02 思春期の性別との向き合い方
03 唯一の救いは吹奏楽
04 絶望から救ってくれたFTMとの出会い
05 介護・福祉の道
==================(後編)========================
06 FTMの自分を受け入れてくれた両親・高校の友だち
07 どんな性別であろうと自分は自分
08 セクシュアリティで悩んだ経験を生かして
09 LGBTが不自由なく福祉・介護を受けられるように
10 誰もが望むように生きてほしい
01自分の意思を尊重してくれる家庭
自然の中で伸び伸び育った幼少期
自然豊かな八王子で生まれ育った。
「遊ぶ場所はもっぱら川か田んぼ。性別も学年も関係なく、近所の子みんなでネズミやザリガニを捕まえて遊んでいました」
姉とは7歳離れていたが、よく一緒に遊んだ。
仲が良く大好きだったが、父方の実家が日本舞踊の家系であり姉も踊りを習っていたことから礼儀や作法にうるさく、きちんとしていないと叱られた。
父は基本的にすごく真面目。母は世話好きで家庭的。
両親は共働きだったが、近くに祖母が住んでいたので学校が終わるといつも祖母の家に行っていた。
「両親は休日よく遊んでくれましたし、やりたいと言ったことは何でもやらせてくれました」
自分の意思を尊重してくれる家庭で伸び伸びと育った。
家族はとても仲が良く、家族と一緒にいるのが好きだった。
女の子だと思ったことがない
物心ついた頃から、自分が女の子だと思ったことはない。
ただ周りが女の子扱いをすることで、「自分は女の子だ」と植えつけられている感覚があった。
「保育園で男の子と女の子が分かれる時に、自分は男の子のほうに行こうとすると先生から『あなたはこっち(女の子)だよ』と言われたり」
「男の子ばかりと遊んでいると、『女の子と遊びなさい』と言われたり」
そんな経験から、世の中には男の子と女の子という区別があり、自分は女の子なんだと認識するようになった。
同時に「なんで自分は女の子なんだろう」と不思議だった。
「僕は覚えていないですが、親から聞いた話ではスカートを履くのを嫌がったり、髪を結ぶのが嫌で短く切ったりしていたみたいです」
自分が強く抵抗したことで、無理に女の子の恰好をさせられることはなかった。
02思春期の性別との向き合い方
はっきり自覚した性別の違和感
性別の違和感をはっきり自覚したのは、小学4年生の時。
生理がきたことがきっかけだ。
「まだ学校で生理について教えてもらう前だったので、突然出血したことにびっくりして・・・・・・」
「大量出血で死ぬんじゃないかと思いました(笑)」
「母親からその出血は生理で、子どもを産むための準備だと教えられたんです」
「それを聞いて、自分はもう女の子として生きていくしかないんだ、とショックを受けたのを覚えています」
それまではどこかで将来は何とかなるんじゃないか(男の子になれるんじゃないか)と思っていた。
しかし、生理がきたことでその希望は打ち砕かれ、絶望した。
その後に考えたことは、「どうにかして女の子になるしかない!」ということ。
自分の身体に性自認を合わせていくしかないと思った。
「女の子の友だちを観察して、女の子らしさを身につけようとしました」
「スカートを履いてみたり、無理やり好きな男の子を探してみたり、おままごとをしてみたり」
どれをやってもしっくりこなかった。
頑張れば女の子に近づけると思ったが、無理だった。
この悩みを自分1人で抱えることは辛かったが、周りの女の子と違い「女の子らしく」振舞えなかった。
また、自分を女の子だと認められないのは、おかしいことだという風潮を感じていたため、誰にも相談できないと思った。
相談しちゃいけないと思った。
性同一性障害という言葉
小学生の時に、友だちのお兄ちゃんが持っていた同人誌(おそらくBL本)を見る機会があった。
だから、男の子同士の恋愛が存在することは知っていた。
しかし、それ以外の知識がなかったため、そんな世界もあるのかと思うくらいだった。
自分の性別の違和感と結びつけることもなかった。
中学2年生の時、テレビドラマ「3年B組金八先生」を観て、性同一性障害という言葉を初めて知った。
「上戸彩さんの役柄の子と考えていることが一緒でした。自分も同じように男の子になりたいんだ、と思いました」
ただ、テレビドラマの中で治療や手術をするという話題があり、とても怖くなってしまった。
「男の子になるには自分も手術をしなければならないと思うと、怖くなってしまって・・・・・・」
自分には治療や手術を受ける勇気はなかった。
男の子になるのは、やっぱり無理なんじゃないかと思った。
03唯一の救いは吹奏楽
吹奏楽に没頭した中学・高校時代
中学校の制服のスカートが嫌だったという記憶はあまりない。
スカートの下にジャージを履いていたことであまり気にせずに済んだというのもある。
加えて、中学からは部活中心の生活になったため、性別への違和感や嫌悪感を自覚する機会が少なかったからだと思う。
入部した部活は吹奏楽部。担当の楽器はホルン。
土日も練習に励み、朝練もあった。
「同じ中学で吹奏楽部に所属していた7歳上の姉が、全国大会で演奏している姿を見たんです」
「すごくカッコイイと思って、自分も同じ楽器で全国大会に行きたいと思いました」
自分たちの代では東京都の大会に出場できたし、全国選抜に選ばれることもあった。
周囲から「吹奏楽部ってすごいね!」と言われるのが誇らしかった。
「楽器を吹いている時間や吹奏楽部にいる時間が、すごく楽しかったです」
「吹奏楽部は女の子が多いので、その中で男っぽい自分は大きな楽器を運べる頼もしい存在でした」
「悪い気はしなかったです(笑)」
ただ中学の時に、全国大会に出場できなかったことが心残りだった。
だから、高校でも吹奏楽を続けたいと思い、楽器推薦で吹奏楽部のレベルが高い高校を選んだ。
「高校でも部活に励み、今度は全国大会に出場することができました」
「部活はとても楽しかったし。結果も得られてとても満足しました」
現実とインターネットの世界で出会ったLGBT
入学した高校には、造形美術コースがあった。
「そのコースに通う生徒の中には、ズボンを履いて登校するボーイッシュな女の子がいたり、フェミニンな男の子がいたりしました」
「彼らの姿を見ることで、それまでテレビでしか観たことがなかったLGBTの人たちが現実にもいることがわかりました」
それに触発されて、自分自身のセクシュアリティについて真剣に考えるようになった。
ちょうど家にパソコンが設置された。
インターネットで検索できるようになったことから、「金八先生 上戸彩」「性同一性障害 ブログ」といったキーワードで調べた。
インターネット検索をするうちに、自分と同じFTMのブログにたどり着く。
しかし、どのブログもネガティブな内容しか書かれていなかった。
「『不登校になった』とか『就職ができない』とか『死にたい』とか、暗い内容ばっかり・・・・・・」
「自分も今後そうなるのかな、自分の将来はもうだめなんだと、すごく落ち込みました」
なんとか自分が生きていける道を探そうと、インターネットの中で当事者のポジティブな情報を探し回ったが、見つけることができなかった。
絶望的な気持ちになり、高校3年生になる頃には自殺願望も芽生えた。
「女としても男としても生きていくことができない」
「新宿二丁目にいるしかないんだ」
「親にも縁を切られてしまうんじゃないか・・・・・・」
性別への違和感、将来への不安が頭をよぎる中で、部活に没頭し精一杯楽しむことでなんとか辛い時期をやり過ごした。
04絶望から救ってくれたFTMとの出会い
ポジティブなFTMを発見!
高校3年生の春にインターネット検索をしていたら、たまたまポジティブに生きていることが伝わるブログにたどり着いた。
「なんでこの人はこんなに明るく生きているんだ!」と衝撃を受けた。
「この人に会ってみたい!」
すぐにブログにメッセージを送り、会って話が聞けることになった。
ブログを書いていたのは、井上健斗さんというFTM当事者。
すでにホルモン注射と手術をしており、見た目は完全に男性だったので、「本当に女性だったんですか?」と聞いた。
それから「生きていくのは大変ですか?」「なんでそんなに明るいんですか?」と矢継ぎ早に質問した。
健斗さんは女の子だった時の写真を見せてくれた。
ホルモン注射や乳房切除手術のこと、親や周囲にカミングアウトしたこと、結婚や子どもを持つことも無理ではないこと、就職や仕事のことなどをとてもオープンに話してくれた。
そして、FTMで明るく生きている人が、他にもたくさんいることを教えてくれた。
初めて自分のロールモデルとなる人に出会えた。
「やっと生きていける道を見つけることができた。治療すれば自分も男になれるんだ、って思いました」
治療や手術に対しても「そんなに大変なことじゃないんだ」と思えたし、「自分もいつかは治療をしたい」と思うようになった。
「生きていける!と思えたことで、大きな不安がだいぶ軽くなりました」
井上健斗さんと出会ったことが、自分の人生のターニングポイントだ。
初めてのカミングアウト、初めての彼女
健斗さんに会った日の帰り、好きな子にカミングアウトしようと決めた。
すぐに当時好きだった女の子に告白し、初めて人にカミングアウトした。
「好きだという気持ちと、自分は性同一性障害かもしれないこと、将来は男になりたいということを伝えました」
彼女は「へえ、そうなんだ」という反応。
「彼女は性同一性障害についてよく理解できていなかったみたいです」
「でも、自分と付き合うことを受け入れてくれました」
彼女は仲良くしていた女の子だった。
家族よりも長い時間を過ごしたし、部活が休みの日には水族館などに遊びに出かけた。
ケンカをすることもなく、一緒にいる時間がとても楽しくて幸せだった。
05介護・福祉の道
高校卒業後の進路
元々教師になりたいという夢があった。
しかし、堅い仕事で男女の区別もはっきりしているイメージの職種だったので、自分には向いていないと諦めた。
また、吹奏楽部の海外遠征、演奏合宿などで親に金銭的に負担をかけてしまったこともあり、大学に進学したいとは言い出せなかった。
ちょうど就職氷河期、大卒でも就職が困難な時代であったから、手に職をつけられる仕事を見つけようと考えるようになった。
「介護の仕事ならスーツを着なくていいと知っていたので、しだいに介護福祉士に興味を持つようになりました」
「それに、母が補聴器をつけて生活していて、手話や点字に触れ合う機会が多かったことや、祖母が身近にいる生活だったんです」
「だから、身体的に障害を持つ人や年配の方と接する介護の仕事は、しっくりきました」
介護・福祉系の専門学校に進学し、介護福祉士の資格を取得した。
看取りの介護
学生実習の時に、担当した利用者さんが突然亡くなってしまった。
「人間ってこんなに簡単に死んでしまうんだなと実感しました」
「急な事だったので、ご家族も現実としてあまり受け止められていないご様子でした」
「その時に、自分が最期までどう生きて、どう死んでいきたいかということを、日頃から家族と話しておいたほうがいいと思ったんです」
「結局人間は、最期に向かって生きているので、より良く生きるためには死についても考えないといけないな、と」
そこから看取りの介護に興味を持つようになった。
「利用者さんに寄り添って、最期までしっかり向き合っていきたいと考え、看取りまで行っている介護老人福祉施設に勤めようと決めました」
専門学校を卒業後、介護老人福祉施設に入職した。
介護スキルを磨き、利用者さんに寄り添う介護ケアに努めた。
「もちろん楽しく生活をしてもらうためにサポートすることも大切なんですが、利用者さんが亡くなる時にいかに家族がきちんと看取れるかということも重要だと思うんです」
介護福祉士である自分が関わることで、ご本人もご家族も後悔せずに、しっかり死と向き合って大切な時間を過ごしてもらえたらいい。
「僕自身も失敗しても挫折しても、最期は “これで良かった” と思いながら死んでいける人生にしたいですね」
<<<後編 2017/10/05/Thu>>>
INDEX
06 FTMの自分を受け入れてくれた両親・高校の友だち
07 どんな性別であろうと自分は自分
08 セクシュアリティで悩んだ経験を生かして
09 LGBTが不自由なく福祉・介護を受けられるように
10 誰もが望むように生きてほしい