02 早く死んでしまいたい
03 女子への嫌悪感と憧れ
04 リアルでもネットでも、ひとりぼっち
05 他人に人生を託したっていい
==================(後編)========================
06 ようやく見つけた新たな居場所
07 失敗を恐れずに挑戦すること
08 家族との歩み寄り
09 北陸のセクシュアルマイノリティ
10 “知ること” で世界は広がる
01学校でのいじめ、親との軋轢
大人を気にした処世術
父親が銀行勤めだったため、昔から引っ越しが多かった。
生まれたのは愛媛だが、物心がついた頃に暮らしていたのは広島。
「小さい時は外で遊ぶのが好きで、男の子たちと一緒によく野球やサッカーをしていました」
だが、ぼんやりではあるが、幼ながらに「なんで自分は男の子なんだろう?」という疑問を抱いていた。
何かと男女で区別されることが嫌だったし、実は、女子のスカート姿にもちょっぴり憧れていたのだ。
「ほかに覚えているのは、小学生の時、習字道具が女子は紫、男子は緑と決められていたことです」
本当は紫の方がいいのにな、と不満に思ったのを忘れられない。
「うちはしつけも厳しかったし、家では親によく叱られていました」
もとは活発な少年だったものの、そうやって怒られる日々が続いたことで、だんだんと、なるべく自分を出さないようブレーキをかけるようになっていった。
「学校の先生にも怒られてばかりでした」
「目をつけられないように、なるべく目立たないようにしようと思ったんです」
家でも学校でもない、自分の居場所
小学校に入学して間もない頃には、いじめを受けていたこともある。
「自分では特に意識してなかったんですけど、無意識のうちに女性っぽい部分が言動に出ていたんだと思います」
まわりの生徒からは「男らしくない」と言われて、仲間はずれにされたことも。
「女友だちもゼロでした」
「女子と仲良くすると余計にからかわれると思ったから、あえて距離を置いていたんです」
いじめが原因で学校では孤立してしまったが、それを先生に相談することもできなかった。
放課後友だちと遊ぶこともなく、まっすぐ家に帰っては、ふさぎ込んで泣いてばかりの日々。
「いじめのことを親には相談したんですけど、『自分で解決せい』って言われて、全然相手にしてもらえなかったんです・・・・・・」
誰も自分を守ってくれないし、わかろうともしてくれない。
そうして、親に対する不満を心に溜め込むようになっていった。
家にも学校にも、居場所がない。
そんな自分にとって唯一の救いだったのが、近所にある福祉施設だった。
「そこの作業所によく足を運ぶようになって、知的障害や精神障害を持つおとなの人たちに遊んでもらっていたんです」
当時通っていた小学校には特別支援学級があったため、障害を持つ人に対しての知識はそれなりに持ち合わせていた。
だから、そういう人々と関わることに恐れや抵抗もなかったし、むしろ興味を抱いていたくらいだった。
そうして、放課後は毎日のように作業所に通う生活が始まる。
「作業所が自分の居場所のようになったおかげで、家や学校が窮屈でも、なんとかやっていけたんだと思います」
02早く死んでしまいたい
転校先での孤立
中学生の時、親の仕事の都合で愛媛に転校することになった。
「当時は、大好きだった作業所から離れなくちゃいけないことが何よりも嫌でした」
いざ引っ越してみても、広島と愛媛では方言にも違いがあって、新しい環境にはなかなか馴染めなかった。
「転校先の中学では、もっと素の自分を出したいと思って、女の子っぽく振舞うことにしていました」
「女性らしさを出したら、またいじめられるかもしれないとは思いましたが、それでも、自分らしくありたいと思ったんです」
その結果、やはりどこか浮いてしまう。
いじめとまではいかなかったものの、また無視されるようになってしまった。
「最近になって発達障害と診断されたので、もしかしたらそれも原因のひとつだったのかもしれません」
「いじめは “存在の否定” ですけど、無視は “最初から存在しないもの” として扱われているようで、すごくキツかったです・・・・・・」
ありのままの自分を貫きたいと考えてはいても、やはりそうした孤立状況は、精神衛生に悪い。
「そこから徐々に、体調を崩しがちになっていきました」
眠れない日が増え、ついには自殺願望を抱くように。
「悲しみや苦しみから解放されたくて、学校の屋上から飛び降りようとしたこともあります」
自分のそうした異変に両親も気づいていたようだが、「どうせ性格がワガママなんだろう」と言われ、まともに取り合ってすらもらえなかった。
「今では双極性障害と診断されて薬も飲んでいるんですけど、多分その頃も躁うつの症状が出ていたんだと思います」
やりたいことも夢もない
体調が悪い時には、家でずっと寝てばかり。
そんな日々が続いていたところ、ある日親に「いつまで寝てるの?」と、呆れ顔で注意され、自分の中で何かが音を立てて弾けてしまった。
「親のその言葉が引き金になって、ずっと溜め込んできた不満が大爆発してしまったんです」
厳しい両親に対する、はじめての反抗だった。
「そこで一度ブチ切れてからは、親は前ほど干渉してこなくなりました」
両親との距離感は以前と比べて快適になったが、悩みの種は家族問題だけではなかったため、体調は一向に優れなかった。
「中学では、最初柔道部に入っていたんですけど、いじめが原因ですぐにやめてしまったんです」
「体を動かすのは好きだったので、部活をやめて運動をしなくなって、なんだか体がなまって落ち着かないというのもあったと思います」
放課後や休日に外出することもほとんどなくなった。
家にこもってテレビを見るくらいしかやることがない。
「その時に、たまたま『3年B組金八先生』の上戸彩さんの出演回を見て、初めて性同一性障害の存在を知ったんです」
「あれは衝撃でした」
すぐに確証を持ったわけではなかったが、ドラマを見て「もしかしたら自分も性同一性障害なのかもしれない」という考えが頭をかすめた。
「でも、当時は将来のことを全然考えていなかったので、性同一性障害に関する知識を掘り下げようとも、あまり思いませんでした」
ずっと死にたかった。
絶望的な未来しか見えない。
だから、25歳までには死んでしまおうと考えていた。
「将来の夢もやりたい仕事も、全然なかったんです」
03女子への嫌悪感と憧れ
初めての女装
高校は、地元愛媛の男子校に進学した。
志望校がたまたま男子校だったという理由もあるが、できれば共学には通いたくないと思っていたのだ。
「その頃、女子に対する嫌悪感がものすごく強くなっていました」
今思えば、その嫌悪感の裏には、女性に対する憧れやうらやましさも潜んでいたのだろう。
「あと、女性が何を考えているかもなんとなくわかるので、陰口を言うような醜い部分も察しちゃって、同性嫌悪していた面もあったんでしょうね」
そうして通い始めた高校では、特進コースに入ってひたすら勉強の毎日だった。
19時まで授業があり、部活も禁止されていたほどのスパルタ教育。
「勉強が忙しすぎて人間関係をそれほど気にしないですんだし、自分としては逆に楽だったんですけどね」
それに、勉強はすればするほど結果が目に見えるから楽しかった。
英語などの暗記科目は苦手だったが、物理や歴史は得意。
「明確な答えやリアリティのある教科が好きなんです。歴史はよく本を読んでいたので、暗記というよりも物語の流れとして捉えていました」
高校では、勉強に打ち込む以外にあまり自己主張をしなかったので、周囲からはおとなしい子だと思われていただろう。
「自分を抑えていたし、『女っぽい』と言われることもなかったです」
だが、心の奥底では変わらず女性のファッションに憧れていて、一度コッソリ女物の服を買ってみたことがある。
「初めてスカートを履いてみて、しっくりくるところもあったんですけど、髪型や体型はまだだいぶ男性的だったせいか、チグハグな感じもありました」
その頃、本当は髪を伸ばしたかったが、校則もあって短髪にしていたのだ。
「でも、ある日その女性服が親に見つかってしまって、ものすごく怒られたんです」
両親は、単なる興味本位の女装趣味だと思ったのだろう。
父には、「取引先にこのことがバレたら仕事に悪影響が出るからやめてくれ」とまで言われた。
「だけど、そこで反抗してもひどいケンカになるだけなので、何も言い返しませんでした」
「その時は、両親に理解してもらうために、何かアクションを起こす気力すらなかったんです・・・・・・」
地元から離れたい
相変わらず将来やりたいことはなかったが、せっかく特進コースに進んだので、大学進学を決めた。
「親には愛媛の大学に通えと言われていたんですけど、地元に残るのは嫌だったので、他県の学校を受験したんです」
とにかく早く、地元からも実家からも逃げ出したかった。
そうして、晴れて東海大学の文学部に合格。
入学後は、関東で新生活をスタートさせた。
「新しい場所での初めての一人暮らしですし、すごくワクワクしました」
でも、実際に待ち受けていたのは、そんな期待に反する生活だった。
04リアルでもネットでも、ひとりぼっち
期待とは裏腹の大学生活
学部では、アメリカ文明を専攻していた。
「現代アメリカのエネルギー資源などについて学んでいました」
「勉強はすごく楽しかったです」
でも、大学生になっても、友だちはほとんどできなかった。
今までずっとひとりぼっちだったし、どうすれば友だちが作れるのかもわからなかったのだ。
「いじめられていた過去の経験も相まって、大学で誰かに話しかける勇気もありませんでした」
人間関係がなかなか思うようにいかず、サークルに入ることも断念。
「だから、大学ではずっと図書館にいて、ひたすら勉強してたんです」
華やかな大学生活を夢見ていたが、結局、以前と変わらず引きこもってばかりの日々を送ることになってしまった。
きっと自分はMTFなんだろう
一人暮らしを始めてからも、女性物の服を買ったりはせず、今まで通り男性服を着て過ごしていた。
しかし、その頃には、性自認になんとなく確証を抱くようになっていた。
「性同一性障害についてネットなどで調べるようになって、女性ホルモンを個人輸入してみました」
「さすがに、最初はちょっと怖かったですけどね」
3,000円ほどで安価に手に入った女性ホルモン。
効果はあまり感じられなかった。
「だから、継続はせずにすぐやめてしまいました」
できれば専門の病院にも行きたいと思ってはいたのだが、そうした情報はなかなか拾えず、足を運べないでいた。
「LGBTの人たちが集まるサイトを見たりもしたんですけど、コミュニティには入れなかったんです」
だから、当事者との情報交換もなかなかできないでいたのだ。
リアルでもネット社会でも、人との関わりを持つのが怖かったから・・・・・・。
05他人に人生を託したっていい
スポーツチームに命を救われた
大学生になっても相変わらず希死念慮を抱いていた。
やっぱり、将来に希望も見出せなかった。
それでも自殺に踏み切らなかったのは、趣味の存在が大きかっただろう。
「野球とサッカー鑑賞が好きで、応援チームの優勝を見るまでは死ねないと思っていたんです」
野球は広島カープ、サッカーはサンフレッチェ広島の熱狂的なファンだった。
「サンフレッチェは、私が大学を卒業する年に初めて優勝したんです。その時には号泣しましたね・・・・・・」
なかなか白星をつけられず、低迷しているチームに自分を投影していた部分もある。
「大学受験期には、サンフレッチェはJ2に落ちてしまって苦しい時期が続いていたんです」
「だからこそ、J1に戻って優勝した時には本当に泣きましたし、優勝を見ずに死んでしまったら絶対後悔が残っただろうなって思いました」
これを「スポーツの力」「趣味の力」とも呼べるのだろうが、自分としては、「他人に人生を託した」感覚だった。
一般的には「自分の人生を歩む」ことが良しとされている。
しかし、自分の足で歩む気力のない人間は、いっそのこと他人に人生を託してしまってもいいんじゃないだろうか。
「試合に集中してチームを応援している時は、自分のつらい人生のことも忘れられたんです」
人間関係には相互のキャッチボールが必要になるが、スポーツチームの応援はこちらからの一方通行ですむから、気持ちも楽だった。
「しかも、カープはなかなか優勝できなかったので、まだ死ねないという状況が何年も続いていました」
「だから、自分を救ってくれたのは、サンフレッチェとカープなんです」
自衛隊に入隊
将来が見えないなりに、一応就職活動はしていたのだが、不採用ばかりでなかなかうまくいかなかった。
「特にやりたい仕事もなかったし、業種も決めず手当たり次第応募していたんですけどね・・・・・・」
そんな折に、ふと “自衛隊” という選択肢が頭をよぎった。
「高校の頃、軍事学に興味があって、防衛大学校に進もうか考えていた時期もあったんです」
「それで、愛媛の会社から内定をもらってもいたんですけど、地元に帰るのは嫌だったし、自衛隊の試験を受けてみようと決めました」
自衛隊は男性が圧倒的に多いのであって不安もあったが、興味の方が格段に上回っていた。
そうして、面接と筆記試験をパスし、航空自衛隊への入隊が決まった。
自分の担当は、基地内の道路補修など、土木関連の仕事。
「訓練もたまにありましたが、普段は担当の仕事をしていることがほとんどでした」
「航空自衛隊と聞いて普通の人が想像するような航空機に関わる仕事をしないし、どちらかといえば地味な部類でしたが(笑)」
自衛隊では、複数名での寮生活だった。
「もちろんそれもわかった上で入隊したんですけど、やっぱりキツかったですね・・・・・・」
<<<後編 2018/02/04/Sun>>>
INDEX
06 ようやく見つけた新たな居場所
07 失敗を恐れずに挑戦すること
08 家族との歩み寄り
09 北陸のセクシュアルマイノリティ
10 “知ること” で世界は広がる