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Writer/HOKU

「恋」をしない私が行き着いた、ひとつの言葉は「アロマンティック」

「恋愛しなきゃ大人になれない」「こんな簡単な気持ちは恋じゃない」「恋愛しなきゃ生きていけない」。世の中は恋愛賛美で溢れている。恋愛するのは当たり前、恋は盲目、一生に一度の恋がしたい。みんな恋愛の話は大好きで、恋人はいるのかいないのか、いなかったらどうして作らないのか、作れないのか、寂しくないのか、根掘り葉掘り聞いてくる。
私だって「恋」したかった。そうずっと思っていた。

「恋」ってなんですか?

「恋愛」はどんな場所でもキラキラ輝いていた

どんな本を読んでも、どんな漫画を読んでも、「それ」はキラキラと光を放っていた。
「恋する乙女」はいつも可愛らしく、この世には「たった一人の運命の人」がいて、その人とは「赤い糸」で結ばれていて、出会った瞬間にビビッと来た。

そして恋は、その人に恋人がいても好きなままだったり、場合によっては奪いたいとも思うような、とんでもないエネルギーを秘めた感情らしかった。中高生の私は、それに痛切に憧れた。だってとてもキラキラしていて、その感情を手に入れたら私は特別な人間になれそうだったから。

女子校に通っていたから、出会っていないだけなのだと思っていた。その感情は私の中に、必ず眠っているものなのだと。

友達への気持ちと恋人への気持ちの差が見つからなくて探し回った

大学に入って、周りに「異性」が溢れた。私の入った大学のクラスは、女子が3割、男子が7割のクラスで、今まで周りに男子のいなかった私は「沸いた」。彼氏だ、付き合うんだ、そしてそのまま結婚だ! と能天気に考え、まずは「好き」が自分の手元に落ちてくるのを待った。

でも、いつまでも落ちてこなかった。

仲の良い異性はたくさんいて、色々なことを話した。みんな大好きだった。みんな一様に大好きで、そしてその中には、とりわけ「仲良くなりたい!」と思う異性の相手だっていた。

でもそれは、あの女の子と「仲良くなりたい!」と思う気持ちと全くもって同質だった。遊びに行きたい、おしゃべりしたい、それ以上でもそれ以下でもない。

え、私の「好き」は一体どこに落ちてるの?

「恋愛」を国語辞典にまで探しに行った

恋する気持ちとしての「好き」が見つからないのは、自分が女子校出身だからなのだと私は判断した。つまり、恋愛の実践が足りないから、「恋」が何かわからないのだと。実践が足りないのなら、定義を調べ、情報を仕入れ、頭で理解してから挑めば良いのだ。私はGoogleを開き、「恋愛 定義」と検索した。

一番有名な「恋」の定義は、新明解国語辞典のものではないだろうか。

「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」

これが、新明解国語辞典の「あまりにも主観的」で有名な恋愛の定義である。「異性」というのは引っかかるが、他の「お互いにこいしたうこと」などと定義づけている辞典と比べれば、私の求めていた答えには近かったのだと思う。

ただ、あまりにも大仰すぎて、私は「これは・・・・・・逆にみんな恋愛してるのか?」と思わざるをえなかった。「他の全てを犠牲にしても悔いない」「二人だけでいたい」なんて、思える日がくるとは思えなかった。

他にも、色々な恋愛サイトを見に行った。「その人と手を繋ぎたいと思いますか?」「キスしたいと思いますか?」「他の女の子といるところを見たら嫉妬しますか?」。それら全てのチェック項目にチェックがつけば、それは恋愛感情なのだ、とそのサイトは教えてくれた。

こんなにわかりやすいチェック項目があっても、私はそこにチェックをつけて良いものかよくわからなかったのだ。

実践してみた。それでもやっぱり、「恋」はできなかった。

「なんとなく」で付き合って、「会いたくなくなったから」別れた

大学一年生の夏、「大学の銀杏が散るまでに彼氏ができなければ、その女子は一生彼氏ができない」というジンクスに誘われるまま、クラスで一番仲の良かった男子と二人で遊びに行く。

大学一年生当時、「男子と二人で遊びに行く」はもうほとんど告白だ。その前からLINEもずっと続いていたし、その男子のことは友達として好きだった。一緒にいてもそんなに盛り上がらないことはなかった。結婚相手としても申し分ないと思った。

「恋愛はキラキラしたもの」のはずだったのに、いつの間にか「付き合えばそのキラキラが万に一つも始まるかもしれない」にすり替わり、私とその人は付き合い始めた。

1ヶ月経ち、2ヶ月経ち、デートを何度かした。何度かしかしなかった。「二人で遊びたい」と思うことがなかったから。

3ヶ月経ち、4ヶ月経ち、「会いたい」とも思わなくなった。それどころか「会いたい」と思えないことに負担を感じようになったのだ。その辺りで何かを間違えたことに気がついた。

私はLINEで「好きじゃなかったから別れよう」と言い、彼は「そんな気がしてたけど、俺は好きだったよ」と言って、私たちの関係は終わりを迎えた。

「愛してる」が気持ち悪くて関係を問い直した

次は間違えないぞ。「二人で会いたい」が重要なんだとわかった。だから「二人で楽しい」人がいい。私はそう決めて、今度は同じサークルの人と付き合い始める。

正直その人は面白かった。毎日一緒にいても飽きないだろうと思うくらい、馬も合うし気も合った。話も合った。その人は日がな一日私に「好きだ」「可愛い」と伝えてきたし、私もそれが嬉しかった。私もその人のことが、「二人で会うのが楽しくて」好きだった。だから躊躇わずに「好きだよ」と伝えていたし、私はそれで満足していた。

ある日、彼が「愛してるよ」と伝えてきた。私は驚いた。驚いたし、「愛してるよ」と伝えることはできなかった。いや、できたんだっけか。言えたか言えなかったかはもう忘れてしまったけど、その「愛してる」は喉に刺さった大きな魚の骨みたいに私を苦しめたのだ。

「愛してる」が気持ち悪くて、こんなに一緒にいたのに同じ気持ちで「愛してる」が返せない自分のことも気持ち悪くて、私はその人と一緒にいられなくなってしまった。そんな話をするたびに、友達には「なんかあなたって好きじゃないのにすぐ付き合うよね」とか、「簡単に恋愛できていいなぁ」と言われたりした。

二人も付き合ったのに、私にはまだ、恋愛感情がわからなかった。私には、「付き合う」は簡単なのに恋愛がむずかしかった。ただ、いたずらに人を傷つけただけだった。

恋と離れ、禊へ

1年間、誰とも付き合わないぞと決めた禊

それから何人かと付き合っては、私は全然うまくいかなかった。やっぱり「愛してる」とどうしても返せなかったり、それなら全く好きじゃない人と付き合ってみよう、と決めて、かけらもうまくいかなかったりした。

周りの友達はみんな「いや、その男が悪いよ」と毎度言ってくれるのだけれど、私にはどうもそうとは思えなかった。こんなに色んな人と付き合ったのに、うまくいかないのはさすがに私に問題がありそうだ。

そう思った私は、「そうか、私が自立した精神を持っていないからダメなんだ」と考え、1年間誰とも付き合わないことを決めた。「禊」のはじまりだ。

禊の期間、初めて「付き合わない対象」として異性を見つめた

禊に入るまでの私にとって、男性は全員「なぜか付き合ってしまう相手」だった。仲良くなると、自動的にみんな付き合ってしまう存在。ちょっと仲良くしたいなぁと思ってご飯に誘ったり、誘われたり、遊びに行ったりするうちに、いつの間にか「付き合うよね」という空気が勝手に立ち現れてくる。

押しに弱すぎる私は、「まぁ、そうね!」と二つ返事でOKしてしまう。だから、男性と仲良くしようとするとき、私はいつも「付き合わないといけないかもしれない」みたいな覚悟を持って挑んでいた。

「禊」に入ってからは、私は「誰に告白されても付き合わない」という気持ちでいた。(どうしても付き合いたかったらしょうがない、というゆるゆる禊ではあったけれど。)
だから、その時に関わりのあった男性たちには全員、あんたら私の友達にしてやるからな! という気持ちで関わりに行っていた。

その時ようやく気づいたのだ。今まで付き合った人と、これから仲良くしようとしている人たちへの気持ちが、全く変わらないな、ということに。

仲良くしたいこの人たちみんな、男も女も関わりなく、腹割って喋って一緒に暮らしてみたいし、ぜんぜん肩組んで街中歩きたいし、どの人たちとも一緒に人生歩いてみたい。

だとしたら今まで私、一度も「恋」していなかったんだ。

「アロマンティック」という言葉と出会った

「アロマンティック」との出会い

私は元々、大学でゲイのテレビ表象に関して研究を行っていた関係で、セクシュアルマイノリティに関わる語彙には、人よりもわずかに詳しい、という特権を持っていた。だから、「アロマンティック」という言葉を、知っているつもりではいた。

「アロマンティック」とは、他者に恋愛感情を持たない恋愛指向のことである。そしてそれは、時には相手を愛おしいと思ったり、もっと相手のことを知りたい、仲良くなりたい、と思う自分とは相容れない言葉だと思っていた。でも、「好き」が「恋」にまでは至らない私の内側を見つめ直したら、「アロマンティック」という言葉がもっともぴったりくる、ように思えたのだ。

そして、その時、「あ、わかってはいたけど、そう分類されようとされまいと、私は私なんだな」と思った。「私は私」なんてつまらなくて古びた言葉だけれど。「アセクシュアル」と言っても懲りずに人と付き合い続ける私のような人間もいれば、今までもこれからも人と付き合わずに生きていく人間もいる、と思うと、なんだかそんな分類には意味のないような、それでいてやっぱり分類されて安心感のあるような、不思議な気持ちになる。

アロマンティックでも「誰を大事にするか」は決められる

正直、「恋」がどういう状態なのかは今もわからない。実はやっぱり、あとから何らかの方法で調べたら、誰かと付き合っていたうちのどこかの期間は「恋」でしたよ、と定義され直すかもしれない。

それでも、私は、自分がどちらかというと「恋」のわからない側の人間だと思っている。そういう人たちのことをアロマンティックということもわかっている。

でも「恋」しなくても、「恋愛」はできると思う。恋は感情で、恋愛は関係だから。関係は、相手がいて、初めて成り立つものだ。そして恋愛は、相手をいかに大事にするかを「決める」行為だ。

アロマンティックがぴったりとくる私の恋愛は、「付き合いましょう」から始まる。「付き合いましょう」は「私の人生において、あなたを大事な存在として決めます」という合図だ。そして、覚悟を決める相手は、友達として好きな相手の中でも、「あなたのためには死ねないけれど、あなたとだったら同じお墓に入ってもいい」という相手だ。

禊の期間は、その定義に辿り着くための期間だった。そう思えたら私は、「恋」でなかったとしても、相手を大事にするために時間を取ることができるから。つまりはあなたを大事にする、と「決める」行為そのものが、私にとっては恋愛なのだ。

だから私は、他の人とは違うかもしれないけれど「決める」ことで恋愛する。今後も「恋」を知ることはないかもしれないけれど、知らなくていい、知らなくてもそれはそれで、幸せだ、と断言できる。

 

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