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Writer/チカゼ

トランスジェンダーは、「シスジェンダーの人」を妬みたいわけじゃない。不平等の解消を望んでいるだけ。

「あなたはシスジェンダーである私を、心の底では妬んでいるんでしょう」。その言葉を聞いた瞬間、全身の血液が一瞬で沸騰した。

トランスジェンダーは「不幸」なのか

ものを書く仕事をしていると、思わぬ方向から石をぶつけられることはままある。冒頭の言葉はノンバイナリーのエッセイスト・ライターとして発信をしていく中で、何度か実際に投げつけられたものだ。これに対してぼくの血が瞬時に沸き立った理由と、そんな台詞が口から出てきたその人たちの深層心理を、紐解いてみたい。

「トランスジェンダーは不幸」という根底の価値観

まずは「トランスジェンダーであるぼくが、その人のシスジェンダー性を妬んでいる」という思想。これはその人たちの根底に、「トランスジェンダーはシスジェンダーより下位である」という歪んだ価値観があるからこそ出てきたものだと推測している。

「シスジェンダーこそが標準であり、トランスジェンダーは不幸な存在だ。本当はシスジェンダーとして生まれてきたかったのに、それが叶わなかった、可哀想な人だ」このような認識が、その言葉から透けて見えた。だからぼくは、激しく憤ったのだ。

ぼくたちトランスジェンダーの「生きづらさ」

ぼくたちトランスジェンダーは、たしかに「生きづらさ」を抱えている。トランスジェンダーの中でもとりわけマイノリティであるノンバイナリーを自認するぼくは、シスジェンダーを羨ましいとは思っている。

でも羨ましいのはシスジェンダーの持つ、その特権だ。だれにも差別されることなく、排斥に怯えることなく、当たり前に社会に溶け込める──いやそんなことに思いを馳せたことなど一度もない立場それのみだ。

ぼくは生まれたときに「女性」に割り振られたけれど、自分のことをどうにもこうにも「女性」と思うことができないまま、今日に至る。それを「普通じゃない」と定義しているのは社会であって、「生きづらさ」を押し付けているのも社会だ。

ぼくらの「生きづらさ」が「シスジェンダーの人たち」のせいではないことくらい、理解している。そこの分別がつけられないほど、ぼくも、他のトランスジェンダーも、単細胞じゃないよ。

トランスジェンダーであるぼくの、シスジェンダーへの嫉妬心

ぼくの生きづらさはあくまで「社会」のせいであって、「シスジェンダーの人たち」のせいではないということくらい、わかっている。それでもときどき、やるせない嫉妬を覚えるのもまた事実だ。

トランスジェンダー特有の「性別違和」

現在ぼくは、自身の性別違和を緩和するため、来年の2月に胸オペを予定している。とはいえぼくが求めているのはあくまで「どっちつかずの身体」だから、平らな胸を作る「乳房切除術」ではなくて、ほんの少しの薄いふくらみを残す「乳房縮小術」を希望している。

手術代は、決して安くはない。銀行に胸オペの申込金を振り込みに行った帰り道、やっと自分にふさわしい身体を手に入れられるかもしれないという期待と、こんな多額の手術代を払わなければ自分らしくいられない悔しさがないまぜになって、ちょっとだけ泣いた。

そういう意味では、シスジェンダーの人をたしかに羨ましく思う。性別違和という概念を生まれたときからから持たなくて済む人生はさぞかし楽だろうな、と吐き捨ててしまいたくなる瞬間だってある。もちろんそれは、正しいものでも肯定できるものでもないけれど。

トランスジェンダーに対して「シスジェンダーの自分が羨ましいのでは」と問う暴力性

性別違和を持つぼくは、生まれたままの身体と心に齟齬がない人を妬んでいる。それは紛れもない事実だ。自分のジェンダーアイデンティティと身体が剥離していないその状態は、ぼくにとっては喉から手が出るほどにほしいものだ。ぼくがそれを手に入れるためには、多額の金と多大なリスクが不可欠だから。生まれながらにそれを達成できているシスジェンダーを羨ましいと思う気持ち自体は、否定しない。

でも、だからこそ、シスジェンダーの人がトランスジェンダーであるぼくに対して「シスジェンダーの私が羨ましいんでしょう」なんて台詞を吐くのは、死ぬほどに残酷だよ。侮蔑的で暴力的で、とても受け流せる言葉じゃなかった。

ぼくがトランスジェンダーとしてこの世に生を受けたのは、単なる偶然だ。ぼくが選んだわけじゃないし、だれが決めたわけでもない。シスジェンダーの人に嫉妬しちゃうときだってあるけれど、本当に恨むべきは社会であることくらい、繰り返しになるけれどちゃんとわかっている。

トランスジェンダーのぼくが欲しいのは、金とリスクなしで自分の身体を手に入れられる環境と制度と技術だけ

ぼくが真に望むのは、トランスジェンダーが金とリスクなしで自分の身体を当たり前に手に入れられる環境や制度や技術、それのみだ。本当に求めているのは、その不平等さの解消なのだ。リスクについては、ぼくが受けようとしている手術に限らず全ての医療行為にあるものだし、現代の技術ではどうしようもないんだろう。ぼくは医学的なことについては何ひとつ知識がないから、よくわかんないけど。

でも、環境や制度は、社会が決めている。つまりはぼくたちトランスジェンダーの生きづらさを生んでいるのは、社会なのだ。トランスジェンダーのみが自身の望む身体を手に入れるためにこれだけのコストとリスクを払わねばならない状況は、どう考えたって平等とは言えない。

ぼくがシスジェンダーの人たち、性別違和を持たない人たちに、妬みや嫉みを向けることは、間違っている。それをぶつけてはいけないし、もし仮にぶつけたらぼくを張り倒してくれて構わない。だけど、そういう気持ちを抱いてしまう背景くらい、せめて想像してくれよ。

「シスジェンダーの私が羨ましいんでしょう」なんて残忍な台詞を投げつけられたら、もうぼくはどうしていいかわからない。正直、この言葉をぶつけられたときは数日間眠れなかったし、思い出しては嘔吐していた。

「トランスジェンダーでよかった」とは言えないけれど

トランスジェンダーである自身の性別違和を鬱陶しく思う一方で、ぼくはぼくのジェンダーアイデンティティに誇りを持っている。だからその意味においても「シスジェンダーの私が羨ましいんでしょう」という言葉を発した人たちを、心から軽蔑した。

ノンバイナリーであることは、ぼくの大切なアイデンティティ

身体と心に齟齬があることは、そしてそのすり合わせに莫大な金とリスクを払わなければならないことは、とても苦しい。悔しいし腹が立つし、風呂で自分の乳房を見ながらひとり嗚咽することもある。月経中なんかは特に、包丁でそのふたつのできものを切り落としてやりたい衝動に駆られることもある。

でも一方で、この男女二元論に囚われない「ノンバイナリー」というセクシュアリティを、誇っていたりもする。どちらにも、どこにも所属しないこの感覚は、案外楽しい。ノンバイナリーじゃなかったら、味わえなかったものだろうし。

ノンバイナリーであること、トランスジェンダーであることの苦しさは、それ自体に因らない。何度だっていうけれど、ぼくの生きづらさを生んでいるのは社会であって、ぼく自身のセクシュアリティそのものじゃないのだ。

「トランスジェンダーでよかった」とは言えないけれど

「トランスジェンダーに生まれてよかった」とは、もちろん言えない。そこまでぼくは人間ができていないし、この社会はそんな台詞を本心から言わせてはくれない。それでもこれだけは、ちょっと耳を傾けてほしい。

ぼくたちは、トランスジェンダーは、「不幸」ではない。トランスジェンダーを「不幸」たらしめているのは社会であって、ぼくたちの存在そのものが「不幸」なんじゃない。ぼくたちに「不幸」を強いているのは、環境と制度と、「トランスジェンダーって不幸だよね」「シスジェンダーに嫉妬してるんでしょ」という歪んだ価値観を抱く人たちだ。

トランスジェンダーじゃなかったら、わからなかったこと

ここまで、トランスジェンダーとして生まれたぼくの葛藤を吐き出してきたけれど、それでも「よかったこと」が0というわけではない。少なくともぼくは今、そう思っている。

もし自分がトランスジェンダーじゃなかったら、ノンバイナリーじゃなかったら、LGBTという言葉そのものを知ろうとさえしなかったかもしれない。テレビでいわゆる “オネエ” タレントがいじられていてもヘラヘラ笑っていたかもしれないし、同性婚法制化や夫婦別姓についても興味を持たなかったかもしれない。

そしてなにより、学部・修士でジェンダー論を専攻することもなかっただろう。ひょっとすると、こうして文章を書くことを生業としていなかった可能性だってある。

そういう意味では、ノンバイナリーでよかった。踏みにじられた尊厳や剥奪された権利を取り戻すために、必死でもがいている人たちを冷笑するような生き方よりは、不便でもなんでも、こっちの人生の方がよっぽどマシだ。

すべてのジェンダーは対等で、そこに優劣などない

トランスジェンダーに対して、意識的に差別をしたわけではないのだろうけど

冒頭の台詞をぼくにぶん投げた全員が、なにもトランスジェンダー及びセクシュアルマイノリティに対して明確な差別的感情を持っているわけではないと思う。もちろん、あからさまに差別的思想を抱いている人もいたけれど。

だからそのうちの何名かとはDM等々でお話をして、謝罪を頂いている。訂正もしてもらったし、心の奥底からの反省を長文で綴ってくれた人もいた。その中で見えてきたものは、無意識下での差別感情だった。

彼らの多くは、「理解する側」「受容する側」対「理解してもらう側」「受容してもらう側」という、シスジェンダーとトランスジェンダーにまるで優劣が存在するかのような捉え方をしていた。

シスジェンダーとトランスジェンダーに、優劣などない

トランスジェンダー、つまりはマイノリティが、マジョリティであるシスジェンダーに「受け容れてもらう」努力をしなきゃいけなくて、「受け容れてもらう」からには低姿勢でいなきゃいけない。いつでも遠慮しなくちゃいけなくて、「配慮してもらって当たり前」みたいな顔をするのは言語道断・・・・・・。彼らの意見をまとめると、おおむねこんな感じだった。

いうまでもないけれど、シスジェンダーとトランスジェンダーに優位も劣位もクソもない。すべてのジェンダーは対等で同列で、それぞれ互いに尊重しあうべきであって、その姿勢こそが共生だろう。

マジョリティ側にマイノリティ側が「お願いをする」なんて関係性は、どうあっても正しくない。そういう認識は歪んでいるし、いくら口先で「差別などしていない」と言い張っても、それはもはや差別でしかない。

だれしもがみな、ある側面ではマイノリティなのだから

ぼくはセクシュアリティにおいても人種においてもマイノリティだけれど、その一方でマジョリティ性も保持している。そのひとつが、「車いすユーザーではない」という属性だ。下肢に障害を持つ人たちが、どのようにして排泄を行うのかも知らなかったし、オストメイトの方の存在すら認知していなかった。

ヘルプマークの意味さえ、ぼくは成人するまで理解していなかった。かつてのそんな自分の無知を、今は死ぬほどに恥じている。

そのため、ここまでマイノリティとしての葛藤と苛立ちを書いてきたけれど、ぼくはマジョリティの無意識のおごりもなんとなくわかる。自分の当たり前を、一般的で普遍的なものだと勘違いしてしまうのだ。自分こそが標準だと、知らず知らずのうちに思い込んでしまうのだ。

だからこそ、想像したい。自分と異なる立場に置かれた人たちの苦しさや哀しさに想いを馳せることを、忘れないでいたい。きっとだれもがある側面ではマイノリティで、それぞれに違った「生きづらさ」を抱えている。その意識をこの社会に生きる全員が持っていられたら、きっとみんなもう少しだけ、楽に生きていける気がする。

 

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