのかもしれない。

でも、いずれにしろストレート男性の感覚がどうしても理解できなかった。

「そこから『異性愛者とは何か?』ということを考えはじめて、ジェンダー研究をするようになりました」

「今でこそLGBT文学の研究をしていますが、最初は全然別のことをやっていたんですよ」

非常勤講師の仕事

大学院入学と同時に、非常勤講師の仕事もはじめた。

「いくつかの高校で、第二外国語として日本語を教えていました」

授業で多くの学生を前にして、気づいたことがあった。

それは、親からDVされている学生が意外に多いということ。

「自分もされていたから、パッと見るだけでDVを受けているかどうかわかるんですよ。夏なのにいつも長袖で腕を隠している、とかね」

台湾の私立校では、家庭に問題がある生徒は進学クラスに入ることができない。

「だから、生徒たちはたとえDVを受けていても、それが教師にバレないように隠しているんです」

そういう生徒を気遣ってこちらから声をかけても、「ほかの先生には絶対に言わないでください」と言われることもあった。

「勉強はがんばってほしいけど、がんばりすぎて生きる必要はないんだよ」。

生徒たちには、繰り返しそう言葉をかけていた。

 

<<<後編 2017/07/22/Sat>>>
INDEX

06 日本への留学を決意
07 在日外国人として生きること
08 日本と台湾で、LGBT問題はどう違う?
09 マイノリティだからこそ見える社会
10 人種で差別され、セクシュアリティでも差別される

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