02 学童野球で全国大会出場
03 自分に負けんな!
04 父の借金と母の病気と
05 性同一性障害だと自認しても
==================(後編)========================
06 カミングアウトと両親の言葉
07 母とお別れをする覚悟
08 植木職人になりたい
09 妻への気遣いを忘れずに
10 誰もが自信を培える場づくりを
01生まれも育ちも “井浦家横丁”
一族のLINEグループには52人
4人兄弟の3番目。
4つ上の姉、1つ上の兄、そして3つ下の弟。
喧嘩もいっぱいしたけれど、みんな優しくて、昔から仲がいい。
父は、なんと10人兄弟。
その兄弟たちが近所に住んでいるため、あたり一帯には「井浦」の表札を掲げた家が集まっている。
おかげで、その一帯は “井浦家横丁” と呼ばれていた。
「年の近い従兄弟たちがいっぱいいたので、家の前の電信柱から電信柱までリレーをしたり、サザエさんごっこをしたりして遊んでました」
「遊び疲れたら、みんな祖父母の家に集まってましたね」
「ばあちゃんは超優しくて、いっつもジュースとお菓子を出してくれたんですが、じいちゃんは超怖かったです(笑)」
江戸友禅の職人だった祖父は、孫たちが作業場で走り回っていると、声を出さずに、ただギロリと睨みつける。
その迫力に圧倒され、縮み上がっていた。
「父と母が共働きで、あまり家族全員でゆっくりできなかったけど、寂しくはなかったです。遊び相手には困らなかったから」
「今も井浦家一族のLINEで連絡を取り合っているんですが、登録人数だけで52人もいるんですよ(笑)」
「遠方に引っ越した親戚もいますけどね」
仕事も子育ても手を抜かない母
両親の子育て方針は、どちらかというと放任主義。
しかし、姉や兄の話を聞くと、どうやら方針転換をしたらしかった。
「僕はまったく覚えてないんですが、ごはんの食べ方とか、習いごととか、姉や兄にはスパルタだったみたいです」
「自分は3番目ですからね。いい感じで両親も落ち着いたのかな(笑)」
「特に、母は仕事も子育ても手を抜かない人だったそうです」
雑誌の編集を務めたのちに、個人客のファッションやヘアメイクを提案するパーソナルスタイリストとして独立した母は、常に忙しかった。
海外出張も多く、何日も家を空けることもあった。
「だからこそ、誰にも何も言われないように、家のことも必死でやっていたんだと思います」
「父の着ている服も、ぜんぶ母がセレクトしてました」
「母より5つ下の父は、完全に尻に敷かれてましたね(笑)」
02学童野球で全国大会出場
いじめは見逃せない
初恋は5歳のとき、幼稚園で一緒だった女の子。
「たぶん、その子がかわいかったからだと思うんですけど、男の子がちょっかいを出してくるんですよ」
「で、僕がそのちょっかいから守るっていう(笑)」
「でも、ガタイのいい男の子に投げ飛ばされちゃったこともありました」
当時は、元気がいいとはいえ、体は女の子。
男の子の腕力には敵わなかった。
でも、誰かにちょっかいを出したり、いじめたりしている人を見ると黙ってはいられない、正義感が強いタイプだった。
「小学校に入ってからも、好きになる子はみんな女の子でした」
「でも、別に恋愛にまで発展することはなかったですね」
それは、恋愛よりも夢中になれることがあったから。
兄から影響を受けて始めた学童野球が、楽しくして仕方なかった。
「もう、すーーーげ楽しかったです」
「最初はリリースピッチャーをやりながらライトを守ってましたが、高学年になったらエースピッチャーを任されました」
“女の子だけ” に違和感
チームは男女混合のチーム。
自分以外にも女の子が1人いた。
人一倍練習には全力で取り組み、ひとりでいるときにも、素振りや壁当てを怠らなかった。
そして、体格差も性差も、ものともせずにピッチャーとして全国大会に出場。
見事ベスト8に選ばれ、新聞にも取り上げられた。
「インタビューで、プロ野球に入りたい、オリンピックに行きたいって言ってましたね」
しかし、中学生になって、クラブチームの見学に行き、気持ちが変わる。
「女の子だけのチームを見て、違和感を感じたんです」
「ここに入ったら、ずっと女として野球をしなきゃいけないの? オリンピックも女として出場するの? いやちょっと待て」
野球を続けることがイメージできなかった。
「やっぱり、小さい頃から自分は女の子じゃない、と思ってました」
「兄弟に『お兄ちゃんみたいなおちんちんは、いつ生えてくるの?』ってきいたこともあったらしいです」
「水玉のワンピースを着せられて大泣きし、赤いランドセルで号泣したと、親から聞きました」
「小学校のプールの授業で、女の子と一緒に着替えるのも嫌でした」
中学生になり、男女で区別されたことで、自分のセクシュアリティに対する違和感が大きくなっていった。
03自分に負けんな!
スカートもブラジャーも嫌だ
「自分は男の子のはずなのに、なんで体はこんななんだろう」
「ずっと悩んでいた上に、中学生になったら制服でスカートをはかなくちゃいけなくて、ものすごく嫌でした。
「あーーーーーー嫌だ、って毎日思いながら我慢して着ていました」
身に着けるもので嫌だったのは、制服だけではない。
膨らんでいく胸のためにブラジャーも着けないといけないし、生理になったら生理用のショーツもはかないといけない。
「下着は母が用意してくれていたんですが、着たくないとは言えなくて」
「できるだけシルエットが目立たないほうがいいと思ってスポーツブラを着けてたんですが、それも嫌でした」
「で、そのうち腰痛用のコルセットやサラシを胸に巻くようになりました」
家族には知られたくなかったので、こっそりと風呂で手洗いして、自分の部屋に干していた。
「今の時代は、なべシャツ(胸の膨らみを抑えるためのFTM用のアンダーウェア)があるので少しはマシだと思いますが、それでも、家族に内緒で下着を洗濯しているFTMくんは今も多いんじゃないかな」
「僕も、体に対するコンプレックスを常に抱えていました」
さらには、中学1年生のときに「レズ」「気持ち悪い」といじめられた。
きっかけは、別の子をいじめているクラスメイトに対して、「何やってんだよ」と咎めたことからだった。
いじめを乗り越えて
「レズって言われて、すごく悩みました」
「レズって、女の子が好きな女の子のことだけど、自分は女の子じゃないし」
「じゃあ、自分は一体ナニモノなんだろう、って・・・・・・」
毎日つらくて、学校に行きたくないと言って泣いた。
「でも、そのたびに母にケツを叩かれました」
「『自分に負けんな!』って言いながら、母も泣いてましたね」
学校に行きたくない理由を母には話さなかった。
でも、もしかしたら、いじめに気づいていたからこその涙だったのかもしれない。
母の言葉が胸に響いた。
「自分に負けるな・・・・・・。よし、堂々と笑っていよう」
「いじめるやつは、勝手にやってりゃいい」
そのうちに、いじめていたメンバーが話しかけてくるようになり、最終的には主犯格だった子が孤立してしまった。
「ここで、みんなと一緒にその子のことを無視していたら『自分に負ける』ことになる」
「そう思って、自分をいじめていた子に『おいでよ』と声をかけたんです」
「そしたら、その子が『ゴメンね』って謝ってくれて」
「その後は、めちゃくちゃ仲良くなりましたね(笑)」
04父の借金と母の病気と
お人好しすぎる父
仲良くなった友だちと、集まって遊ぶのは楽しかった。
「友だちは自分を女の子扱いしてこなかったし、ラクでした」
「いつも、友だちの恋愛相談にのったりしてましたね」
「みんなでワイワイしている時間がすごい幸せでした」
「でも、自分を『わたし』っていうのが嫌だったり、友だちから本来の女の子らしい名前で呼ばれるのが嫌だったり、自分のことでは常に悩んでました」
次第に夜遊びが増え、友だちの家に泊まることもあった。
「中1のときにオールして、朝方に帰ったら、父が起きてて、新聞を読んでたんですよ」
「絶対、怒られるだろうなって思ってたら、『お前、もう朝になるから、学校に行くまで寝ろ』って言われたんですよ」
少し拍子抜けしてしまったが、おかげで自由に友だちと遊ぶ日々が続いた。
「父は父で・・・・・・なんというか、すごいお人好しで」
「騙されて借金を背負わされたり、働いていた会社で給料未払いが続いたりして、けっこう苦しい時期もありました」
ガスや電気、水道が止められて
家計が苦しいということに気づいたのは、高校受験のタイミングだった。
それまでは、父の分も母ががんばって働き、家族を食べさせていた。
「ごはんを食べられなかったことは一度もありません。僕ら兄弟が知らないとこで、母は仕事を掛け持ちしてくれていたそうです」
「姉と兄は大学に行かず、働いていました。だから自分も高校は定時制を選んだんです」
「働きながら、自分で学費を払っていけるように」
しかし、ある日、家族で住んでいた家が競売に出された。
「その頃は、電気とか水道とか、しょちゅう止められてて」
「借金の取り立てが来たことも」
「たぶん、近所の親戚たちにも助けてもらってたんじゃないかな」
「真冬に、ガスも水道も止められてて、お風呂に入れないから、ストーブの上でやかんで沸かしたお湯に、水を加えて体を洗ってました」
「兄弟でもお金を出し合って、なんとか競売は免れましたが、しばらく僕は友だちの家で風呂を借りたりしてましたね」
そんななか、母が癌であることが発覚する。
当初は働きながら定時制に通っていたが、母の看護に専念するため、仕事を辞めた。
その頃には、父の仕事もようやく少しずつ安定してきていた。
05性同一障害だと自認しても
早く自分の体を取り戻したい
「定時制に通うようになって、学校や自宅で自由にパソコンを使えるようになったので、ネットでいろいろと調べました」
「なべシャツの存在を知ったときは感動しましたね!」
「あと、テレビドラマの『3年B組金八先生』で、上戸彩さん演じる生徒を見て、初めて性同一性障害のことを知りました」
翌日すぐに、パソコンで性同一性障害について調べてみると、多くのFTMによるブログを発見することができた。
「用語の説明のほかに、ホルモン治療や性別適合手術のことまで詳しく書いてあるブログもありました」
「治療に関してはメリットだけでなく、ちゃんとデメリットも書いてあったけど、体を変えられると知ってワクワクしましたね」
「それからは、もう、早く自分の体を取り戻したい、そればっかりでした」
しかし、友だちには性同一性障害のことを言えなかった。
『3年B組金八先生』の話が出ても、興味がないふりをした。
中学生のときに「レズ」「気持ち悪い」と、いじめられた記憶がよみがえったからだ。
「でも、ネットを通じて、自分は性同一性障害だと打ち明けられる新しい友だちもできました」
「FTMくんと付き合っている年下の女の子だったんですが、実際にその子と彼氏に会いに行ったりもしたんです」
それが初めて会ったLGBT当事者だった。
相手のことも性同一性障害の自分も信じられない
「その彼氏は、まだ治療もしていなかったんで、ボーイッシュな女の子って感じの子で」
「僕は、もともと顔が濃くて、どちらかというと男顔だったから、パス度では得してましたね(笑)」
「でも、当事者に会うことができて、俺と同じだ、ってうれしくなりました」
その後、高校2年生のときに彼女もできた。
本当に自分でいいのか、と不安になったが、うれしさの方が先に立った。
そして、ようやく自分に自信がもてるようになり、友だちにカミングアウトする決心がつく。
「いつもの仲間と一緒にいるときに、恋人ができた、って言いました」
「みんながエーーーッ、て驚いたあと『実は彼女なんだ』と伝えたら、『やっと言ってくれたね』『知ってたよ』って感じで(笑)」
おめでとう、言ってくれてうれしい、友だちは口々に言った。
自分が性同一性障害かもしれないと気づいていてくれたのだ。その流れで、抱えている苦しみについても打ち明けた。
「でも、当時の自分は、自分のことを受け入れられていなくて」
「俺は男なんだ! 受け入れてくれよ! って周りに求めてばかりでした」
友だちに苦しみを理解してほしいと訴えているにもかかわらず、自分自身が自分を理解できないままでいた。
「分かるよ」「受け入れられるよ」と言われても、心のどこかでは相手を信じられない。
自分こそが自分を信じられないから。
その矛盾がもどかしく、ただただ泣きながら訴えることしかできなかった。
<<<後編 2019/12/21/Sat>>>
INDEX
06 カミングアウトと両親の言葉
07 母とお別れをする覚悟
08 植木職人になりたい
09 妻への気遣いを忘れずに
10 誰もが自信を培える場づくりを