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Writer/HOKU

セクシュアルマイノリティと幸せと、モデルマイノリティのこと

幸せになりたい! そう思って、私はいつも生きている。幸福を目指す気持ちがあるから、ひた走れる。そして、そんな自分はすごく幸せだ。楽しい人生を送っている自信がある。

マジョリティの求める「かわいそう」なセクシュアルマイノリティ像

私は、幸せ・・・・・・。でも同時にいろいろな怯えがある。パートナーは、友達は、私がアロマンティックだと知ったら離れていくのではないか。家族は、すごくがっかりするのではないか。「愛」を知らない人間なのだと軽蔑されるのではないか。幸せであることと、その怯えや不安は両立する。

セクシュアルマイノリティだと「かわいそう」なの?

人はいつも幸せで、不幸なのだと思う。底の見えない不幸の中にも小さな幸せはあるし、どんな大きな幸せの中にも、不幸のシミはついている。完全に不幸であることも、完全に幸せであることもあまりない。

でも、同性どうしの恋愛を描くドラマやトランスジェンダーを描く物語など、セクシュアルマイノリティを描く物語には「ロミオとジュリエット性」がいつも求められる気がしている。「禁断の恋性」とか、個人のセクシュアリティを障壁として描かれがちだと言ってもいいだろう。

最後幸せになる物語でも、「同性どうしだから」「セクシュアルマイノリティだから」という、属性に基づく葛藤がいつもいつも、飽きるほど描かれる。

それは一面、真実だ。マジョリティが経験しない苦労が、確かにそこにはある。だけど、セクシュアルマイノリティは異性愛者と同じ苦労もする。好きな同性が他の同性を好きだ、とか、いざ付き合ってみたら価値観の違いが露呈した、とか、そういう苦労だってたくさんあるはずだ。なのに、たいていの苦労は全て「セクシュアルマイノリティとしての苦労」に吸収されていく。

セクシュアルマイノリティというだけで「かわいそう」と同情される。昔「感動ポルノ」という言葉が流行った。「障がい者がハンディを背負いながら頑張る姿を消費する大衆」。それに近いものを、セクシュアルマイノリティを描く物語にもいつも感じる。

セクシュアルマイノリティの不幸を「消費」されている感覚

別に「不幸を描くな」「セクシュアルマイノリティの苦労を無視しろ」と言っているわけではない。というかバンバン描いてほしい。いろいろな種類の苦労を、世の中に向けて発信することはとても大切なことだ。描かれない苦労は、目を向けないと見えない苦しみは、なかったことにされるのがオチだから。

でも、のほほんぼんやり脳天気に幸せなセクシュアルマイノリティの姿が存在したり、マジョリティと同じようなことで悩むセクシュアルマイノリティの姿が明らかになることで「なんだ、同じように楽しそう(な面もあるん)だな〜」「なんだ、同じ人間だな〜」とただただ思われたい。

それはぜいたくな願いだろうか。

変えられないセクシュアリティを「かわいそう」と決めつけられることは、人生を決めつけられることに近い。勝手に「かわいそう」と言われて、勝手に同情されるより、人間として扱ってほしい。だから、幸せなセクシュアルマイノリティの姿も、もっともっと世の中に知られて欲しいと思う。

「幸せに生きる」だけで社会へのカウンターになる

私たちの生きる世界は、まだまだ「他人の幸せ」に厳しい。身内を褒めたら「変な人」「謙遜しなよ」と言われるし、恋人についての「惚気」を聞く人たちは「聞いてられない」「そういう奴らはすぐ別れる」と言うし、ニュースをつければ「幸せそうな女を殺したかった」という犯行動機が耳に入ってくる。

こんな「アンチ・幸せ・イズム」(ダサい)の世界では、私たちが、マイノリティが、大手を振って幸せそうにしているだけで大きなカウンターパンチになる。「生きるのってめっちゃ大変! だけどウチは本当に幸せ!」。そうやってただ幸せになるだけで、幸せを表明するだけで、私たちは革命を起こせるのだ。

「私は幸せなマイノリティ」に潜む「モデルマイノリティ」の罠

そう、幸せに生きることは社会へのカウンターパンチ。でもそれが、「あ、マイノリティって助けなくていいんだ」につながることもある。「私たちは今のままで幸せです、だから権利なんていらないですよ」というのがモデルマイノリティの姿勢だ。

「モデルマイノリティ」ってなに?

モデルマイノリティとは、『ある社会の中での人口で(人種・民族的に)少数派でありながら、社会平均よりも「成功」している人々のグループ』のことだ。アメリカでは東アジア系アメリカ人やユダヤ系アメリカ人のことを表すことが多い。高学歴・高所得で頭が良く、体制に従順で援助を必要としないマイノリティ。

もう少し具体的なイメージをあげてみよう。たとえば、アメリカに住んでいる東アジア系のエリートシスヘテロ男子学生がいたとする。モデルマイノリティのステレオタイプだ。つまり、「人種」以外の全てについてマジョリティ性を持っている人。彼が、こう主張したとする。

「僕は確かにマイノリティだ。肌も黄色いし、時には『国へ帰れ、猿!』なんて言われたりするよ。それでも僕は、自分の力でこの大学に入ったし、これからも出世する。人権団体が叫んでいる、黒人や黄色人種が大学に入りやすいようにしよう、みたいな考え方は、弱者のための政策だ。強ければ勝ち残れるんだ」

彼自身は、あるいは彼の周りの人間は、援助なんていらないかもしれない。でもそれは、頭が良く、十分な教育費を出してもらうことができ、人種以外のどの面においてもマイノリティではなかったからかもしれない。

教育を重視していない家庭だったら、男性ではなかったら、健常者でなかったら、「エリート」として生きている彼はいなかったかもしれない。

自分の基準を他のマイノリティにも広げ、「成功していないマイノリティは皆努力不足だからだ。だから、援助はいらない」と主張する。一方、モデルマイノリティのステレオタイプを押し付けられたり、あるべき姿を求められて苦しめられる弊害も持ち合わせている。

「援助はいらない」従順なモデルマイノリティ

2018年、杉田水脈議員の放った「LGBTには生産性がない」発言はいまだ記憶に新しい。もちろん、大きく批判された。と同時に、同性愛者自身の「同性愛者を差別する法もなく、オネエタレントの好感度は高い、これが日本」「支援が必要だと思ったことも、特別扱いされたいと思ったこともない」「面倒な存在と思われたくない」というような、杉田水脈議員を擁護する発言やツイートが後に続いたのもよく覚えている。まさに、前項にあげたモデルマイノリティ的な発言だ、と感じた。

ここには、「面倒な存在だと思われたら、今よりも状況が悪化するかもしれない」「面倒でない、と思われていないと権利など与えられないのではないか」という懸念があるように思われる。少なくとも私には。

そしてその「懸念」はある意味で正しかった。乃木坂のエイプリルフール投稿を批判した人たちに対し、「結局LGBTってこうやって面倒だから/騒ぎ立てるから権利が認められないんだよ」という非難が発生したこと。

これは少なからず、「マジョリティがマイノリティに権利を認めて『やる』んだから、『不快』にさせないように大人しくしてろ」という気持ちが現れているように思う。

「マジョリティにおもねれば、少なくとも今の地位から落ちることはない」。これが、モデルマイノリティが発生する原理だと、私は思う。

「モデルマイノリティ」でありうる自分が、あえて幸せを表明するにはどうすればいいんだろう?

私だって、「モデルマイノリティ」にいつでもなりうる。というか、見ようによっては私もモデルマイノリティだろう、と思う。

人生でお金に困ったことはないし、「あれをやりたい」「これをしたい」という想像の翼を折られたこともほとんどない。欲しい知識にはいつでも手が届く。性自認も身体も女性だ、とはっきり思っている。性差別には定期的に出会うけれど、そんなことをする人たちからの距離の取り方も知っている。距離を取るだけの力を持っている、と自負している。

それでも、私よりもっと辛い思いをしている人を蹴落としたいと思うことはないし、彼らが権利を叫ぶことにむしろ連帯したい。みんなで小さな席数の椅子取りゲームをするよりも、椅子の数を全員分増やした方が、幸せの数は増えるはずだからだ。

それでも、人権を持っているはずなのに同性どうしが結婚のひとつもできない社会は、おかしい。おかしいじゃん。おかしいことをおかしいと言って、何が悪いの。おかしいことをおかしいと言ったら生きづらくなるこの社会のどこが「差別のない社会」なんだろう。

おかしいことをおかしいと言えないことは、辛い。

だから私は、模索する。
モデルマイノリティでありうる自分が、あえて幸せを表明する方法を。

「幸せ」であることと、差別が存在しないことは別!

私は今、こんなに幸せです。

私は今、すごく幸せだ。友達がいる。家族がいる。パートナーがいる。

友達もパートナーも、私がアロマンティックであることを告白した文章を読んで、「なんかそんな気がしてた笑」「そうだったか〜」と、速攻でゆるい反応を返してくれた心強い仲間だ。ゆるい反応の後、「今まで、傷つけてしまったことはなかった?」と聞いてくれた。思いやりまである。

「私」をきちんと見てくれる彼らといるから、セクシュアリティのことを積極的に相談しながら、自分一人で抱え込みすぎずに生きていけている。

家族は、お金を出して教育を惜しむことなく受けさせてくれた。そして母は、私がジェンダーに興味を持ち始めたあたりから、少しずつ彼女なりに勉強してくれいる。常に変わろうとエネルギーを発し続けている親を見ているだけで私も少し元気になれて嬉しい。

私の幸せは、私自身の人生の積み重ね

私を幸せに導いてくれた全ての人たちに、本当に感謝している。

一方で、私が幸せなのは、私自身が人生をひとつひとつ積み重ねてきたからだ。私が生きてきた24年の間に、夫婦別姓も同性婚も成立しなかった。でも、私が生きてきた24年の間に、みずからジェンダー論、フェミニズムという学問分野に出会いに行き、自分を救う術を身につけた。

男性との関係性をずっとずっと模索し続けた結果、今のパートナーと出会い、関係性を構築し続けられている。これは、私が私なりに暴走し、迷走し、努力し、嫌なこと辛いことを私なりに引き受けてきたからこそ得られた幸せだ。

周りの人と自分が、一歩ずつ積み重ねてきた幸せなのだ。

でも、世の男性をまだまだ信頼できない、だとか、ゲイの友達が結婚の権利を持っていない、だとか、もしかしてアロマンティックだから「生産性がない」の対象にされるんじゃないかとか、セクシュアルマイノリティであることを表明することで殺されるかもしれない、とふと思うだとか、嫌なこと、怖いこと、不安なこともたくさんある。

だから「今の社会で充分だ」なんて口が裂けても言わない。本来持っているはずの権利を持っていないことで、ただでさえ幸せな私をもっともっと幸せにするための切符を失っているかもしれないじゃないか。

私と、私の周りの人たちがつくった「幸せ」に、社会はタダ乗りしないでいただきたい。代わりに私たちも社会にタダ乗りなんてしないから。

自分をまずは幸せにすること

もちろん、口をつぐむことが自分を守ることになることは大いにある。だから、自分が辛くなってしまうほど、人のための幸せを追い求める必要はない。実際、「モデルマイノリティとして生きる」のだって、自分を守るための一つの手段だ。みんな、自分の幸せ1番に、みんなの幸せ2番にして、「私、幸せ!」と言いながら社会運動に参加できたら健康なんじゃないかな、と思っている。

「なんだそれ! ムカつくね!?」で一晩中語って笑い合おうよ、対等な人として

友達と語り合う至福の時間

友達とよく、「ていうか、同性婚がないせいでこんな弊害あるんですけど!」「まじ!? クソじゃん!!」みたいな元気なお喋り大会をしている。Twitter上とかでなく、対面とか電話とかで。

どうしてこんなにクソな社会なんだ! と笑う。変えたいよね、どうやってこの社会から逃げようか、と、未来の行動について話して元気になる。この人から見えるこの社会はこんなに最悪なんだ、とか、逆に私から見えるこの社会はこう終わってるよ、とか、世界の「見え方」を共有するだけで一気に自分の中の「社会」がまた広がっていく。

社会の見え方がひとつ広がって、その現状を打破するためにいろいろ話すだけで、健康なエネルギーがあふれてくるのだ。楽しい。本当に変えられるかなんてわからないけど、ただ友達と社会の見え方を共有できることが、楽しい。変えなきゃいけないことだらけの嫌な世の中が見えてくるのにどこにも絶望がない。

嫌な話、辛い話を「対等に」してみませんか

これは、私がマイノリティだから、相手と共感できるとかそういう話ではない。私と友達は、異なるセクシュアリティの持ち主だ。じゃあどうして? どうしてこんなに語り合うのが楽しいんだろう。

それは、私と友達が完全に対等に話しているからだ。

私たちはお互いを不幸な人間だ、かわいそうな人間だ、なんて思ったことがない。独立した、立派に生きている最高の友達だと思っている(向こうがそう思ってるかは知らないけど!)。

だからまずはマイノリティの話を「対等な友人として」聞いてみるのはどうだろうか。友人だ、と思えば彼らに対する思いは変わってこないだろうか。友人の多面性は、よくわかっていると思う。そんな友人たちと同様、マイノリティも多面的な、そのへんにいる人間たちだ。不幸で苦労していてかわいそうな面だけでも、幸せで成功してキラキラ輝いている面だけでもない。

同じ、人間なのだ。

 

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