結婚なんか、死んだってするものか。あんなのただ不自由が増えるだけじゃないか。そう思って生きてきました。どうしても、幸せな結婚生活が想像できなかったからです。しかし、最近、ポリアモリーや契約結婚、友情婚など、さまざまなあり方を知るにつれ、結婚もまったくもって可能性がないわけじゃないかもしれない、と思うようになりました。
同性婚なら、ありかもしれない
結婚とは、精神的にも経済的にもお互いに支えあっていく関係を指します。唐突ですが、私は男の人を警戒せずにはいられません。相手がどんな人であるかよりも、恐怖や警戒が先に立ってしまうのです。そんな相手が、同じ家にいる生活はとても気分のいいものではありません。そんな日常は、冷え切った関係しか連れてこないでしょう。でも、女の人となら、ともに暮らすのもありかもしれない、と思うようになったのです。
「結婚するような歳だねえ」と言われて
家族で食卓を囲んでいるときでした。年齢を聞かれて、「そうか、もう結婚するような歳だねえ」と言われて、私は頭が冷えていくのを感じました。SNSを眺めれば、ポリアモリーや友情婚など、いろんな新しいことが溢れています。しかし、この人の価値観は男女で結婚するものというところから一歩も進んでいないのだと思った瞬間に、愛情も郷愁も吹っ飛びました。あの瞬間、私はひどく冷たい目をしていたことでしょう。家族でなければ、その日を最後に絶縁も考えたはずです。
結婚。結婚かあ・・・・・・。結婚したいと思ったことは、これまで一度もないのです。将来男の人と結婚しなければならないと思いこまされていた時代があったとはいえ、自分の意思で誰かと生活をともにしたいと思ったことはありません。何せ、将来の夢は一人暮らしだった時代もあるのです。そして実際に、その一人暮らしは幸せなものでした。人生のどの時期よりも幸せでした。
家族内の会話は、「怒りっぽい人はダメだねえ」「優しくて、尽くしてくれる人がいいよ」などと話は進んでいきました。男の人と、私が結婚。想像するだけで、気持ち悪いことでした。男性と暮らしをともにするなんて、私にはとても無理なことでした。(男性読者の方には申し訳ないのですが、本当に嫌悪感が拭えないのです)
友情婚なら、するかもね
私には、男性と結婚する予定も、相手もないのです。私は相手を探す気もありません。根本的に男性が苦手なのもありますし、一人で生きて、一人で死んでいくのだと考えているからです。でも、最近それだけが選択肢ではないのかもしれない、と感じるようになりました。積極的にそうしたいほどではなく、そうしてもいいかな、程度のものですが。
それが、同性の友人と結婚することです。それも、恋愛感情ではなく、友情で。
「友情婚なら、するかもね。今は無理だけど」
それが、私の答えでした。今は無理。それは私がこの人となら友情婚してもいいなと思う相手が同性だからなのでした。この日本では、同性婚ができないからです。
するっと受け入れた家族
同性との友情婚ーーー。案外、それは反論されることもなく、「ああ、男の人に興味ないんだ」と母に受け入れられました。意外にも新しい価値観やセクシュアルマイノリティを知っている、もしくは言葉を知らなくとも理解する人がいたのに、私は正直かなり驚いていました。この人たち、こんなに理解力あったかしら、なんて思ったことは秘密です。
ちょっと前まで、「一緒になりたいと女の人を連れてきても驚かない」と言うまでに理解を得るのがやっとだった人たちですが、年月は人を変えるのですね。
アセクシュアルと言わずに、カミングアウト
さきほど書いた、家族との会話で私は、LGBTともセクシュアルマイノリティとも、アセクシュアルとも言いませんでした。というのも、家族は高齢なので、新しい言葉を登場させると話がややこしくなると考えたからです。だから簡潔に、「友情婚ならするかもね。今は無理だけど」だったのです。アセクシュアルやセクシュアルマイノリティは言葉だけでどういうものか想像するのが難しく、友情婚は字面だけでどういうものか想像がつくからです。
アセクシュアルという言葉はきっと通じない
アセクシュアルという言葉を家族が知っているかはよくわかりません。多分、知らないだろうなと思います。アセクシュアルが何か、聞いてもまともな答えは多分返ってこない。そういう時代を生きて、そのまま過ごしている人たちなのです。彼らが悪いわけではない。けれど、それがいいわけでもない。新しいものを取り入れようとしないのなら、衰退の一途をたどるまでです。
実家に帰ってきて、常々感じます。新しいことは全部東京で起きていて、地方は大幅に遅れている、と。それは技術だけではなく、価値観もそうなのです。東京で通じる言葉を使って説明しても、地方では通じません。アセクシュアルって何? と言われてしまいます。
そんなわけで、私はアセクシュアルともセクシュアルマイノリティとも言わずに話しました。だから、私は当初、家族にカミングアウトしたと認識していませんでした。
想像したのとは全然違ったカミングアウト
カミングアウトと聞いて、皆さんは何を想像するでしょうか。静かなテーブル。神妙な面持ちの家族。飛び交うセクシュアルマイノリティやLGBTといった単語。私は、そういうものを想像します。
でも、カミングアウトの機会なんて、準備したり、されたりしてやってくるものではないのかもしれません。唐突に、話の流れで、自分のことを言わねばならない気がして、言葉が口をつく。準備も何もなく、カミングアウトは起こりうるものなのです。
カミングアウトは、人によっては大きな節目になることでしょう。私にとっても、そうなるかもしれませんでした。私は、否定されたら別離の理由を一つ増やすだけだ、と割と投げやりだったので、特に覚悟もしていなかったのですが。
恋愛感情のない結婚はありか
恋愛感情のない結婚は可能なのか、というところを考える前に、結婚そのものについて見直してみましょう。そもそも、結婚とは何なのでしょう。
結婚とは、何なのか
日本国憲法第24条1項によれば、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とあります。これだけだと、恋愛関係になくても、相互に協力しあう関係であれば、結婚が可能にも思えます。契約結婚を描いた漫画などもあります。
しかし、セックスレスを理由に離婚を認めた判例もあります。婚姻の維持には、セックスは欠かせないとする見方も未だ根強いということでしょう。友だちとセックスをしない人は、どうすればいいのでしょう。
友情婚は可能か
それでも、まだ希望はあります。恋愛感情に基づいて結婚しなければならないとは書いていませんし、セックスをしないことも双方の合意の上なら問題にはならないわけです。ただ、この場合、セックスをしないことの合意をしっかり取っておく必要があります。
もちろん恋愛感情によってではなく、友情で結婚することについても同意が必要ですね。一方は恋愛感情、他方は友情で結婚し、お互いが相手から自分と同じものが向けられるべきと考えているとすれ違い、こじれてしまいますからね。
後々のすれ違いを避けるために話しあいを重ねておけば、友情婚も不可能ではないのかもしれません。
結べる契約が結婚以外に見当たらない
人生において協力しあいたい相手と結べる契約が、結婚の他に存在しないことも、問題の一つかもしれません。血の繋がりのない他人と、協力しあう契約を結ぶとしたら、それは結婚以外にないわけです。養子縁組などもあるにはありますが、多くの場合、親子になりたいのではなく、対等なパートナーになることを望んでいるのだと思います。
そうなると、結婚が魅力的な制度として浮上してくるのです。結婚していれば、相手の家族としてふるまうことができます。例えば、いざというときに病院にかけつけて、病状説明を聞くといったことが可能です。ただの同居人ではできないこともあります。世間はただの同居人に優しくないのです。
友人と同性婚かつ友情婚、それもまたありかもしれない
現状、日本では同性婚は不可能です。しかし、可能になったら、友人と友情で、同性婚するのもありかなと思っています。まだ、友人にプロポーズすらしていないのですが。それどころか、そういった話を匂わせたことすらありません。「一緒に生きませんか」とただ一言、誘いたいです。
できればいいなと思っている
そもそも私は、結婚がしたくてしたくてたまらないわけではありません。結婚なんてするものか、と思っていたのですが、私は友情婚や同性婚をどうしてもしたいわけではなく、友人と友情で同性婚なら、してもいいかなと思い始めた段階です。選択肢が欲しいなと思っているのです。友情婚や同性婚を選べるようになったら、私は人生がより楽しくなることでしょう。
だから、相手を探して、マッチングして、デートして、ということではなく、いいなと思っている相手に振られたら、潔く一人で生きていくつもりです。
同性婚と同時に、友情婚も「あり」にしませんか
同性婚が可能になるとき、同時に友情婚もありかなしかあやふやな状態ではなく、公に「あり」な状態になればいいと思います。友情婚が可能であれば、友情で結婚して支えあって幸せになる人が増えることでしょう。人と人が支えあう理由は、何も恋愛感情でなくてもいいし、セックスをしなくてもいいのです。
選択肢が増えることは、幸せの数が増えるだけで、減ることではないのです。そして、結婚をすることも、しないことも、個人の選択なのです。