NOISE ライター投稿型 LGBT情報発信サイト
HOMEすべての記事 映画『トランスジェンダーとハリウッド』。出演する多様な彼ら自身が語ることの重要性と、トランスアライとして動き出すためにもらった力

Writer/HOKU

映画『トランスジェンダーとハリウッド』。出演する多様な彼ら自身が語ることの重要性と、トランスアライとして動き出すためにもらった力

「トランスジェンダー」と聞いて、私たちはどんな人物を思い浮かべるだろうか。女性的な男性? 男性的な女性? 当事者に出会ったことがなければ、いや、出会ったことがあったとしても、差別的なステレオタイプを抱え続けている人は多くないだろうか。かくいう自分自身も、自戒をこめて。自分の中の差別意識とようやく、まずは薄目を開けて向き合おうと思った時に出会った作品が、Netflixで配信されている映画『トランスジェンダーとハリウッド 過去、現在、そして』だった。

知らず知らずのうちに自分がトランスジェンダーの人たちを傷つけている可能性に怖くなった

友人の発した、「なんでもない言葉」に傷ついた

友人が、私でない誰かに向けて発したSNS上の言葉に傷ついた。私にとっては好きな友人であり、フェミニズムに造詣が深く、ジェンダーを理由とするあらゆる差別に対しても、反対している友人。私はその友人の言葉を信頼していたから、その投稿を無意識のうちに、心の柔らかい部分で読んでいたのだろう。

その友人が、「恋愛感情を相手に対して抱いていないのに『付き合う』なんて無駄じゃない?」と発信していた。その言葉が私に向けられていないこと、友人が「考えさせたい」相手は、何も考えずにこの世の中の恋愛至上主義に迎合して「この人のこと好きではないけど、告白されたし付き合おうかな」と交際を始める人(それが悪いことかは一旦置いておいて)、であるのはよくわかっていた。でも、私は色々考えた末「恋愛感情がないまま、人と付き合」っている。

私の生き方、私が今まで考えて考えてようやく辿り着いたいまの答え、そういったものがすべて根こそぎ否定されたように感じられ、心の奥の方にある柔らかい部分にたくさんのガラスが刺さったような、そんな痛みで泣くことすらできなかった。言葉を吐き出して吐き出して、信頼できる友人に声をかけてもらって、ようやく少し落ち着いて泣くことができた。

自分の「生存」を脅かされる感覚に、他のマイノリティの受けている差別の恐ろしさを、身をもって感じさせられた

私は自分のアイデンティティのようなものが、こんな簡単な言葉で脅かされることが心底怖くなった。それは「生存」を脅かされる感覚に近かった。

彼女は、私のような「恋愛感情のない」人間が存在することを想定していなかっただけだ。そして人間の存在を「想定しない」ことは無邪気な差別であり、人を傷つける。「差別」がこんなに傷つくものだ、ということを、身をもって、身体的な感覚として、初めて実感した。

自分は幸い、ほとんどこんな経験をしたことはない。自分に恋愛感情がないことを自覚したのもつい最近だし、そのつい最近になるまでの間に、簡単に差別的なことを言うような人とは距離を置くことができている。きっとこれからも、ありがたいことに、差別的に扱われることは少ないだろう。

だからこそ、差別的に扱われることに慣れていなくて、こんなに簡単に深いところまで傷ついてしまったのかもしれない。いつかこんな言動に慣れてしまう日は来るのだろうか。SNSでよく話題に上がる、マイノリティの人たち、同性愛者やトランスジェンダーは? がある。話題に上げられることが多いだけに、私以外の人も生存を脅かされるような言説と出会うことも少なくないだろう。

自分自身が誰かの生存を脅かす可能性にゾッとした

自身の体験から、私も誰かの生存を脅かすようなことを口にしてしまっているのではないか。そう疑い始めたらキリがなかった。誰のことも全く傷つけずに生きていくことはこの世界では不可能だ。それでも諦めずに、なるべく傷つけるようなことは「少なく」生きていきたい。

自分は、特にトランスジェンダーについての知識が少ない。ずっと周りにはいないものと思い込んできた。自分から知識を得に行ったこともなかった。

差別をするのは、悪人ではなく、知識のない人間である。まずはトランスジェンダーのことを知ろう。そう思った時に映画『トランスジェンダーとハリウッド 過去、現在、そして』(以下『トランスジェンダーとハリウッド』と表記)という作品に出会った。

映画『トランスジェンダーとハリウッド』はハリウッド映画におけるトランスジェンダーの歴史を観る作品

今の世の中で一から「トランスアライ」として生き始めようとすることは難しいこと

SNSを見ると、ますますトランスジェンダーへの非難は苛烈になっているように感じられる。そして、それらの非難は、よく考えずにぼんやり読み流していると正しいような気がするものも多い。

SNSの時代に、間違った言説に押し流されずに、トランスジェンダーについて体系的に正しい知識を積もうとするのはなかなか難しい。

と同時に、その玉石混交の中にいるからこそ、出会える情報もある。作家の王谷晶さんが先日公開していた「ぷらいべったー」での文章を読んで、その内容に私は共感しかしなかった。1mmたりとも共感できない部分がなかった。そして、「差別なんかしたくないけど、でもトランスジェンダーについて発信するのはめんどくさい・・・・・・」と思っていた自分に、深く巣食っていた差別意識を目の前に突きつけられた。

この文章は、この現代の情報の海の中にいなかったら出会えていなかったからこそ、今の時代に生きていてよかったとも思う。いい文章なのでみんな読んでほしい。

差別意識と向き合った私は、まずは自分の中にある「トランスジェンダーは女装の男性/男装の女性」というステレオな偏見をしっかりと払拭したいと思った。トランスアライとして歩き出すための第一歩として、映画『トランスジェンダーとハリウッド』に出演するさまざまな人たちを見つめよう、知ろう、話はそれからだ。そう考えたのだ。

結論から言うと、この『トランスジェンダーとハリウッド』はハリウッドにおけるトランスジェンダー表象の歴史を知り、そして当事者たる彼らの語りを聞く、というこの二重奏がとても魅力的な作品だった。この二重奏のおかげで、自分はトランスアライとして踏み出すための大事な一歩を踏み出すために、背中を押してもらえた。

ハリウッドにおけるトランスジェンダーの扱われ方を知ることができる

映画『トランスジェンダーとハリウッド』では、数多くの名作映画やドラマ、テレビ番組について、その中でトランスジェンダーがどのように扱われてきたか、がトランスジェンダーたち自身の口から語られる。

最初のうちは、滑稽な笑いの対象としてスクリーンに姿を現すようになったトランスジェンダーたちは、次第に「異形の者」「脅威」として扱われるようになる。ヒッチコックに出てくる女装のサイコキラーの姿が、その典型だ。

そして今度は「異質な者」としてあわれみの対象になる。不幸な売春婦、性別移行のためのホルモン投与が原因で死ぬ患者、性的な暴力を振るわれ殺される被害者・・・・・・。そして駆けつけた警察官が必ず言う「なんだ、男か」という言葉。

そして現代では、そういった過去から現在におけるトランスジェンダーのイメージが、混ざり合いながらも少しずつ差別的で画一的な描かれ方が少なくなっていく。もちろんそれでも問題は山積みではあるものの。そういった歴史が、数々の作品の映像とともに語られていくストーリーだ。

現代の作品について語るようになってから、話しをしているトランスジェンダー当事者の方たちの表情が、少しずつ明るくなっていくのが印象的だった。

物語から「消滅」している日本のトランスジェンダー

日本ではネガティブな役どころという姿すら、パッとは思いつかない。映画に、ドラマに、端の方にでもトランスジェンダーとして描かれる人の姿を探すのは難しい。大抵はシスジェンダーの登場人物だけで物語が進んでいくのではないだろうか。

一方、テレビのバラエティ番組では「ニューハーフ」の活躍が目立った時期があった。その後も出演者は「オネエタレント」と呼ばれる人たちの中に組み入れられ、バラエティの世界に居場所を作っている。

テレビでは「オネエタレントがイケメン俳優にラブコールを送り、イケメン俳優がそれを気持ち悪がる」という表現が定期的に繰り返されてきた。「女装している人は男性が好き」「男性が好きな人のことを気持ち悪がって良い」という幼い頃から繰り返されてきた表現は、日本のエンタメ界から少しずつ減ってきている。これも一つの歴史だ。

ただ、トランスジェンダーはやはり、日本の物語では「主役」として扱われるか、物語に一切出てこないかの2択が多いように思う。日本のトランスジェンダー差別には、ハリウッドとは全く文脈の異なるものがあるのだろう。その違いについてもまた、日本に住むあらゆる人たち、とりわけマジョリティが、自分ごととして責任を持って考えていかねばならないのだと思う。

出演者たちの多様な語りが、重奏的に響き合う

トランスジェンダーも「多様」であることが一目瞭然

映画『トランスジェンダーとハリウッド』において、言葉を紡いでいるトランスジェンダー当事者は、20人を超える。見た目はもちろん、話し方も考え方も、どんな人生を生きてきたのかも、当然全く異なる。マジョリティはマイノリティを一つの名前で「同じ」ように括って考えてしまいがちだが、彼らは、それぞれ違う人間たちだ。

体格の良い人、柔らかそうな肌質の人、全体的に細身の人、髭面の人、銀髪の人、早口の人、ゆっくり喋る人、笑っている人、怒っている人、泣いている人、色々な「個人」がそこに座り、トランスジェンダーとしての経験を軸に、映画やドラマ作品などについて語る場。それが映画『トランスジェンダーとハリウッド』だ。

ハリウッドの歴史を知る作品でもあり、トランスジェンダーを身近に感じる機会にもなる。

時にユーモアを交えて、時に真剣に

出演者のうちの一人が昔の名作映画をコテンパンにけなしたりする描写もあれば、別の一人は「あの作品は『あの登場人物は私だ』と思わせた」と、出会いの芽ばえとして語る描写があったりもする。全員が真剣でふざけていない。でも時にはウィットに富んだ冗談を言う。

男の子になりたい女の子が出てくる映画では、その子は次第に男子に恋をし、女子に戻りたくなってくる描写がありがちである、とトランスジェンダー男性が語る場面があった。彼は「そういう女の子たちは、みんながみんな突然胸をバッと見せるんですよ・・・・・・会話すればいいのに・・・・・・笑」と大爆笑しながら語っていた。私も笑った。

「過去の映画やドラマを批判する作品」と言うとなんだかすごくネガティブな印象を受けるかもしれないが、新しい視点で批判的に観ること(これは決して彼らにとって「新しい視点」ではない、ということには注意が必要だけれど)は楽しい知的活動でもある。賢い出演者たちの語りを笑いながら観ることのできる、そういう意味でも良い作品だ。

互いの存在が互いをエンパワメントしあっていることに感動した

トランスジェンダーの登場人物はみな、当事者であることを明かして表に出て活動している人たちだ。どうしても俳優など表に立つ職業の方が多く、偏りはあるが、ライターや歴史家、映画製作者などもいて、なるべく多様な場にしようという努力が見える。

自分の名前を出して活躍している人が多いからこそ、彼らは互いの存在に勇気をもらっている。

キャンディス・ケインはトランスジェンダー当事者であることを公表し、俳優活動を始めた先駆者の一人だ。その姿に、同じく俳優であるラバーン・コックスは「トランスジェンダーであることを公表しても役者になれる」という希望を抱いたと語る。

そのラバーンが出演した、Netflixのドラマ『オレンジ・イズ・ニューブラック』を通じ、更に別のトランスジェンダー当事者たちがラバーンを「私は彼女が大好き」と語る。若いトランスジェンダー俳優であるトレイス・リセットは、この映画『トランスジェンダーとハリウッド』に出演している、数々のベテラントランスジェンダー俳優の名前を「私のお手本」と語る。

先を歩く人の苦しさや辛さを思うと、手放しには喜べないけれど、この場面はとても「嬉しい」場面だった。幸せが幸せを、勇気が勇気を、希望が希望を繋いでいる、そう感じられて。

この作品は、トランスジェンダー当事者を置いていかない作品だと思うし、まだまだ偏見だらけのわたしたちの目を、「歴史は誰かによって動いてきたし、これからも私たち全員の手で動かせる」という希望に満ちた気持ちとともに開いていくれるものでもあると思う。

トランスアライとして生きたい私は、どうすれば良いのだろう

私たち視聴者が動かないと、スクリーンの外の世界は変えられない

出演者の一人であるラバーン・コックスが最後に語っていたことがある。それは「視聴者が動かないとスクリーンの外の世界にいるトランスジェンダーたちの生活は変わらない」ということ。

どれほど良い映画が作られ、その中でトランスジェンダーが大活躍しても、それはスターとなるトランスジェンダーを作り出すだけ、スターの後ろで生活している当事者は変わらない。それが完全な悪だとは思わないし、多様な姿がスクリーンに載ることは良いことだが、現実との乖離がより多くのトランスジェンダー当事者を苦しめることもあるだろう。

でも、スクリーンの外にいる私たちができることってなんなんだろう。

まずは正しい知識を得ること、動き出すのはそれからでも遅くない

特にトランスジェンダーについて語るとき、誤った認識の人はわりと多いように思う。「トランスジェンダー女性って女装男性のことだよね」だとか、「トランスジェンダー男性って女性が差別されてるから、男性になりたいんだよね、かわいそう」だとか、色々な言葉を当事者に向けたり、世界に向けて発信したりしている人たちがいる。

トランスジェンダーの中にも様々な人がいる。手術やホルモン投与を通して望んだ性別の身体を手に入れる人、さまざまな事情で手術など治療ができない人、身体的には戸籍の性別のまま生活をする人・・・・・・数えきれないほどにさまざまだ。

「こんな人たちなんでしょ」と決めつけることや、典型例ではないものを典型例として挙げてみせること、それは悪意に基づくことも基づかないこともあるだろう。ただ、やはり数が決して多くはない当事者について、圧倒的に数の多いマジョリティが間違ったことを流布したら、それは偏見を強化することになる。私たちはマジョリティだからこそ、そのことに強く自覚的でなければならないと思う。

だからまずは正しい知識を得られる、トランスジェンダー当事者が運営しているサイトを見てみるのも悪くないかもしれない。

私が、不安になった時に頼るサイトはこのtrans101.jpというサイトだ。よく整理されていてわかりやすいし、疑問に思う事柄についてもFAQでまとめてある。

発信しなくても、発信できなくても、きっとできることはたくさんある

発信しなくても、発信できなくても、できることは世の中にたくさんある。

トランスジェンダーについての差別的な冗談に対して、笑って流さない。みたいにマイクロアグレッションに小さく対抗していくことも考えられるし、寄付をする、署名をすることなどによって「小さな声を大きな声に」つなげていくこともできる。

映画『トランスジェンダーとハリウッド』に出演しているラバーン・コックスの言う通り、作品を見るだけではスクリーンの外は変えられないけれど、それでも作品が見られた回数は応援にはつながるだろう。まずは作品を見ることから始めるのも良いのではないか。

そうやってアライとしてできることを見つけて、行動していった先にある社会を信じ続けるのは往々にして苦しいけれど、信じて積み重ねていくことで、差別のない社会はきっと実現できると思う。

生きているうちに実現なんてしないかもしれない。でも、動き出さなければ何かが実現することなんてない。ラバーンの言いたかったことは、そういうことではないか。

現状を変えるには、とにかく動くしかない。できることがたくさんあるからこそ、アライを名乗るのであれば、私たちはとにかく動いてみるしかない。私は、映画『トランスジェンダーとハリウッド』に背中を押され、一番重たい最初の一歩を踏み出した。

小さな積み重ねのひとつひとつに「意味がある」と信じるたくましさと、人を傷つけない繊細な想像力をもって進んでいきたいと思う。

この文章がトランスアライになろう、と決めた誰かの背中を押す力の一つになれたらいいな、という一縷の(少し傲慢な)期待とともに、この文章を締めくくりたい。

 

RELATED

関連記事

ロゴ:LGBTER 関連記事

TOP