02 大好きな母とのお出かけ
03 どうして離ればなれに?
04 児童養護施設での日々
05 早くここから出たい
==================(後編)========================
06 やっと解放された
07 生きづらさの理由は?
08 私はMTFなんだ!
09 心を大切にしていきたい
10 女性らしく生きる
01複雑な家庭環境の下で
父の記憶
実の父親が、いつまで元気に暮らしていたか。不意に聞かれても、正確に答えられないほど、記憶が曖昧だ。
家族のなかで、父親との思い出はあまりない。
「7歳上の姉がいるのですが、私とは父親が違うんです。姉は戸籍上の父の子どもですが、私は両親が結婚したときの仲人さんと母の間に生まれました」
母親からは自分が3歳のとき、姉と父親を残して祖母と私を連れ家を出た、と聞かされている。
「父は小さな鉄工所を営んでいたのですが、経営不振で潰れてしまったらしいのです。それ以降、酒浸りの日々が始まって。理由は、『お父さんが酒乱だったから、家を出た』だと」
7歳上の姉は、血の繋がりのある父の元に置いていかれた。
「物心がつくようになって、父親が酒乱だったと母に聞かされたとき、そんなところに残されて、姉はどんな気持ちだったのだろうと思いました」
「でも大きくなってから、姉にその頃のことを聞いたら『思いやりのある、いいお父さんだったよ』と言っていました。母の言うことと違ったので、そういうこともあるのだな、と不思議に思ったんです」
こうして母親の実家での生活が始まる。
しばらくして祖母がなくなってしまったため、母子家庭となった。
優しかった母
母子ふたりの生活が始まり、母親も寂しかったのだろう。
加えて、異父の元に置いてきた姉へ注がれる愛情も、自分に向いたのかもしれない。
「母はとにかく、私のことを可愛がってくれました」
「当時の自分は男の子のわりにおとなしくて、見た目も女の子っぽかった、と母から聞かされていましたから、ひょっとしたら娘を可愛がるような感じで、接してくれたのかもしれません」
そうやって猫可愛がりされるうち、少しずつ少しずつ、わがままな性格が顔を出し始めた。
だんだん聞き分けのない子どもになっていったのかもしれないと、大人になった今だから、当時の自分を振り返ることができる。
「母は日中、近くの食堂で働いていました。夜は日本舞踊を習いに通っていましたが、師匠のお世話もしていたので、とても忙しそうでした」
いつも帰ってくるのは夜遅く。
「幼稚園の頃は、家にいても、いつもひとりぼっちで寂しかった。寂しいので、小学校に上がってからは、帰り道に一旦、食堂に寄って母の顔を見てから、ランドセルを家に置いて、遊びに行っていました」
02大好きな母とのお出かけ
ここはどこ?
「食堂に行けば母の顔を見れたけれど、それでも遊んだ後に家へ帰れば、ひとりの時が多かった」
夜遅くならないと母は帰って来ない。
だから母親と過ごせるときは、思いっきり甘えたかった。
ときには慕う気持ちが強すぎて、わがままを言ったり、駄々をこねて、母親を困らせたこともあるかもしれない。
「あれは小学2年生のとき。2学期の初日、授業が終わって帰ろうとしたら、先生が私を呼びにきて。『お母さんが迎えにきてるよ』と声をかけてくれました」
昼間は食堂で働いている母親が、 自分を迎えにきてくれた。
それだけでもう嬉しくて、駆け足で校舎の玄関に向かった。
「校門を出ると、母はタクシーを停めて、私を乗せました。タクシーに乗ること自体が珍しかったので、なんだかワクワクして『どこに行くの?』と、はやる気持ちを隠そうともせず、尋ねました」
母親は質問に答えなかった。
タクシーはいくつかの交差点を通り過ぎ、学校の校舎とよく似た建物の前で停まった。
「車から降りて玄関を入ると、何人かの大人が待ち受けていました。ここはどこなのか、母からもその大人たちからも、全く説明がないまま、教室のような部屋に通されました」
そこで何か、テストのようなものに答えるよう指示された。
「この絵は何をしているところですか」「これと同じように紐に通してみましょう」。大人たちが問いを投げかけてくる。
「どうしてテストを受けないといけないのか。理由もわからないまま、場の雰囲気に飲まれ、仕方なく答案に向かいました」
「『早く終わらせて、お母さんと遊びたい』。とにかくそう考えながら、解答を続けました」
大人の腕力
やがてテストが終わった。
「ここに座ってじっとしているように」と、大人たちが指示する。
「喉が渇いていたので、不意に『ジュースが飲みたい』と言いました。いつも母にねだるように」
駄目だと、その大人たちは自分の願いを一蹴した。
「不意にどこに向けるでもない、猛烈な憤りを覚え、『お母ちゃん、お母ちゃん』とわめきながら、その場から逃げ出そうとしました」
母親なら、きっとわかってくれる。
笑顔でジュースを差し出してくれる。
そんな思いがあったのかもしれない。
「外へ走り出す私を、決して逃すまいと言う感じで、大人たちに強く身体を掴まれました。初めて感じる、大人の男の腕力でした。それでもどうしても母に会いたくて、必死に抵抗しました」
かたくなに指示に従わないので、今度は教室よりもっと狭い、会議室に連れて行かれ、大人からひどく説教された。
「父親のいない環境で育ったので、大人の男性から怒られるのは初めての体験でした。怖いのと、なぜ説教されているのかわからない混乱から、気づいたら椅子を投げて抵抗しました」
向こうも椅子を投げ返してくる。
投げ返されたら、また怖くて自分は大声で泣く。
ただただ慟哭する時間が、しばらく続いた。
03どうして離ればなれに?
逃げる母
ようやく興奮も恐怖心も冷め、泣き止んだ頃。今まで強面で自分に掴みかかっていた大人が、優しい声でささやく。
「お母さんと一緒にご飯を食べに行こうか、と言われました。その一言で、救われた気がしました」
そのまま建物内の食堂に連れて行かれた。母の姿があった。
あとでそう知ることになるが、そこは児童相談所の一時保護所だった。
その名の通り、事情があって一般的な児童らしい生活を送ることができない子どもを、一時的に保護する場所だ。
しかし、この時はまだ、自分が母親とどこにいるのか、知る由もなかった。
「食堂に行くとたくさんの子供がいました。気持ちも進まないまま、しぶしぶ目の前のものを口に運びました」
「母は『トイレに行ってくる』と行って、その場を中座したかもしれません。はっきりとは覚えていないのです」
「気づいたら、もう随分と長い間、母がこの場にいないことに気づきました」
不意に不安になって、食堂の窓から外を見る。
目の前にはグラウンドがあった。
そこには、まるで逃げるかのように走って出口へ向かう母の姿があった。
まるで置いて行かれた、捨てられたかのような思い。
あのときの逃げる母の姿だけは、今でも脳裏に刻まれている。
忘れることはできない。
「状況がわからなくて、思わず目がテンになりました。でも母を追いかけないと、もう会うことができない。直感でそう思いました」
すぐに玄関に向かい走り出した
しかし、またも職員が邪魔をして、ドアの外に出ることができない。
「追いかけようとしても、捕まえられて。窓の向こうに、母が自分を置いて去っていくのを、ただ叫びながら見つめるしかありませんでした」
施設への入所
あまりのショックに泣き疲れ、その日は一時保護所で過ごした。が、次の日も母親は迎えに来てはくれない。
しばらくのあいだ一時保護所で過ごしたあと、情緒障害児短期治療施設に移ることになる。
しかし当時は、なぜ自分が施設に入ることになったのか、理解できなかった。そして、その理由は実は今も、はっきりとは分からない。
「今でもたまに、どうして自分を施設に入れたのか、入れざるを得なかったのか、母親に問いただすことがあります」
「でも決まって母は『なんでなんやろうなぁ。あのとき、私はおかしかったんや』と繰り返すだけなのです」
なんとなく周りから伝え聞いているのは、幼稚園から小学校低学年の頃、自分がわがままばかり言って、母親を困らせていた、ということだ。
しまいには暴れ出すので、手を焼いていたらしい。
「困った母が、近所の商店の人に相談したところ『児童相談所があるよ』と言われたようで。だから母は、私を連れて行ったみたいです」
相談所で、ことあるごとに暴れる自分を見て、職員も母親が育てるのは無理、と判断したのだろう。
突然、情緒障害児短期治療施設での生活を強いられ、小学校も変わらざるを得なかった。
友達に「さよなら」を言う機会もなく、施設内の学校に転校した。
情緒障害児短期治療施設で1年半を過ごしたあと、小学4年生から環境上養護を要する児童が集う場所、児童養護施設に移ることになる。
04児童養護施設での日々
陰険なイジメ
情緒障害児短期治療施設での生活も息苦しいものだったが、児童養護施設での毎日はさらに辛かった。
「施設の外にある小学校に通っていたのですが、帰ったら、野球の練習が課されました。グラウンドの状態が良くない冬は、基礎トレーニングもせねばなりません」
「練習で自分がヘマをすると、チーム全員で連帯責任を取らされるんです。懲罰を課せられます」
「私はあまり体力がなかったので、失敗ばかりしていました。私のせいで懲罰を課されたと、いつもイジメにあっていました」
今から40年足らず昔の話。
学校の部活動でも、まだ「シゴキ」が存在した時代だ。今なら大問題だが、その頃はまだ、そういう時代だった。
携帯電話が今ほど普及していないので、外部との連絡手段も乏しく、なかなか問題は露見しなかった。
そして。いじめは施設内だけに止まらなかった。
入所した小学4年生の夏。施設の課外活動で海水浴に行ったときのことだ。
「泳げないのに無理やり深いところへ連れていかれて。溺れそうになっていると、今度は下に潜った上級生から、足を引っ張られるんです」
死ぬかと思った。でも、誰も助けてはくれない。
「施設の職員も笑って眺めているだけで、救いの手を差し伸べてはくれませんでした」
溺れる直前で、上級生が手を緩めたため、死なずに済んだ。
「その後も泳げないと言っているのに、職員から『ボコボコにされるのと、海に入らないで済むのと、どっちがいい?』と脅されて。私はボコボコにされるほうを選ぶしかなかったんです」
いつも上級生と職員に怯えながら、毎日を過ごしていた。
主張できない
「学校でも、なかなか友達ができませんでした」
「やっぱり施設で怯えながら育っているから、暗い性格になってしまったんです。友達の輪に混ざることができなかった」
「好きな時間にテレビを見ることも、雑誌を買って読むこともできなかったから。流行りのドラマや歌、漫画やアイドルのことも全然、知らないんです。情報量がないから、同級生と話しも続かないし」
教室で「昨日のドラマ面白かったよね」「あの漫画の続き、もう読んだ?」という話が飛び交うなか、うまく会話に入っていくことができなかった。
「イジメられて困っていることを、学校の先生に話そうかな、と思ったこともあります。でも施設の職員の耳に入ったら報復されるから、怖くて話せなかったんです」
05早くここから出たい
母に頼んでも
窮状を叫んだところで救いはなく、報復しかもたらされないと悟ったのは、母の行動を通してだった。
「小学校2年生で児童相談所に置き去りにされた後も、月に1回、母は面談に来ていました」
「初めはどうして施設にいなければならないのか、連れて帰ってくれないのか、一緒に暮らせないのか、そんなことを母に訴えていたと思います」
しかし母親から明確な返事はなかった。
「上級生にいじめられていること、職員もそれを見て見ぬ振りをしていること、施設がいかに酷い場所かを、面談のたびに母に訴えました」
もちろん、面談を監視している職員に聞こえないように、だ。
幼心にも、不満を言っていることがバレれば、恐ろしいことが待ち受けている、とわかっていた。
「どれだけ自分の辛さを訴えても、母は私を施設から引き取ろうとはしませんでした」
「それどころか施設の職員に、私が『ここを出たい』と言ってるけれどどうしたらいいか、と逆に相談してしまったんです」
当然、職員にこっぴどく叱られた。
誰も自分を助けてはくれない、と痛感した瞬間だった。
ひょっとしたら当時は母親にも何かしらの理由があって、我が子のことすら考えられないような状況だったのかもしれない。
それを知りたくて、今でも母親に質問するが、やはり明確な答えはない。
「ただ当時は、母を恨む気持ちすらありませんでした。本当に毎日が大変で、憎む余裕すらなかったんです」
ここを出たい
「施設にいても、いつも家のことを考えていました。居間の風景、夕げの匂い。たわいもない日常の景色を、ただ思い出していました」
でも、その普通の生活すら、手の届かない場所にあった。
「施設に友達といえる人は、ほとんどいませんでした。結局はみんな長いものに巻かれる、ヒエラルキーの頂点にいる人たちに取り入るから、仲良くなれなくて」
「いつも一人で、孤独でした」
それでも心を許せる友達が、一人だけできた。
「いつも二人で、ここから出たいねって、そればかり話していました。それができないなら、もう宇宙の塵になってしまいたかった」
鬱々とした気持ちのまま、15の春を迎えようとしていた。
<<<後編 2017/04/06/Thu>>>
INDEX
06 やっと解放された
07 生きづらさの理由は?
08 私はMTFなんだ!
09 心を大切にしていきたい
10 女性らしく生きる