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トランスジェンダーという言葉と向き合うまでの長い道のり【前編】

自分はほかの人と違う。自分はいったい何者なんだ? トランスジェンダーという言葉を知ってからも、究極の疑問から目を背け続けた。しかし、社会人になってからつき合った女性が自分を男性として接してくれ、現実を見つめるきっかけを作ってくれた。治療を始めた時期は遅かったけど、それが自分の運命だと今、思える。

2024/04/24/Wed
Photo : Taku Katayama Text : Shintaro Makino
露木 逢人 / Aito Tsuyuki

1990年、神奈川県生まれ。子どものころから男勝りで、女の子らしいものは一切、受けつけなかった。セクシュアリティの悩みを紛らわすように打ち込んだのがバレーボール。強豪高校、大学の多くの時間をコートで過ごす。職業は公務員。いくつかの恋を経て、29歳でホルモン治療開始。性別適合手術、戸籍の性別変更も行い、最愛のパートナーと2024年4月19日に結婚式を挙げた。

USERS LOVED LOVE IT! 24
INDEX
01 仲のいい姉とソリの合わない兄
02 男女を分けることに感じ始めた違和感
03 誰にも止められない、取っ組み合いのケンカ
04 バレーボールに捧げた高校生活
05 トランスジェンダーという言葉から目を背けた
==================(後編)========================
06 初めての交際。こういうことなんだ!
07 配属先は町役場の定住対策室
08 想像もしない流れでのカミングアウト
09 前提なしに男としてみてくれた人
10 LGBTQの課題に積極的に取り組む町へ

01仲のいい姉とソリの合わない兄

神奈川県で一番小さな町

生まれも育ちも神奈川県。県内で一番小さな町だ。

「南北に2キロしかないんです。保育園も幼稚園も小中学校もひとつだけ。だからみんな知り合いで、ああ、あの家の子ねっていう感じで育ちました」

今は小田急線の急行も止まり、暮らしやすい町として知られる。人口増加率は日本で1位になった。

「お母さんは、声が大きくて活動的で、いつも家族の中心でした。退職した今でもダンスをしたり、海外旅行をしたりしてます」

「お父さんは逆に静かで、全然しゃべらないタイプでした。お母さんが9割しゃべって、お父さんは1割弱でしたね(笑)。ぼくはお父さんといるほうが、居心地がよかったです」

両親はふたりとも同じ町の出身で、町役場で働く公務員。職場で知り合って結婚した。
10歳年上のお姉ちゃんと、6歳年上のお兄ちゃんがいる5人家族だ。

「お母さんが、夜、社交ダンスのレッスンに行っちゃうんで、お姉ちゃんと過ごすことが多かったですね。小さなお母さんみたいでした」

いつもお姉ちゃんの後ろをついて歩き、お姉ちゃんの部屋に隠してあるお菓子を一緒に食べたりしていた。今まで一度もケンカをしたことのない仲良しだ。

「お兄ちゃんとは、まったくソリが合わなくてケンカばかりしてました。お互いの存在が気に入らないっていうか、しょっちゅう衝突して殴り合いになることも多かったです」

外面がいいというか、調子がいいというか、親に見せる面ときょうだいに見せる面が違うのが、ぼくは嫌だった。ときに嘘をつくこともあった。

「子どものころからずっと話をしない時期が続いていましたけど、最近はようやく普通に話せるようになりました」

遊び相手は男の子ばかり

保育園のときから、遊ぶ友だちは男の子ばかりだった。

「秘密基地を作ったり、大きな土管の中に入り込んで探検したり。学童のお兄ちゃんたちと遊びにいって、時間までに帰らなかったり、けがをしてきたりで、よく怒られてましたね」

服装はお兄ちゃんのお下がりの短パンにTシャツ。女の子らしい服を買ってもらっても、いっさい着たくなかった。

「小学校の入学式のときに赤いワンピースを着せられて、大号泣したらしいです。そもそも赤という色が好きじゃなくて、赤いランドセルも嫌いでした」

パンを買うとついてくる小さなシールをランドセルにたくさん貼って、赤色が見えないように工夫した。

「いうことを聞かない、やんちゃな子どもでしたね(笑)」

小学校3年生まで、お母さんのレッスンについていってダンスを習っていた。

「ラウンドダンスとかスクエアダンスというものでした。男女に分かれて踊るんですけど、女性のほうが多いので、自然に男役をしていました。それはかえって気持ちがよかったですね」

でも、ときにはフリフリのスカートをはかなければいけないこともあった。

「基本的にそのころからスカートは嫌だったんですけど、同じ学年の友だちもいたりして、ダンスのときだけは我慢してました」

02男女に分けることに感じた始めた違和感

運動が得意で元気いっぱい

小学校では、とにかく活発で目立つ生徒だった。

「勉強よりも運動が好きで、クラブでは卓球やバトミントンをしてました。それから、体育委員をしてました。授業の準備や用具室の掃除なんかをする係でした」

足も速かったので、運動会ではリレーの選手に選ばれて注目された。

「勉強は好きではありませんでしたが、努力しなくてもそこそこ点数を取れてました」

元気いっぱいの学校生活を送る反面、男女で区別されることに対して違和感を覚え始める。

「掃除の時間に、男の子は机を動かして。女の子は掃き掃除をして、っていわれるじゃないですか。なんで、女の子は机を持っちゃいけないのかなぁって疑問を持ってました。このころから、みんなと違うな、自分は男の子なんじゃないかって感じてました」

意識的に女の子のグループに入る

中学に入って男女分けされる場面が増え、違和感はさらに強くなる。

「まず、制服のスカートが嫌でした。ジャージ登校が許されていたので、終業式とか、節目のときだけ制服を着て、あとはジャージで過ごしました」

部活は、友だちに誘われてソフトテニス部に。スポーツをしているのが楽しく、週末も練習に通う。テニスの実力は、すぐに校内でトップになった。

「テニス部でユニフォームを作ろうという話になったとき、スコートがいい子と短パンがいい子がいて、先生が両方作ってくれました。もちろん、ぼくは短パンを選びました」

中学生になると、体にも変化が現れる。

小学校の延長で男の子の友だちが多かったが、女の子と遊ばなきゃといけない、という雰囲気も出てきた。

「普通に話せる友だちはいたので、意識して女の子たちのグループに入って、がんばって
恋愛の話なんかをするようにしましたね」

03誰にも止められない、取っ組み合いのケンカ

男の子とつき合ってみたが・・・

中学2、3年になると、何か違うなぁと感じることが多くなった。

「女子トイレに入ることも嫌になってきました。なんで、あっちじゃないんだろうって思って」

初めて好きになった相手は女性だった。

「テニス部の先輩で、明るくてきれいな人でした。いいなあ、好きだなあっていう気持ちでしたが、どうしようもありませんでした」

他の女子と違ってはいけないと思い、告白された男子とつき合ってみたことがあった。

「周りもつき合い始めているし、こうしなきゃいけないって感じでした。でも、全然、ダメでした。一緒に出かけてみましたけど、何の感情もわきませんでした」

やっぱり無理と思い、手もつながず、1カ月で別れてしまった。

兄にやさしくするお母さんにも反抗

セクシュアリティに関する違和感は募ったが、誰かに相談する気にはならなかった。

「今のように情報もないし、自分が何者なのか分からなくて、何をどう相談していいのかも分かりませんでした」

中3でようやく携帯電話を持ったが、ただの連絡手段で電話とメールをするくらい。まだ、検索をするツールではなかった。

一方で熾烈になったのが、兄とのケンカだった。あまりに取っ組み合いがひどくて、誰にも止められず、お母さんに家の外に放り出されることもあった。

「当時、兄と、兄にやさしくするお母さんの両方に対して怒りがわいてました。反抗期だったんでしょうね」

玄関から外に出されあと、怒って置いてあった傘で玄関の引き戸のガラスを粉々に叩き割ったこともあった。

「お母さんは兄を特別扱いしていて、いい服を買ってあげたりしていたんです。今思えば、嫉妬かもしれませんね」

お母さんの言葉で覚えている一言がある。

「お兄ちゃんと比べられて、お前は失敗作だっていわれたんです。それは、本当にショックでした・・・・・・」

04バレーボールに捧げた高校生活

名門高校のバレー部へ

高校は、神奈川県内でも一目置かれる強豪校の体育コースに進学する。40人のクラスのうち、女子は10人しかいなかった。

「専門種目はテニスで入学したんですけど、中学の先輩からバレーボールをやってみない? と誘われたんです」

中学時代の実績をもとにスカウトされて入部する生徒が多く、テニスからの転部は異例のことだった。

「顧問の先生からも、大丈夫? 気軽に入れるところじゃないんだよ、と念をおされました」

ルールもよく分からないまま、バレー部に入部。部員が40人もいて、最初は玉拾いもさせてもらえなかった。

「休みは、大晦日と元旦ともう1日だけしかありませんでした。練習はきついし、縦の人間関係も厳しかったですね」

部則と呼ばれる規則もたくさんあり、あまりのつらさにやめたいと思うことも一度ではなかった。

やっぱり自分は女の子ではない

セクシュアリティに関する違和感も増して、自分が女の子ではないという自認も強くなっっていく。

しかし、テレビを見る時間さえないうえ、部則で携帯電話は禁止。「自分が何者か?」という疑問に対する答えは見つかりようがなかった。

「みんなで一緒に着替えたり、合宿でお風呂に入ったりするのも嫌でしたね」

部則によって、ソックスは白、制服はリボンもちゃんとつけなければいけないと決まっていた。部活の時間以外でも模範的な生徒であることを求められたのだ。

「バレーのために我慢しました。当時、すべてをバレーに捧げてましたね(笑)」

逆にいいこともあった。

「髪は短くなきゃいけないし、恋愛禁止だったんで、男の子から何かいわれても断りやすい環境でした(笑)」

はっきりと分かった恋愛感情

次に好きになった相手も、やはり女性だった。中学のときと違い、今度ははっきりと恋愛感情だと分かった。

「バレー部の後輩でした。明るくてバレーも上手な子でした。よく一緒にご飯を食べにいったりはしました」

しかし、何もいえないし、どうにもできない。恋愛だと分かっているだけに、余計にもどかしくてつらかった。

一生懸命に練習した甲斐があり、バレーボールは上達。試合出場が見えてきた。

「当時、誰もやっていなかったジャンプフローターサーブを自主練で練習してたんです。それが認められたのが大きかったですね」

下手くそから始めたバレーボールだったが、目標が見えてくるとさらに練習に熱が入る。そして、ついに念願のコートへ。

「目標は全国大会に出られる県内2位でした。学校としても10年間ずっと3位だったんです」

しかし、結果はギリギリのところでまたしても3位。
全国大会出場はならなかった。

05トランスジェンダーという言葉から目を背けた

大学でもバレーボール

高校3年の夏に部活は引退。急に恋愛に夢中になる仲間も多かった。

「部則からは解放されましたけど、制服も崩しすぎは許されませんでした。ぼくは内緒でピアスをあけましたけど」

進学先は就職先を考えて、スポーツテクノロジーを学ぼうと決めた。

「将来、スポーツのインストラクターとかテーピングとか、専門的な職種に就きたいって思ったんで、この大学を選びました。授業にちゃんと出席して、教員免許も取りました」

もうひとつの決め手は、創部2年目という若いバレーボール部だったからだ。一から作る部活に携わることに魅力を感じた。

「家からは遠かったです。電車やバスを乗り継いで、片道2時間かかりました。本当は一人暮らしをしたかったんですが、お金もなかったし、仕方ありませんでした」

大学名が入っているジャージとスウェットで、4年間、せっせと通学する日々となった。

「平日はバレーボールでしたね。1年から試合に出てました。経験が浅いチームでしたけど、それなりに強い高校から学生が集まってたので、県内で3位に入れました」

直面したくなかったトランスジェンダー

大学生になると、服装の制限もなくなり、よりセクシュアリティは混沌とする。男性に間違われることも、ときどきあった。

「女子トイレに入ろうとして、掃除の人に、こっちじゃないよっていわれたこともありました。戸惑って、女なんです、と説明するのも嫌でした」

自分の弱みを剥き出しにされたような不快な体験だ。

「もう、自分のセクシュアリティに問題があることは確信していました。でも、行動を起こすことはできませんでした・・・・・・」

トランスジェンダー、FTM(トランスジェンダー男性)などの言葉は耳に入っていた。でも、それ以上くわしく調べる気にはならなかった。

「目を背けていたんでしょうね。認めたくない、現実に直面したくない、ぼく自身のそんな気持ちだったんだと思います」

バレたらどうしよう、隠したい、というという気持ちがすべてだった。

「高校のクラスに一人、ジャージをはいて登校している女子がいたんです。話してみると、恋愛観など自分に近いものを感じました」

その子は、ときどき男物のネクタイをしていることもあった。もしかしたら、トランスジェンダーだったのか。それもあとから気がついたことだった。

 

<<<後編 2024/04/28/Sun>>>

INDEX
06 初めての交際。こういうことなんだ!
07 配属先は町役場の定住対策室
08 想像もしない流れでのカミングアウト
09 前提なしに男としてみてくれた人
10 LGBTQの課題に積極的に取り組む町へ

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