INTERVIEW
等身大の「私」を、まだ出会っていない人たちへ届けませんか?
サイト登場者(エルジービーター)募集

心は男で、体は女。だから望めることがある。 【前編】

大学生のときに性同一性障害の診断を受けた山口和佳奈さん。ホルモン治療や性別適合手術を考える中で、子どもを持つか持たないかという大きな悩みに直面した。高校時代に教師から性的強要を受け、男性の体を受け入れるには大きな覚悟が必要だったという。それでも山口さんが「子どもを産む」ことを決意した理由とは? 「FTMでも、治療を受けるだけがすべてじゃない。そのまま生きることがあってもいい」と語る。山口さんの半生と、揺るぎない決意について聞いた。

2018/07/05/Thu
Photo : Taku Katayama Text : Sui Toya
山口 和佳奈 / Wakana Yamaguchi

1990年、愛知県生まれ。幼少期からスポーツが好きで、小学生から大学までサッカーやソフトボールのチームでプレーする。大学1年生の時には、所属していたサッカー部でインカレ3位を経験。大学卒業後に勤めた配送会社で現在のパートナーと出会い、25歳で長女を出産。現在はパートナーとともに、2人の子どもを育てている。

USERS LOVED LOVE IT! 15
INDEX
01 タイムリミット
02 人生初のゴール
03 思いも拠らぬ事件
04 日記と噂
05 これからの人生は、右肩上がりだ
==================(後編)========================
06 体への違和感
07 GIDの診断
08 23歳の決意
09 一番幸せな日
10 私の人生には、可能性がある

01タイムリミット

子どもを持つか、持たないか

25歳。

それが、自分の決めたタイムリミットだった。

「中学生の頃から体に違和感があり、大学生のときに性同一性障害の診断を受けました」

ホルモン治療や性別適合手術を受ければ、体の性と心の性は一致する。そうわかっていても、すぐには踏み出せなかった。

なぜなら、性別適合手術をすれば、子どもは産めなくなるから。

子どもを持つか、持たないか。

「欲張りで優柔不断な自分が、人生最大の悩みに決着をつけるには、無理矢理にでもタイムリミットを設定するしかありませんでした」

25歳になるまでに、心を許してもいいと思える人が現れて
その人が私の考えを理解してくれて
子どもを授かるようなことがあれば

流れに身を任せて進んでいこう。

もしそういう人が現れなければ
この人生では子どもに縁がなかったのだと、潔く諦めて生きていこう。

そう決意してから4年。

「27歳になった今、2人の子どもと一緒に暮らしてます」

自叙伝を書く

子どもを産むことを選択するまでには、それぞれの物語がある。

私の物語は?

「それを整理するため、長女が8ヵ月になったのときに、自叙伝を書きました」

一番古い記憶のこと、両親の離婚のこと、体に違和感を感じ始めた中学生の頃のこと。

性被害に遭った高校生の頃のこと。性同一性障害の診断を受けた大学生の頃のこと。

そして、社会人になり、現在のパートナーと出会って、子どもを産む決意をするまでのこと。

「25年間の歩みをまとめるのに、1ヵ月ほどかかりました」

書き上げた文章に、「僕が母になった理由(わけ)」という表題をつけて、ある出版社のコンテストに応募した。

自分の半生を、多くの人に知ってほしいと思った。

「セクシュアリティに悩んだことや、性被害に遭ったことを “つらかった“ という記憶だけで、終わらせたくなかったんです」

「たった25年で多くの経験をして、すべてのことから立ち直ることができた今、これを生かさないわけにはいかないと感じました」

コンテストには、残念ながら、2次選考で洩れてしまった。

けれども、自叙伝を書いたことを後悔はしていない。

記憶を掘り起こす中で、過去の喜びがよみがえってきた。

曖昧にしたままフタをしてしまった気持ちと向き合うこともできた。

02人生初のゴール

サッカーとの出会い

「自叙伝を書く中で、サッカーとの出会いは、自分の人生で大きな出来事だったと改めて感じました」

小学校の担任の先生に誘われて、サッカーチームに入ったのは、6年生の夏のこと。

両親が別居・離婚したばかりで、傷が癒えていない時期だった。

「頭では理解していましたが、両親の離婚をすぐに受け入れることはできませんでした」

しかし、サッカーに没頭することで、その傷も次第に癒えていった。

「遊びのサッカーとは違って、チームでは技術がなければ試合に出られないんです」

「最初はボールをうまく扱うことさえできませんでしたが、練習を重ねるうちに、少しずつ上達していきました」

嬉しかった。

コーチやチームメイトが手取り足取り教えてくれたおかげもあり、チームに入って2〜3ヵ月後には、試合に出してもらえるようになった。

「でも、なかなかゴールを決められなくて。フォワードなのに、これじゃダメって焦りが募りました」

ほかのチームメイトは全員男子。

「だから女は・・・・・・」なんて一度も言われたことはなかったが、勝手に引け目を感じていた。

そんな中、ある大会で人生初のゴールを決めることになる。

「ゴールを決めたことで、初めてチームメイトから認められた気がしました。監督やコーチからの要求も、多くなりましたね」

「あのゴールは、その後サッカーを続けていく上でも、大事な1点でした」

インカレ3位

サッカーは、大学を卒業するまで続けた。

「大学に入った当時、サッカー部はまだできたばかりでした。自分が入学した年に、初めて全学年がそろったんです」

そんな新しい部ながら、1年生のとき、サッカー部はインカレで3位になった。

ピッチに立つことはできなかったが、そんなチームで練習をしていることが、誇らしかった。

「自分は何もしていないけれど、その歓喜の瞬間を分かち合ったことで、その後の3年間、サッカーに臨む姿勢が変わりました」

「チームメイトと一緒に、再びあの場所に戻りたいと思えたんです」

スポーツをしていれば、つらいことや苦しい瞬間もある。

しかし、それに耐えられる力がつくのも事実だ。

今でも、つらさや苦しさを乗り越えた先に、いいことが待っているかもしれないという気持ちは、自分の中に常にある。

それは、サッカーを通じて得た何よりの教えだと思う。

03思いも拠らぬ事件

原因不明の無気力感

自叙伝を書くペースは、内容によって波があった。

猛スピードで書き上げることもあれば、遅々として進まないことも。

「高校時代のことを書くときは、特につらかったですね」

「16〜18歳の頃の記憶って、それほど極端に忘れることはないと思うんですが・・・・・・。自分の記憶はけっこう飛び飛びで、少ないなと思います」

「高校に入って2ヵ月ほど経った頃、原因不明の無気力感にとらわれるようになりました」

「今考えると、体と心の不一致が、原因のひとつだったかもしれません」

ある日、授業の終了後に、先生に呼ばれた。

「元気がないね。何かあるなら話を聞くよ」

特別仲の良い先生ではなかった。だから、そのときはお礼だけ伝えて、教室を後にした。

しかし、無気力感や体のだるさは、その後も増すばかりだった。

「限界を感じていたとき、先生の言葉を思い出したんです。あまり仲が良くないからこそ、気軽に話せるかもしれないと思いました」

「学校生活のこと、成績のこと、家のことなど、何回か話を聞いてもらううちに、気持ちが軽くなっていきました」

海の帰り

あるとき、先生から「趣味で合唱をやっているから、気晴らしに来てみないか」と誘われた。

「それから、週末は合唱に通うようになりました」

「さまざまな年齢や職業の人たちがメンバーで、そこでしか会わなかったから、気が楽だったんです」

高校1年生の夏休み。

合唱団のメンバー数人で、日帰りで海に遊びに行くことになった。メンバーの中には先生もいた。

その帰り、先生から「学校に行く用事があるから、近くまで送るよ」と言われ、ありがたいと思い車に乗せてもらった。

そのうちウトウトし始め、いつの間にか寝てしまった。

目が覚めると、車は見覚えのない場所に。混乱していると、先生から「降りるよ」と声をかけられた。

「降りてからまわりを見渡して、ようやく状況が把握できました。そこは、ラブホテルの駐車場でした」

「もちろん抵抗しましたが、部屋に無理矢理連れ込まれました」

帰りは放心状態で車に乗り、家の近くまで送ってもらった。自分の部屋に入ると、いろいろな思いがこみあげてきて、吐き気がした。

先生への怒りよりも、自分への嫌悪感で頭がいっぱいだった。

脅しの言葉

それから数週間後に、学校が始まった。

「先生は、何事もなかったかのように、笑顔で話しかけてきました」

このままでは先生の思うツボだと思い「あの日のことを、親や他の先生に相談しようと思っている」と切り出した。

すると「誰が相談に乗って、助けてやったと思っている。成績だってどうなるかわからないぞ」という脅しの言葉が返ってきた。

「高校生の自分にとって、親に心配をかけないことと、成績を維持することは、とても重要なことでした」

「でも、それ以上に恐怖が大きかったです。アクションを起こせば、何をされるかわからないという恐怖・・・・・・」

夏休み明けのその日から、冬までの間、先生の言いなりになるしかなかった。

昼休みや放課後に呼び出され、指定の時間に指定の場所へ。毎日、体を要求された。

「高校にはスクールカウンセラーがいたので、一度相談に行きました」

「でも、相談をする前に『聞いても何もしてあげられない』と言われてしまったんです」

それでも、内容次第で動いてくれるかもしれない。そう思い、先生からの性的強要について話したが、事態は変わらなかった。

04日記と噂

日記帳

周りに悟られないよう、表面上は何事もなかったように振る舞っていた。

しかし実際は、次から次へとせり上げてくる吐き気や怖気と毎日闘っていた。

唯一のはけ口は、日記だった。

「書くことで何かが解決するわけじゃないんです。でも、誰にも言えないことを書き出すことで、少しだけ気持ちが楽になりました」

「そうでもしないと、本当に気が狂ってしまうと思ったんです」

ある日帰宅すると、いつもとは違う空気を感じた。机の上から日記がなくなっていた。

「母が日記を見つけ、すぐさま学校に駆け込んだんです」

「その日、弟と妹が寝た後、母に真相を尋ねられました」

「何と答えればいいかわかりませんでした。母に話したことが先生に伝わったとき、何をされるかわからないという恐怖も感じていました」

母が学校に行って1週間も経たないうちに、先生は自宅謹慎になる。

先生が学校に来なくなった頃から、少しずつ噂が立つようになっていた。

「それまで、私は昼休みに呼び出しを受けていたので、教室にいないことがほとんどでした」

「でも、先生がいなくなった後は、昼休みも教室にいることが多くなりました。そのせいで、友だちから疑問に思われていたようです」

その後、先生は懲戒免職となった。

校長先生からは、刑事事件にするかどうか申し入れがあったが、母が断った。

事件になることで、娘が世にさらされ、さらに苦痛を味わうことを避けたからだ。

先生の名前も年齢も出ることはなかったが、しっかり報道はされた。

次の日からは、周囲の目が気になって仕方なかった。

転校の申し出

あの当時、相談できる相手や悩みを共有できる人がいれば、何か変わっていただろうか。

「ニュースなどで『誰かに相談すれば良かったのに』というコメントをたまに見かけますよね」

「でも、被害を受けている側が、その最中にアクションを起こすのはすごく難しいんです」

周囲の視線に耐えながら学校に通っていたとき、卒業した中学校の校長先生から、たまたま学校に呼ばれた。

同席していた女性から、「高校に新しく女子サッカー部を創設するので、来ないか」と誘いを受けた。

もし転校するなら、県外で寮生活になることも説明された。

不安なことはたくさんあったが、今の環境にいるよりはいい。

すべてを白紙に戻すきっかけになるかもしれないと思った。

05これからの人生は、右肩上がりだ

PTSD

新しい学校での生活が始まった。

「転校生ということで気にかけてくれる人も多くて、学校にも寮にもすぐに馴染めました」

「でも、サッカー部の夏の大会を過ぎたころから、心がモヤモヤし始めたんです」

2学期が始まった頃から、悪夢を何度も見るようになる。

そのたびに、自分への嫌悪感でいっぱいになった。

耐えきれず、とうとう自分自身を傷つけてしまう。最初は、はさみで浅く軽く。

「そうすることで、自分自身への嫌悪感や、汚らわしいって思いから、少しだけ解放される気がしました」

そしてついに、授業中に鮮明なフラッシュバックに襲われることになる。

PTSDだった。

その日から、寝るのが怖くなり、眠れなくなった。

「学校にいるときも寮にいるときも、いつもポケットにカッターを入れていました」

「授業中、フラッシュバックに襲われては席を立ち、トイレで傷をひとつ増やしました」

もちろん、部活にも行けなくなっていった。

「多くの人は、リストカットをする理由を、死にたいからだと思っていますよね」

「でも、私がリストカットをし続けた理由は、生きていると確認したかったからです」

血を見ることで生きていると思えた。

「まだ痛いと感じることができるかどうかを確認していたんです」

夜回り先生との電話

そんな様子に気づいてくれたのが、教頭先生だった。

授業が終わった後、「何か悩みがあるならいつでもこい」と声をかけてくれたのだ。

「でも、前の学校でのことがあったので、その言葉をすぐには信じられませんでした」

そんなとき思い出したのが、「夜回り先生」として知られる水谷修さんだ。

「知り合いではない水谷先生だからこそ、今自分に起きていることを話せるんじゃないかと思ったんです」

何度かメールでやりとりし、電話で話すことになった。

すべてを打ち明けた後「誰かに話さなきゃだめだ。そこを離れて親元で協力してもらいながらの生活が必要だよ」と水谷さんに言われた。

教頭先生のことを話した。

水谷さんからは「最初に傷を見せるんだ。これだけつらい思いをしているって」とアドバイスを受けた。

教頭先生の言葉

翌日、意を決して、教頭先生に話があると伝えに行った。

水谷さんのアドバイス通り、部屋に入るなり腕の傷を見せて、助けを訴えた。

教頭先生は、話を最後まで黙って聞いてくれた。

「少し休もうか。俺が全部口利いてやるから、寮を出て一度家に戻れ」

「よく話してくれた。俺はお前を裏切らないよ、信じて全部話してくれたんだろ」

後日、母が学校まで迎えに来た。母を待つ間、教頭先生に言われた言葉は、今でも人生を支えてくれている。

「お前の人生は、今が一番どん底だ」

「でも、今がどん底っていうことは、お前の人生、これからずっと右肩上がりだからな」

 

<<<後編 2018/07/07/Sat>>>
INDEX

06 体への違和感
07 GIDの診断
08 23歳の決意
09 一番幸せな日
10 私の人生には、可能性がある

関連記事

array(1) { [0]=> int(25) }