02 自分を支え続けてくれたサッカー
03 「女の子」と付き合っても、「レズビアン」ではない
04 海外生活で多様な価値観を知り、大学ではセクシュアリティをオープンに
05 将来への不安と、男性の体を取り戻す決意
==================(後編)========================
06 FTMであることをカミングアウトしたけれど、母に告げぬまま性別適合手術へ
07 愛するパートナーと出会い、結婚。そして母との決別
08 理想の父親像との剥離
09 息子と義両親、義弟夫婦への「カミングアウト週間」
10 家族に背中を押され、「元女子パパ」として活動を開始
01反抗期のない活発な子ども時代
スポーツが大好きな、活発な子どもだった
「幼稚園のころから、ほんとに活発でしたね。スポーツが大好きで、いつも兄の後ろをついて行ってました」
いろんなスポーツに取り組んだけれど、特にのめり込んだのは兄がやっていたサッカーだった。
最初は兄が所属していたサッカークラブに、そして小学校4年生で転校したあとはサッカー少年団に入り、サッカー漬けの毎日を送る。
「小学校4年生からずっとサッカーやってましたね」
「好きなら努力するし飽きないし、サッカーにすごい救われました。性別っていう悩みを抱えながらなんですけど、それよりもサッカーは大事なものだったんです」
サッカーのおかげで、常に目標を持てていた。だからこそ、落ち込んだり過度な自己否定に走らずにいられた。
小学4年生のときに両親が離婚。兄の激しい反抗期と生活の変化
小学校低学年のとき、両親に離婚の話が持ち上がる。
2歳年上の兄はちょうど思春期もあいまって、やがて家で暴れるようになった。
「僕はまだ小学校4年生くらいだったのでまだあんまりわかってなかったんですけど、兄の方が敏感だったんで、反抗期がすごくて」
「椅子で窓ガラス割ったり、ランドセルに水を入れられたりしました(苦笑)」
ボーイッシュな服装と、三つ編みがお気に入り
性別への違和感は、幼いころから持っていた。
「七五三は、7歳のときは着物が嫌だったので、袴を着ましたね。着物か袴どっちかは着て欲しいって親に言われたので、『じゃあこっちでいいよ』って妥協しました(笑)」
小学校の入学式でもスカートは断固拒否し、兄が当時着たものを貸りて出席した。
「お兄ちゃんが入学式のとき着けてた蝶ネクタイと半ズボン借りて、三つ編みで出席しました(笑)」
02自分を支え続けてくれたサッカー
自分のセクシュアリティよりも、「家庭」の問題へ意識が
セクシュアリティについて「人と違う!」と確信したのは、小学校4年生のお泊まり会のときだった。
「ずっと仲良かった女の子に、『手を繋いで寝よう』って言われて、そのときドキドキ感がすごいあったんで、そこで初めて気づきましたね」
今まで感じたことのない気持ちを味わうものの、それが何かは見当がつかなかった。
しかしそのことについて深く悩まなかったのは、意識が常に「家庭」に向いていたからだ。
「親の離婚とか、兄の反抗期も重なって、自分の性別よりもそっち側で悩んでたんです」
「自分のセクシュアリティにフォーカスする時間がなかったというか・・・・・・」
サッカーが心の拠り所だった
小学校4年生のときに、両親が離婚する。
自分は母と暮らし始めたが、兄は友だちと一緒の小学校・中学校に通いたいと希望したため、しばらくの期間離れて生活していた。
複雑な状況ではあったものの素行が乱れなかったのは、サッカーのおかげだ。
「ずっとサッカーをやってたんで、そこで気持ちも発散できてましたし。それこそ乱れてしまったら試合に出られなくなったりするので、ちゃんとしてないといけなかったし」
サッカーは自分の軸で、何より一番大切なもの。
試合に出たいという強い気持ちがあったからこそ、言動を整えられたのだと思う。
中学では男子サッカー部に入部
地元の中学校に進学、男子サッカー部に入部する。
「中学の入学式が終わってすぐ、お母さんと一緒にサッカー部の顧問の先生に『入れてください』ってお願いしに行きました」
クラブチームに所属しながら、サッカー部の部員として男子に混ざって練習に参加していた。
当時すでに173センチと高身長だった。そのため、男子との体格の違いを意識することはなかったが、それでも身体能力には差が出てくる。
しかしそれは当然のことと捉えていたので、さほどもどかしく思うこともなかった。
03 「女の子」と付き合っても、「レズビアン」ではない
初めての恋と、数名の理解者
中学入学後ほどなくして、初めての恋を経験する。
「きっかけはあんまり覚えてないんですけど、1年生か2年生のときに初めて好きな人ができて、付き合いました」
記憶は定かではないが、たしか自分から告白した。
「周りにはバレないように、隠しながら付き合ってました」
ひっそりとした交際ではあったが、数名の理解者もいた。
「その子たちだけは、僕たちが付き合っていることを知ってましたね」
オープンにはできなかったものの、話せる人たちが身近にいてくれたおかげで、セクシュアリティについて深刻に悩むこともなかった。
『金八先生』でFTMを演じる上戸彩を観て「これかもしれない」
女の子と付き合ってはいるものの、「女性として女性と付き合っている」という感覚にはしっくりこなかった。
「女の子と付き合ってたんですけど、自分はレズビアンではないな、とも思ってたんです」
「それってじゃあ、自分はなんなんだろうっていうのはありましたね」
漠然とそう感じているとき、ドラマ『金八先生』で上戸彩が演じたFTMの生徒役を観て、ふと「これかもしれない」と思う。
「でも、あんなにサラシをぎゅって胸に巻いたりしたことないし、やりたいとも思わなかったんです」
「別にこんなに死にたいって思うほど悩んでないし。なんか違うけど、でも似てるな、でもやっぱこんな暗くないしなって・・・・・・」
上戸彩の演ずる役と自分を照らし合わせると、共通点のようなものはほのかに見える。
しかしキャラクターの性格や雰囲気が自分とはかけ離れていたために、いまいちピンと来なかった。
ブラジャーを断固拒否、身体の変化への戸惑い
身体の変化への戸惑いも、そのころから感じ始めていた。
「初潮が来たときは『はあ〜、ついに来たな〜。やだな〜』っていうのはありました」
「胸の膨らみも、みんなスポブラとかし始める時期だったんですけど、自分は絶対にシャツだけで過ごしてました(笑)」
どうしてもブラジャーが嫌で、しばらくのあいだシャツのみで過ごす。
「でも中2のときに、お母さんに『さすがにもう着けた方がいいんじゃない?』って言われました(笑)」
04海外生活で多様な価値観を知り、大学ではセクシュアリティをオープンに
漠然とした不安を感じつつも、満喫できた高校生活
高校は女子校へ進学し、引き続きサッカー部へ所属した。
何よりも強く記憶が残るほどに、部活に打ち込む日々を送る。
そして隠しながらではあったものの、何人かとお付き合いもした。
「恋愛もできてたし、部活も一生懸命やれたので、高校生活では悩みはほとんどなかったです」
女の子への告白は、セクシュアリティと恋心を同時に告白することになるが、特にためらわなかった。
「相手に拒否されるとは、あまり考えなかったですね。自分が好きだから伝えたいって気持ちの方が強かったんだと思います」
「でも、将来的に不安な部分っていうのはありました。自分が何をしたいか、どういうふうになっていくのか、見えなかったというか・・・・・・」
これから先「女性として生きていく」ことは、どうにも難しい気がしていたからだ。
大学ではセクシュアリティをオープンに
高校3年生に上がる手前で、アメリカ・ミネソタ州に1年間留学する。
初めての海外生活は、すべてが驚きに満ちていた。
「自分の常識や日本の常識が、海外だとまったく通用しなかったんで、そこで新たな価値観というか、視野が広がりましたね」
「その人の文化はその人のものだから尊重しなきゃいけないなって、自分の価値観を人に押し付けてしまうことがなくなりました」
人種も肌の色も、宗教も、まったく違う人々との交流の中で、柔軟な思考を養うことができた。
多様性を尊重する文化に触れたことをきっかけに、高校卒業後に進学した大学では、同じ部活の仲間に対してセクシュアリティをオープンにした。
「大学にはいろんな地域からいろんな人が集まってきていて、みんなセクシュアリティなんかもオープンにしてたんです」
「じゃあ隠す必要ないんだなって思って、そっからオープンになりました」
セクシュアリティよりサッカーが大切だった
オープンにしてから身体の違和感も高まるが、それでもなお僕にとってサッカーの方がよっぽど大切なことは変わらなかった。
「同じサッカー部内で、セクシュアリティを理由に部活やめるって子がいたんですけど、その子はあんまり部活に集中してないように見えたんですよ」
「インカレで全国大会出るって目標もあったので、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! って思っちゃって(苦笑)」
女子サッカー部の一期生でキャプテンを務めていた責任感もあり、当時はその子の気持ちは分からなかった。
サッカーへの思いが強かったからこそ、ミーティングでは部員に厳しい言葉を言うこともあった。
「僕が4年生になったときには、部員は60人くらいだったかな。その全員が全国大会に向けて同じモチベーションになるっていうのは絶対無理なことだと思ったので、1人1人にすごい気を配りました」
「後輩にきついこともめちゃくちゃ言ってたんですけど、でもやっぱ自分たち一期生の力だけでは行けないから、あなたたちにもついてきてほしいって正直に伝えました」
05将来への不安と、男性の体を取り戻す決意
サッカーを引退してから押し寄せた、将来への不安
大学4年生のときに、念願の全国大会に出場することができた。
「そこでやりきったって感じがしました」
「サッカーを離れて、目指すものが一気に無くなったので、就活の時期が一番悩みましたね」
体育の教員免許を取得するも、その道に進む決意はできない。
「自分は男性として働くのか? レディースのスーツ着るのか? 化粧するのか? とか、それが定まってないのに子どもに教えることはできないなって」
「ゆくゆくは男として生きるのかな、体を変えたいなって思ったときに、自分はこれからどういう道に進んだらいいのか、すごい悩みましたね」
就職活動のときの適正アンケートにも、性別欄の男と女、どちらにも丸を付けられない。
どうするか悩んでいたときに、母から助言を受ける。
「『また留学してみれば』って言われて、2年半アメリカに行きました」
留学から帰国後サッカー界に戻り、決意を固める
最初はロス、その後シアトルに移り、計2年半の留学生活を送る。
「それでもまだ自分が何やりたいか、どうやって生きていくかって言うのが、決まってなくて・・・・・・」
「日本に帰る前にバックパッカーでヨーロッパやニューヨークを回ったんですけど、そのときに知り合いの女子サッカー選手がイギリスにいたんで、会いに行ったんです」
サッカーに打ち込む彼女から刺激を受け、帰国後は再び女子サッカー界に戻ることを決意する。
「キーパーとしてもう一度やりたいなって思って、世田谷のチームに入らせてもらったんです」
「女子サッカー界の狭い中で生きてれば差別もないし、普通に自分のままでいられる。振り返るとそのころは、生きやすいところにいたかったんだと思います」
「一般企業では、レディースのスーツ着なきゃいけないし、化粧しなきゃいけないし、それがやっぱりできなかったんです」
結局は自分の居場所づくりのために、サッカーを逃げ道にしていただけだったことに気が付いた。
そして28歳ごろ、男性の体を取り戻す決意を固め、引退を決める
<<<後編 2022/05/11/Wed>>>
INDEX
06 FTMであることをカミングアウトしたけれど、母に告げぬまま性別適合手術へ
07 愛するパートナーと出会い、結婚。そして母との決別
08 理想の父親像との剥離
09 息子と義両親、義弟夫婦への「カミングアウト週間」
10 家族に背中を押され、「元女子パパ」として活動を開始