LGBTに対する差別の話、LGBTだからこそ立たされる苦境の話は最近インターネットでよく目にするようになりました。社会に問題があることはたしかです。そして、そういった問題提起や被差別経験の語りがLGBTや問題の認知度を上げてきました。しかし、そればかりが蔓延することによる弊害もあります。
LGBTと溢れる問題提起
インターネットを開いて、「LGBT」と検索すると、LGBTを取りまく環境、社会への問題提起について記された文章を大量に読むことができます。ようやっと、それらの一つひとつがが差別であり、問題であると人々が認識し始めたのです。
少し前まで、認識されてすらいなかったLGBT
LGBTという言葉を、はじめて目にしたのはどこだったか、思い返してみました。おそらく高校の公民の教科書だったと思います。政治経済だったか、倫理だったかは忘れてしまいましたが、とにかくそのどれかです。公民のどれかを多くの高校生が履修しているでしょうから、私の世代の人はLGBTについて多少の知識があることになります。
つまり、中学生以前の教科書にはLGBTなどのことが書かれていなかったのです。ですが、ゲイやトランスジェンダーを自認する芸能人などはいて、「カミングアウト」などの言葉はテレビでも聞くことができました。例えばはるな愛さんが家族にカミングアウトしたときの様子を記したVTRが流れたのを観たことがあります。
それらは間違ってはいなくても、偏っています。そんな状況ですから、ゲイについてだけでなく、LGBTについても、知識が偏っていきます。
LGBTは本当に人それぞれ
LGBTやセクシュアルマイノリティと一口に言っても、皆似たような人間であるわけはないのです。ですが、テレビのイメージは、画一的なものでした。ゲイと言えば女言葉だとか、トランスジェンダーと言えばかわいいとか、そんな新しい偏見を植えつけるだけでした。
新しい偏見を偏見と気づかないまま、過ごしていた時期もあります。テレビにLGBTの方々が出ることによって理解が進み始める一方、すごい勢いで偏見も拡散されていったのが私が高校生の頃でした。
ネットには問題提起の記事が溢れるようになった
そして時が進み、LGBTやセクシュアルマイノリティという言葉が浸透してきた頃、インターネットには、問題提起の記事が溢れていました。LGBTだとカミングアウトしたらひどい言葉をかけられた、アウティングされた・・・・・・。
LGBT当事者の悲しくつらい経験は人々に「こんなに大変な人たちがいるんだ」「かわいそう」などの感情を抱かせます。せめて自分は、その人たちの大変さに加担したくないと思ってくれるかもしれません。でも、そのためにはどうすればいいのか、その答えは多くの場合、書いていません。するべきではないことが書いてあっても、するべきことは不明瞭なこともあります。
当事者の方々のつらい経験が共感を呼び、聴衆の心を動かすことで、LGBTの認知度を上げる、差別をなくすという活動は行われてきました。それは確実に社会をよくしています。しかし、差別をなくすためには共感や同情、あわれみではなく、具体的にどんな行動を必要としているかの提案も必要です。
子どものLGBT当事者を思う
子どもの当事者は大人の当事者より、得られる情報に限りがあります。自分の将来に不安を覚えても、身の周りにロールモデルがいない場合が多いでしょう。
過酷な状況に囲まれている子どものLGBT当事者
子どもは、実に狭い世界のなかで生きています。家、学校、習い事。その世界の狭さも行動範囲の狭さも、大人の比ではありません。自分の子ども時代を思い出してみていただければ、わかると思います。
この国では同性愛者のカップルが子どもを育てることが一般的ではありません。他にも、学校や習い事で異性愛者であることが当然であるという強いメッセージを受け取り続けて生きています。
悩みの正体もよくわからず、モヤモヤがつのるばかり。
将来を描くとき、お手本が見当たらない。
友だちに打ち明けたら、次の日からいじめられるかもしれない。
一番にわかって欲しい家族にも、受け入れてもらえないかもしれない。
今日を終えることも、ましてや明日を考えることもできない。そんな経験をしてきた当事者は多いことでしょう。
インターネットが孤立を防ぎつつある
昔よりもずっと楽に子どもがインターネットに触れられるようになりました。それはLGBTの子どもたちも同じことです。自分の状態を、何と表現するのか知らずにもやもやしたら、Google検索に、「女性が好きな女性」「男も女も好きになる」「性別がわからない」などと打ちこんでみれば、レズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーなどの単語にたどりつくことができます。
つまり、自分を示す言葉を知り、同じような人たちが世界のどこかにいることを知ることができるのです。インターネットの掲示板やSNSで発信している大人の当事者の様子を知ることもできます。
ネガティブな情報に囲まれる子どものLGBT当事者
しかし、先述のとおり、インターネットにはLGBT関連の問題提起や被差別経験が溢れています。問題提起や被差別経験ばかりがヒットするインターネットを子どもの当事者も見るのです。
皆さんがある職業に就きたくて、ある職業をGoogle検索したとします。その際に、「つらい」「きつい」「しんどい」「お給料が低い」などの情報ばかりがヒットしたら、その職業を目指すのを断念することを考えるのではないでしょうか。大半の人がそうだと思います。
職業は変えられますが、セクシュアリティは変えようと思っても変えられません。自分の意思でどうこうできるものではないのです。そんな自分の属性には、さまざまな問題や差別が待ち受けているという情報ばかりが目に入ります。教育に携わる人や親の知識も人により、子どものLGBT当事者に理解がある人ばかりではありません、そんな日常がありながら、インターネットでつらい話ばかりを目にしたら、心が折れてしまうかもしれません。
外から見たLGBT
社会への問題提起や被差別経験が多く溢れるLGBT界隈は、外側から見たら、どう映るのでしょうか。
LGBTはどんな集団と見られているか
TwitterなどのSNSを覗くと、LGBTをはじめとしたマイノリティに関する人の本音が垣間見えます。SNSは負の側面が強調されやすい特徴があるため、書かれているすべてが本音ではありませんが、人の考えていることの一つではあります。
マイノリティの人が悩みや不満を書いたとき、「そんなことすら問題になるのか」「不満だらけだな」などと反応する人もいます。LGBTに限らず、マイノリティの集団は不満がたくさんあるという印象はどこかに漂っています。
しかし、そうではないのです。不満を持つ人ではなく、不満を持たざるをえない人なのです。この国では、マジョリティの人々が思いもよらないところで、LGBTをはじめとしたマイノリティに対する差別が公然と行われています。差別を受けて不満や悩みを持つなという方がおかしいです。
LGBT=かわいそうからの脱却
不満や悩み、被差別経験、問題提起の発信は、欠かせないものであることは認めます。というのも、言わなければ、マジョリティの人々はそこに問題があることにすら気づかないからです。ですが、それだけでもいけません。
「大変なんだな」「かわいそう」などと思われて、一時的に消費されるだけで、状況が変わらないのなら、意味はありません。そろそろ、こんな問題があるんだなという認識を広める段階から、こうしていけばいいのかと考える段階に進む時期です。
社会のLGBTへの理解は十分とは言えませんが、問題があることは理解したけれどどうすれば解決するのかわからない、と考える人も出始めてきています。そのニーズを満たす必要があります。
当事者重視はいいことだけれど
また、LGBTに限ったことではないですが、当事者の経験や言葉を重視し過ぎるのもあまりよくないと私は考えます。当事者だからこそ言えること、見えることはたしかにあります。ですが、非当事者であっても、理解しようと想像力を働かせたり、調査したりすることによって、社会をよくすることはできるのです。
もちろん、何らかのLGBT支援制度を動かす際に当事者の意見が必要なことは言うまでもありません。しかし、当事者を支援してきた実績や熱意のある方に「でも、非当事者なんでしょう」「あなたにはわからない」などと線を引いてしまうのは、違う気がします。
当事者の意見が発信されていくことは大事です。しかし、当事者でなければ発言する権利がないかのように言う人もいます。これは大きな間違いです。当事者でなくても、一緒に考え、よりよい社会にするため、発信することはできるのです。
私たちは生きている
LGBT当事者の発信において、大事なことの一つを私はある本から教わりました。
不満も悩みも生きづらさもあるけれど
不満も悩みも生きづらさも、依然としてそこにあります。それは変わりません。でも、そればかりを発信するのも、偏ってしまいます。偏らず、LGBTについて伝えるって難しいなと考えていたところ、『ゲイ風俗のもちぎさん』(もちぎ、KADOKAWA、2019年)に出会いました。この本にはゲイ風俗やゲイ業界の一つの現実がありました。
つらい話がまったくないわけではありません。でも、くすりと笑える話もあるのです。悩み苦しんでいるゲイの方もいますし、もちぎさんもかつては苦しんだことがわかります。でも、楽しそうに生きているのです。その上で、ゲイの世界を知らない人に解説してくれています。
現実はさまざまな感情からできている
自戒もこめて書きますが、私はもちぎさんのようなくすりと笑える話や、つらいけれども希望のある話を書くのが苦手です。書くのはあまり希望のない話ばかりです。そういう現実をよく記憶しているからかもしれません。
しかし、現実はつらいことばかりではありません。ほっとすることも、心温まることも、起こります。それらを無視して、つらい現実ばかり伝えるのは、また新たな偏ったイメージの生産に加担してしまうことになります。社会への問題提起や被差別経験の語りは必要ですが、それだけでは、LGBTはかわいそうという偏ったイメージから抜け出せません。
バランスよく、現実の話をしよう
大事なのは、発信する情報のバランスです。問題提起や被差別経験、世の中への提案もしていきながら、LGBTが生きる世界の素敵なところの話もしたいです。LGBTゆえの苦労だけではなく、LGBTだからこそ知れたことや経験についても、書いていきたい。心からそう思います。