ある研究者は「ジェンダーは衣服のように脱ぎ着できるわけではない」と語っています。確かに、医療的、法的な面からみれば、紙面上の性を変えることはできるでしょう。ですが、元々縛り付けられていた社会的、文化的に構築された性である、ジェンダー、そして性別移行した際に期待される別のジェンダーというものは、どのような形であれ、常に残ります。
しかし、「服」そのものあるいはもっと広く「ファッション」についてはどうでしょうか? もちろん、ファッションもジェンダーの規範から自由なものではありません。ですが、ちょっとした「抜け道」はあるように思うのです。今回は、ファッションと性の関係性から、私たちが性的存在として社会を生きるための生存戦略を少し考えてみたいと思います。
ファッションとジェンダー規範のひねり
私たちは、日々、意識的にも、無意識的にも「女性らしさ」や「男性らしさ」という「ジェンダー規範」を社会から課せられています。例えば、シス女性と僕がデートをした時、奥のソファー席を譲らないといけないだとか、どこへ行くにしても女性はお化粧をしなければならない、といったものです。
もちろん、先ほどもお話ししたように、こういった規範をぐるりと変えることは難しいです。しかし、ファッションは、草の根的なものから、大きなものまで、この規範をひねることができるような役割を果たす可能性を持っています。ここでは、まずは身近な例として、僕自身の体験をお話ししたいと思います。
ジェンダー・クィアの経験
僕が名乗っている「ジェンダー・クィア」とは、広い意味では「男/女」どちらにも帰属できないようなあり方を指します。ですが、「ジェンダー・クィア」とは、直訳すると「ジェンダーを『ずらす』」、つまりジェンダー規範をひねるような表現のあり方でもあります。
ですので、もちろん自分の好みも含まれていますが、普段から青い口紅を塗ってみたり、フェイスペイントをしてみたり、あえてメンズに見えるレディースで服をそろえたりと、少し風変わりなことをしています。
そうすると、面白いのは、周りの反応です。全てではないですが多くの日本人男性はぎょっとした顔をするのに対して、海外の男性は逆にナンパをしてくることがしばしばあります。ここには日本人男性が「女性らしさ」の性的魅力として期待しているジェンダー規範とのギャップ、そして、日本で求められているジェンダー規範とは違った表現が、ファッションから可能なことが垣間見られます。
ファッションと性「音」「角度」
もう一つ、僕の体験をお話しさせてください。最近、何かとトランスジェンダー女性のトイレ使用があたかも「ジェンダー問題」であるかのように吹聴されています。
ですが、そもそもトイレとは用を足す所であって、「ジェンダー問題」に必ずしも関わるものではないはずです。では、どのような形で「ジェンダー」が「問題」として出てくるのでしょうか。この点も、ファッションの観点から少し考えてみたいと思います。
僕は、いわゆる「誰でもトイレ」が空いていない場合、男子トイレを使います。その事をお話しすると「大変じゃない?」といったお言葉を頂きますが、悲しいかな男性はほとんどファッションなんて、特にトイレでは気にも留めていません。繰り返しますが、用を足すことに集中しているのです。
では、繰り返しますが、どんな時にトイレにおいて「ジェンダー」が立ち現れてくるのでしょうか?
一つには「音」です。僕が駆け足で洋式トイレ(ストッキングをはいている場合が多いので立小便はなかなか難しいです)まで行こうとしたとき、僕のブーツやヒールの「カッ、カッ、カッ!」という音に多くの男性は反応し、僕に奇妙な視線が向けられます。
ここではジェンダー規範はひねられているというよりも、男子トイレにおいて音のする靴で入ってくる「男性」は、あまりいないという規範が働いているといえるでしょう。ファッションが、ジェンダーをほとんど必要としない空間において、その規範を浮き上がらせる可能性がここから見えます。
今度は、逆のお話をしましょう。それは、ファッションの「角度」のお話です。男子トイレは、広い駅でもない限り、洋式は一つか二つに限られています。そうなると、僕は、しばしば、洋式が空くのを待つ列に並ぶことになります。ポイントなのは、この列をどの「角度」から見るかです。
もし、入り口の関係で列を「後ろから」みた時、多くの男性は間違って女子トイレに入ったと思い、出ていってしまいます。後ろ姿だけだと僕の髪の長さや洋服などのファッションから「女性」に見られるのです。逆に、「斜め前から」見えるような形で列に並ぶ場合、男性は僕を一瞥して、普通に列に並びます。おそらく、正面から見た時、僕は「派手なメイクをした男子」のように扱われているのだと思います。
この僕の経験から見えてくることは、外性器が云々という以前に、相手のファッションをどの「角度」で見るかでジェンダー規範が発生しなかったり、発生したりするということです。
もしうまくトイレの設計ができていれば、言い換えれば、ジェンダーが気に留められないようなファッションに合わせた「角度」で形成されていれば、トイレでのジェンダー「問題」など起こらないのではないでしょうか。
「セクマイにおける遊び」という生存戦略
身に着けているもの――ファッションも含め――は、時にその人の生命や存在に関わるものとなります。例えば、皆さんは「ヘルプマーク」というのをご存知でしょうか? 都内の鉄道会社を中心として、目には見えない障害や疾患をもつ方のためのもので、優先席を譲っていただくためのツールです。
僕も、電車などの閉所などで起こるパニック障害をもっているため身に着けています。ですが、気づかれることは稀です。ほとんどの人はスマホに夢中で、一瞥をくれることもありません。ですが、ヘルプマークを身に着けている当事者にとっては、時には命にも関わる問題です。
ファッションの場合にも、ジェンダーの文脈で、同じような問題が見られます。スカートを履いているトランス女性、丸刈りにしているトランス男性、こう言ったファッションのあり方は周りから奇異な目でみられ、時にその存在に対して「腫物に触るかのような」、あたかも自分と全く異なった生命体かのように、扱われる場合が見受けられます。そして、ネット空間でのトランス女性差別に見られるように、あたかもそのファッションそれ自体が、シス女性の権利を侵害する「凶器」であるかのように扱われることすらあります。
少し、重たい話になってしまいましたが、ここではファッションから、ジェンダー規範が根付いている社会において、少し気楽な仕方での生存戦略を考えてみたいと思います。
服という規範
まず、ファッションが基本的に社会においてどのような役割を果たしているのか、みてみましょう。フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスは以下のように記しています。
私たちは服を着た存在たちと関わっている。人間はすでに身繕いを基本的に心がけている。[…]社会は整えられている。もっとも気を遣う社会的関係は諸々の外見のなかで起こる。外見は、見た目を保護するが、この見た目が、あらゆる曖昧なものに真摯さの衣装をまとわせ、それを世間に適ったものとする。外見を壊すものは世界から切り離される。(Levinas,Emmanuel, De l’existence à l’existant[1947](2004,Paris,Vrin), 60)
思い出してみましょう、中学校での髪形やスカートの長さが校則という名の「外見」だったことを。あるいは、周りを見てみましょう、どのサラリーマンもそれと分かる短髪と黒いスーツを着ることで社会の「外見」に則っていることを。そして、レヴィナスが言うように、この「外見」を崩しかねない曖昧なファッションは社会から切り離されることを。
例えば、僕は付き合ったパートナーから「両親と会う時だけは、『普通』の格好を」と何度か言われました。
こうしてみると、ファッションは逆に私たちをジェンダーの規範に押し込めるもののようにみえます。しかし、ファッションに私たちがジェンダー規範に「押し込まれている」のか、それとも私たちがファッションをジェンダー規範に「押し込めている」のか、どちらなのでしょうか?
ジェンダーという虚構の中で「遊ぶ」
僕が学部生だった頃、ある教授がこんな話をしていました。「確かに、巨大テーマパークに足しげく通い世間の問題に見向きもしない人々を私は好きになれないし、資本主義的で、非政治的だ。しかし、それまでテーマパークのキャラクターの格好をして遊んでいた人が帰宅の電車でははしゃいだ様子もなく静かにコスプレを外す、そんなやり方はうまいことテーマパークのような虚構と付き合っているのではないか」と。
冒頭でお話ししたように、ジェンダーは脱ぎ着できるようなものではなく、社会が私たちに要求する規範です。しかし、この規範は完全に変わることのないようなものではなく、その社会の文化や制度、政治において変化する一種の虚構です。例えば、性別の記入欄が空白になっており、自由記入な場合も昨今増えてきたように。
ですが、多くの場合、中学生も、社会人もこの規範を「自然なもの」として受け取ってしまっているように、ジェンダー規範は、虚構でありながら「自然にあるもの=変えることのできないもの」として受け取られてしまいます。虚構が、習慣化し「自然なもの」になるのです。それは巨大テーマパークを夢の国として自然に受け取り、その虚構さに気づくことすらないまま遊ぶ人々と似ています。
しかし、先の教授が話していたように、虚構を虚構として受け入れて、そこでは楽しみながら、現実との折り合いをつけてゆく、そんなやり方もあるのではないでしょうか。
確かに、私たちは「男はスカートを履くものではない」という発言のように、ファッションによってジェンダー規範に「押し込まれて」います。ですが、「女性になりたいのならスカートを履かなければ」というのはファッション「を」ジェンダー規範に押し込めていることにならないでしょうか? つまり、「スカート=女性」という規範に。
例えば、パンツスカートのように男女どちらとも受け取れるようなファッションから始めることで、ジェンダー規範という虚構に乗っかりつつも、その虚構を自覚しつつ「遊ぶ」こと。それは常にジェンダー規範がついて回る社会を生きる、一つの生存戦略となりえます。
ファッションの問題は、セクマイにおいて、学生服の多様化のように真剣な問題です。ですが、「問題」だけとなってしまうと、ファッションを「遊ぶ」という側面が見えなくなってしまうように感じられます。少しだけでも、ジェンダー規範を「遊ぶ」選択肢もあっていいのではないでしょうか。
ささやかなジェンダー革命を
最後に、ファッション、社会、ジェンダーを含んだ大きな革命を取り上げ、一人のジェンダー・クィアとして、ファッションを通して、ささやかな「ジェンダー革命」が起こせる可能性を示唆したいと思います。
フランス五月革命
1968年5月、フランス人、またフランスの文化、思想を愛する人にとってこの年と月は忘れられないものです。学生が中心となり起こったこのフランス五月革命は、フランスのありようを変える大きなものでした。
ファッションにおいて重要なことは、それまでスカート、ドレスが主体だった女性の服装に対して、デモに参加した女性たちはみなジーンズやサンダルなどのファッションだったことです。それに伴い、オートクチュールと呼ばれるハイブランドもそのブランド方針を変えざるを得なくなりました。
このように革命を通した社会におけるファッションの変化が「女性はスカートをはくものだ」というジェンダー規範を覆したのです。
ささやかなジェンダー革命
最近、僕はささやかにファッションの革命をしています。例えば、女性もなかなかはかないような派手な厚底のブーツをはいてみたり、日本や海外の古来の民族のメイクをしてみたり。そうしていると、面白いことが起きます。
ある時、そのブーツを履いて僕が閑静な住宅街を歩いていると、小さな子どもが僕のブーツを見て「かぁいい、ぶーつ!」と叫んだのです。その子がいったいこれからどんなファッションを通して、この社会のジェンダー規範と出会うのか、それは僕も予想がつきません。ですが、「かぁいい、ぶーつ!」という叫びがまだ何処にもないようなジェンダー表現の「未来」を照らしてくれている気がしました。
セクシュアルマイノリティ、特にトランスジェンダーの世界はどうしても見た目と社会との関係性や闘いがでてきます。しかし、その中でまず目につくであろうファッションについて深く、ファッション業界や専門家等とトランスジェンダーの活動家や研究者との間で議論が交わされてきたとはいえないように思います。
保守的だと言われるかもしれません。「着たいものを着る権利を!」と声高に叫ぶことも必要でしょう。ですが、少しのファッションの変化、ジェンダー規範の「遊び」という生存戦略を通して、ジェンダー規範への革命を起こすこと、そんなささやかな革命も一つの手段だと思うのです。