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Writer/酉野たまご

映画『52ヘルツのクジラたち』から考える、トランスジェンダーの表象

私は、クィア映画を観ることに苦手意識を持っていた時期があった。多くの作品において、ゲイやレズビアン、トランスジェンダーといった登場人物を巡る物語は、不幸な結末やショッキングな展開を迎える。そのことをどうにも苦しく思っていたのだけれど、昨今のクィア映画の変遷と進歩を感じられる出来事があった。きっかけとなったのは映画『52ヘルツのクジラたち』である。

トランスジェンダーが登場する映画『52ヘルツのクジラたち』との出会い

友人から勧められて読んだ小説『52ヘルツのクジラたち』

旧知の友人から、あるとき急に連絡がきた。

「『52ヘルツのクジラたち』っていう小説、知ってる?」
「絶対読んだほうがいい、本を貸すからすぐに読んで」

当時、名前だけはちょくちょく目にしていた小説『52ヘルツのクジラたち』を、友人に半ば強引に勧められるまま読んだ。

読み進めていくうちに、友人が私に強くこの本を勧めた理由がわかった。

この友人と私が互いに本や映画を勧めるときは、クィアを描いた作品であることが非常に多い。『52ヘルツのクジラたち』も、まさにそんな小説だった。

キーパーソンのうちの一人として、トランスジェンダー男性が登場するのである。

シリアスながらも丁寧な物語運びも、温かみのある人物描写も、すべて読み終えてから即、友人に「本、めちゃくちゃよかった」と連絡した。

これが、今から3年ほど前の話。
そしてつい先日、件の友人からまたもや連絡がきた。

「あの本、映画化したよ。観に行こう」

杉咲花氏と志尊淳氏が主演の、映画『52ヘルツのクジラたち』。
豪華な俳優陣と、数年前に感動しながら読んだ小説の映画化という点に惹かれ、友人と一緒に見に行くことにした。

原作のある作品の映画化は、たまに原作とのギャップを感じてがっかりすることもあるけれど、キービジュアルや俳優氏の雰囲気から、きっといい映画になっているだろうという期待もあった。

映画『52ヘルツのクジラたち』で感じた、「トランスジェンダーの表象」へのモヤモヤ

映画『52ヘルツのクジラたち』を観た。
私と友人は、どうにもやりきれない感情を抱えていた。

「こんなにモヤモヤする作品だったっけ?」

すぐに感情の処理ができなくて、落ち着ける場所へ移動し、ひとしきり映画に対する感想を話し合った。

映画そのものは、そして俳優氏たちの演技は、とても素晴らしかった。
ただ、観たタイミングと、映画と私たちの感覚の相性があまり良くなかったのかもしれない。

トランスジェンダーをフィクションで描くことの難しさ、クィア映画との向き合い方について深く考えさせられる映画体験だった。

クィア映画『怪物』と『52ヘルツのクジラたち』の比較

クィア映画『怪物』にまつわるインタビュー記事

映画『52ヘルツのクジラたち』を観る直前に、私はとある記事を目にしていた。

朝日新聞デジタルに掲載されている、「映画『怪物』クィアめぐる批判と是枝裕和監督の応答 3時間半の対話」というインタビュー記事である。

是枝裕和監督、ライターの坪井里緒氏、そして映画文筆家の児玉美月氏が鼎談を行い、映画『怪物』のプロモーションや描き方について意見を交わし合ったという内容。

対話の中では、映画『怪物』がクィア映画であるとプロモーションの時点で明かしていなかったこと、にもかかわらずカンヌ国際映画祭にて同作品が「クィア・パルム賞」を受賞したことについて触れられていた。

映画の宣伝においてクィアを「ネタバレ注意のギミック」として扱うことは近年問題視されている。クィアを「驚くべき事実」、あるいは「公の場で隠すべきもの」として印象づけてしまうような宣伝の手法は、当事者からすると確かに不愉快である。

私は映画『怪物』を観ておらず、『怪物』がクィア映画であることもまったく知らなかった。それでも、記事の中で繰り返し語られた宣伝方法への批判、そして映画の中でのクィアの描き方についての議論は非常に興味深く、約二万字にものぼる記事を夢中で読み込んだ。

少し前に鑑賞した映画『トランスジェンダーとハリウッド』の内容をも思い返し、映画界と「クィアを描くこと」の関係性について、来る日も来る日も考えを巡らせていた。

映画『52ヘルツのクジラたち』を観たのは、ちょうどその最中のことだった。

『52ヘルツのクジラたち』はクィアへの配慮を感じられる映画だった、けれど・・・

朝日新聞デジタルの記事で言及されていた映画『怪物』の宣伝や創作のスタンスと比べると、『52ヘルツのクジラたち』はクィアへの配慮をより強く感じられる映画だったと思う。

小説ではクライマックスまで明かされていなかった、登場人物「アンさん」がトランスジェンダー男性であることについて、映画では宣伝の時点で公表していた。

また、作品内でも、主人公・貴瑚が「アンさん」のセクシュアリティを知るよりも先に、観客にはその情報がわかる場面が提示される。

さらに、映画『52ヘルツのクジラたち』を観る前に、主演の杉咲花氏へのインタビュー記事がネットで公開されていた。

その記事の中では、トランスジェンダー男性である「アンさん」の役をシスジェンダー男性の志尊淳氏が演じることに対する懸念や、その懸念を解消すべく多くのキャスト・スタッフが尽力したことについて触れられており、クィア映画を創作することへの信念を感じた。

そして、映画を観た上でも、その印象は変わらなかった。

ではなぜ、私は『52ヘルツのクジラたち』でモヤモヤを感じてしまったのか?

小説『52ヘルツのクジラたち』では気にならなかったのに・・・

一番大きなポイントは、「アンさん」が自死してしまうという展開である。
原作を読んで、すでに知っていたはずなのに、映画ではこの展開にかなり引っ掛かりを覚えてしまった。

映画は2~3時間で物語を完結させる都合上、小説よりもストーリーの流れが駆け足になりやすい。

その上、限られた時間内で盛り上がりを作るためか、小説の内容が一部カットされており、アンさんの死からエンディングまでがかなり急だった。

「どうして『アンさん』が死を選ばなければならなかったのか」についての根拠や、「アンさん」の死をどのように主人公が乗りこえたかという描写が非常に弱く感じられたのだ。

そんなことはないと頭ではわかっているのだけど、「美しい物語を作るために、クィアの存在を都合よく利用されてしまった」という感覚があった。

また、小説は主人公・貴瑚の視点から描かれるため、「アンさん」の視点から見た世界を読者は知らない。

貴瑚が見て、聞いて、体験した情報から、「アンさん」の思いを想像するしかないのだ。

しかし、映画では「アンさん」を主軸に置いた場面が追加されているため、「アンさん」がどのような苦悩を抱えていたかが、観客にもわかりやすく伝わりそうな構成になっていた。

私は、この点も気になってしまった。

「アンさん」の苦悩を他人事ではなく、身近なものとして感じるためには、非常にいい構成だったと思う。ただ、個人的には「これで『アンさん』をわかったような気になりたくない」という思いが強かった。

私はトランスジェンダーではないので、トランスジェンダー当事者の方がどんなことを感じて生きているか、私たち(トランスジェンダーではない人)がいかに無神経なふるまいをしてしまっているか、完全には理解できていない自覚がある。

それを、映画内のたった数シーンを観ただけで、さも理解できたかのような感覚になりたくなかったのだ。

「アンさん」がトランスジェンダー男性だと知らず、そのために「アンさん」の苦悩に気づくことができなかった貴瑚と同じように、私たち観客も、自分たちの無知を悔いて、どうすればよかったんだろうと何度でも考えるべきなのじゃないかと思った。

だからこそ、映画『52ヘルツのクジラたち』のストーリーがあまりにきれいに完結していたことに、モヤモヤしてしまったのだ。

「アンさん」、もといトランスジェンダーの人とそうでない人との間にある一種の断絶は未解決のままなのに、物語は美しく完結してしまっていて、それが個人的にはやりきれなかった。

映画『52ヘルツのクジラたち』で感じた、トランスジェンダーの表象の進歩

偉大な一歩となる映画『52ヘルツのクジラたち』の取り組み

とはいえ、映画『52ヘルツのクジラたち』では、日本のクィア映画の進歩をも感じることができた。

志尊淳氏が演じるトランスジェンダー男性「アンさん」は、当事者であり俳優の若林佑真氏が全面的に監修を担当し、二人で協力のもと役を創り上げたという。

多くの人に影響を与える可能性のある、「映画の中に登場するクィアの人物」という役柄を、複数の俳優が協力して創っていくというのはとても理に適った手段に思える。

若林佑真氏は、とあるインタビューで「『アンさん』を演じるためには、(自分ではなく)志尊淳さんの表現力が必要だった」と語っている。私は、この言葉が強く印象に残っている。

映画『トランスジェンダーとハリウッド』でも言及されていたが、映画においてトランスジェンダーの役はトランスジェンダー当事者が演じるべきだ、という声がたびたび上がっている。

ただ、今の日本の映画界を鑑みると、その条件をすべて叶えることは難しそうだ。

それならばせめて、「クィアの役柄は複数の俳優が協力して創る」という手段を取ったこと、そして若林氏と志尊氏が互いに信頼し合い、「この役の表現にはお互いが絶対に必要だ」という共通認識を持っていたことは、かなり大きな一歩ではないだろうか。

映画制作において、演じる俳優と監修を務める俳優がいるという構図は、実現しようと思ってできることではないかもしれない。

複数の俳優が同時に一つの役に取り組むと、トラブルが発生する可能性も高まるだろう。映画『52ヘルツのクジラたち』では、若林氏と志尊氏の信頼関係と、作品や役柄に対する共通の思いがあったからこそ、二人で「アンさん」を創り上げることができた。

こういった形での創作が可能であるという実績ができたことは、日本のクィア映画に大きな影響を与えるだろうと思う。

トランスジェンダーの表象には、携わる全員の協力が必要

映画『52ヘルツのクジラたち』で「アンさん」の表象に携わったのは、前述の俳優二人だけではない。

LGBTQ+インクルーシブディレクターのミヤタ廉氏、インティマシーコーディネーターの浅田智穂氏、そして主演の杉咲花氏を含む多くのキャスト・スタッフが「トランスジェンダー男性を描く」ことに対してしっかりと向き合い、創作に取り組んでいる。

杉咲花氏は「映画の中にトランスジェンダー男性が登場するのであれば、携わる人全員で寄り添う必要がある」という考えを表明し、脚本の改稿やスタッフの選定にも携わっていたという。

その甲斐もあってか、「アンさん」のセクシュアリティについて宣伝の時点で明かすこと、映画本編の早い段階でトランスジェンダー男性であることの描写を挿入すること、また「アンさん」のセクシュアリティを知った母親の反応を原作から改変することなど、『52ヘルツのクジラたち』は映画化に当たり、非常に多くの配慮と工夫がなされている。

映画は監督のみならず、キャスト・スタッフ全員で創り上げるものであり、また、クィアの登場人物の表象も全員で取り組むべきものだと、この映画を通してあらためて気づかされた。

映画の鑑賞後、さんざんモヤモヤを吐き出し合った私と友人も、最終的には「でも、俳優さんたちの演技は素晴らしかったよね」「観に行ってよかったね」という結論に至った。

映画を観ながら感じたモヤモヤも、それを言語化したことも、あらためてクィア映画のあり方について考えたことも、すべてひっくるめて、今の自分たちに必要な映画体験だったのだ。

トランスジェンダー、クィアの表象との向き合い方とは?

映画におけるトランスジェンダー、クィアの表象についての思い

思い返せば、はじめて私が「トランスジェンダー男性」の表象に出会ったのは、海外ドラマシリーズ『Lの世界』でのことだった。

『Lの世界』では、トランスジェンダー男性のキャラクター、モイラ/マックスがシーズン3に登場する。

ホルモン治療の影響でいらいらしてしまい、精神的に不安定になる様子や治療の負担などが描かれており、当時の私にとっては衝撃的な内容だった。

また、彼の変化を受け入れられず去ってしまう恋人の描写もあり、トランスジェンダーを描いた作品としてはネガティブな印象を抱いた人も多いという。

映画『52ヘルツのクジラたち』から、また一つ積み上げていく

一つ一つの作品が、また、たった一人の登場人物が、クィアのイメージのすべてを背負うことは難しい。

私が『Lの世界』でモイラ/マックスの姿を見て感じた衝撃も、映画『52ヘルツのクジラたち』で抱いたモヤモヤも、一つ一つが積み重なって、トランスジェンダーの人を「まったく知らない存在」から「身近な存在」に近づけていってくれているはずだ。

クィアに対する誤ったイメージを植えつける作品が横行しすぎることは避けたいけれど、クィアを描く作品がまったく無いよりは、あるほうがずっといい。

ショッキングな物語や悲しい作品が多いこともあって、クィア映画を観ることに抵抗を感じていた時期もあったけれど、私自身もクィアが登場する作品に向き合う機会を増やしていきたい、と思えるようになってきた。

いずれは、クィア映画ではない作品にも当たり前のようにクィアが登場して、ただ幸せになったり、セクシュアリティではない理由で悩んだりする描写が増えていくといいな、と思う。

私なりの、クィア映画に対するささやかな希望である。

■参考情報
映画『52ヘルツのクジラたち』公式サイト – GAGA
国内最大級のLGTBインタビューメディアLGBTER(エルジービーター):若林佑真さんインタビュー記事

 

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